石川啄木と日清戦争

石川啄木日清戦争当時の様子を回顧してつぎのように述べている。

 「日清戦役の時は、我々一般国民はまだほんの子供に過ぎなかった。反省の力も批評の力もなく、自分等の国家の境遇、立場さえ知らぬものが多かった。無論自分等自身の国民としての自覚などをもってる者は猶更少なかった。さういふ無知な状態に在ったからして、「庸てや懲せや治国を」といふ勇ましい軍歌が聞えると、直ぐもう国を挙げて庸てや懲せや清国をといふ気になったのだ。反省もない。批評もない。その戦争の結果が如何な事になるかを考へる者すらないといふ有様だった」

明治雛新直後から薩長政権は佐幕派などの言論を弾圧するために新聞紙・出版の取り締りを行ない、表現の自由を抑制するための治安立法を次々と行なった。薩長政府を批判した記事を書いた者は処罰されることになった。さらに集会条例、同改正追加、新聞紙条例改正、上書建白類の公表禁止等のよってそれが強化された。このような体制で国民、国家の根幹にふれる重要な問題について、真実を知り、自由な意見を交換することによって、日本の将来の進路につき自由にその方向を選ぶ可能性をほとんど全面的にとざされてしまったのである。つまり重要な事実、思想の自由な伝達の不可能な社会で、国民意識の健全な成長は望めない。戦争に対する否定的な批判的な思想の表現、そのような思想を形成するために必要な事実の報道の困難な条件下では、国民はおのずから権力の志向する方向にのみその視野と思想とを限定せられることを免れなかったのである。日本が言論の自由が最大の効果を期待されるべき局面において、かえって言論の自由が撲殺される我が国の場合には、国民を容易には排外主義的ナショナリズムの方向へ連れ去り、清国に対する優越感をうえつけ侵略を侵略とも思わぬ思想も現在の日本人のなかにつちかっているのでしょう。