日本人は米を食ってきた、というのは誤解

日本人は米を食ってきた、というのは誤解。

 日本人はズット米を食ってきたように思われますが、米だけはありませんでした。雑穀を混ぜていました。江戸から明治、地方によっては昭和30年代まで、米だけというのは非常に豊かな人々。たとえ農民でも、白米というのはゆたかな地主だけだったと。麦を2〜4割そのほかヒエ、アワなども大切な雑穀でした。
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水俣村は、幕藩時代肥後藩薩摩藩の藩境の村で、寛永九年(1632年)細川が肥後藩主になると、庄屋以下本百姓243名の中から、111名の地侍を任命する。寛永10年の葦北郡人畜改帳によると、水俣村の一人当たりの田畑所有高は一石八五二で、肥後全領平均三石三四〇の約半数であった。一方、家族構成は一軒当たり二・五人で、肥後平均一・五六人より著しく高かった。しかも村の総人口2,587人中に占める名子、作子以下の隷属農民とその家族の割合は、三四・九%に達していた。侍と飢民があふれているようなこの小さな村に、明治の幕が開かれた。

村人にとっての明治維新とは、侍が支配する世の終焉を意味したが、西南の役が始まり、村は敗走する薩軍と追う官軍の激戦地となった。そしてすでに地租は金納制となり、西南の役後税金は上がった。現金収入のない村人たちは、税金を納めることができず、やがて労働意慾も喪失、村々の間で博打が流行る。
そこに、少数の金貸しが登場する。金貸したちは、まるで赤子の手をひねるように、村人たちの狭陰な田、畑、山を取り上げ、地主となっていく。このプロセスは遅くとも明治中期には完了したとみられる。更に村には、もう一人の大地主が居た。旧藩主細川さんで、のちの肥後製膿株式会社である。御領家と呼ばれた細川さんが、ハゼ畑という特殊な形態をとった村の畑の大部分を所有していたのである。前近代との対比でいえば、明治期の水俣村の隷属農民層は、おそらく九割以上に達した。その小作人たちの窮乏ぶりと地主たちの栄華にみるように明治の水俣村の骨格とは、地主による小作人の支配で小作人が米を炊くのは一年中で盆と正月と米摺りするときだけでという。