日本郵船会社の誕生の裏話

薩長政府は、運送、鉄道、鉱山、工場などを運営するが、経営上赤字状態のものが多かった。そこで運送について詳しく述べてみると、維新政権は1870年に洋式船舶による海運業の廻遺会社を起すが、経営不振のため解散して、1871年1月にはその船舶および業務一切を継承して廻遭取扱所が作られ、廃藩置県後にはこれを拡張して郵便蒸気船会社となった。そのさい各藩より収めた汽船十数隻を払下げ、その代価25万円は永年斌上納の約束とし、これら汽船の修理費60万円をも追々下付すべきことを約した。だが、会社の経営は不振で衰運に向い、1876年にはついに解散するに至ったのである。1874年に征台のこの役の起ったとき、政府は軍隊食糧の輸送を太平洋汽船会社に托そうとしたが、アメリカが局外中立を宣言したためこれは不可能となった。そこで政府は1,570千ドル余を以て外国汽船13隻を購入しその運用監督を三菱会社に委托した。1875年9月に13隻の軍用船を無代価で三菱会社に払下げ、1875年より向う15年間年々250万円を航海助成金として下付し、そのうえ海事教育に従事するために一年に1万5千円をも下賜することにしたのである。さらに1876年9月には、解散した郵便蒸汽船会社の汽船18隻を無償で交付したのである。の上海線の三汽船と倉庫その他の陸上設備一切を買い取るために、政庁から81万ドルの貸下げを受けるのである。西南の役にさいしては軍事輸送にあたり、船舶購入の補助として一時金70マ万ドルの貸付を乞うて許された。こうして、1875年から1883年までに三菱に与えられた助成金、貸下金、払下げ船代価などを合計すれば、八百余万円にたっし、うち390万円の助成金は返済を要せず、残りの貸下げ金も無利息あるいはきわめて低利で、返済は長期間の年賦であった。まことに杜撰な助成の仕方であったといわねばならない。三菱の海運業独占の非難の声が高まったとき、政府は1882年、これに対抗する半官半民の共同運輸会社を設立させ、両者のあいだに三年にわたって激しい競争が行われた末、両者の合併にいたり、日本郵船会社の誕生をみることとなったが、政府は同社にたいしても向う15年間は利益が年八%に満たぬときはそれを補給することを約した。

参考

この裏話

其前年、則ち十五年には朝鮮に金玉均の乱あり。又、共同運輸会社創立せられて、三菱会社と競争あり。予がほか仄(た)に聞く所によれば、当時外務卿たりし井上馨氏は、大に朝鮮に於て事を為すの志あり。然るに我国は海国たるを以て、一旦事ある時は運送の為に船舶を要すること多けれども、当時唯一運送船会社、三菱所有の船の如きもののみにては用に応ずべきもの少なし。故に平時には運送船、戦時には武装輜重船を供え置かんことを計画し、三菱会社が運送船業を専有し居るを以て、則ち之に対する競争者を興し、三菱社が運送の利益を壟断することを防ぐを口実とし、民間の有力者に説き、政府も力を添えて、共同運輸会社なるものを起し、幾隻の望国なる運輸船を新造して運送業を創む。三菱は井上氏の真意の所在を知るや知らずや測られざれども、差当り競争に勝つを目的として斃而止(たおれてやむ)の運動を始めたり。其極、無償にて荷物・旅人を運送するに至り、傍には、政府の有力家に請託し、或は井上氏を恐嚇し、終に共同運輸会社と三菱社合併の議を起さしめ、議成りて現出したるもの即ち今の郵船会社なり。此合併に、三菱は掛ケ引を巧にし、船舶及び所有の不動産・動産を高価に積りて株金となしたるを以て、依然郵船会社内に勢力を有し且つ其資産を一時に増加したりという。されど井上氏が朝鮮に対する好功心は猶止むことなく、十七年には清国が仏国とキンを開きたるに乗じ、朝鮮の野心家を慫慂して内乱を起さしめ、大に其内政に干渉せとす。(林董の手記より)

もうこの頃になると海外遠征、つまり朝鮮にたいする軍事行動を視野に入れたもので、日本が朝鮮半島に進出するためには、まず、朝鮮政府への浸透の度合いを強め、清国の影響力を駆逐することから始めなければならなかった。