幕府と輸入米

慶応3年9月、大阪に米騒動がおこり、江戸には「困窮人の集まり」と称する貧しい人々の運動が起こっていた。

たまたまアメリカ公使ヴァン・ヴォールクソバーク一行が江戸市中にはいったとき

「われわれが難渋するのは、夷人が渡来して諸物価が高値になったからだ」

困窮人たちは言いながら、公使一行に小石を投げた。

公使はつきそいの武士の制止によって、ようやく困窮人のうずから脱出することができた。

「幕府がすみやかに外米輸入の処置をとり貧民に分配するよう」

アメリカ公使は外囲奉行をつうじて勧告したのである。

このころイギリス公使バークスは、幕府に外米輸入をすすめる書簡を提出していた。

「わたしは多大の関心をもって、米価高騰の結果、さいきん江戸におこった大騒動のことを聞いた。江戸の町は何日ものあいだ下層民の群れでみたされた。彼らは米の貯蔵所や米屋を打ちこわした。そして多数の窮民は東禅寺の英国公使館をおとずれた。窮民たちは害をくわえることなく、ただ救助を乞うのみであった。しかし、おそらく、外国人がある知られない方法で、現在の食料品の騰貴に関係しているという、武士のいだく偏見のため、外国人が暴力にみまわれる事件が一再ならずおこった」

さらに、先年中国で凶作のとき、外米の輸入によって飢饉と暴動が回避された例をあげて、

「人民の困苦を緩和し外国人にたいする不当な偏見をとりのぞくためには、外米を横浜に輸入すべきである」

と説き、

「もし穀物貿易がさまたげられるならば、人民はかならずや、ついにかれらの苦痛の真の発起人を発見するにちがいない。そして大衆的混乱は、当然大衆的窮乏をひきおこした人々に向けられるであろう」

と警告をくわえたのである。

 まもなく幕府は米英両国公使の勧告をいれ、十月外米を外国人より自由に買入れることを許可し、米は重要輸入品の地位をうることになった。