明治初年に試みられた米穀輸出

統計上米の輸出は明治五年までは載っておりませんが、明治初年に海外輸出の試みついての形態が青森県徴士として大蔵省に出仕し、貢米の処理に当った飯田巽の手記で次のように述べられている。

「是より先(明治五年)井上大蔵大輔計画して廃藩引継の米穀を在横浜米国商オールス商会に委託して広く欧米各国に輸出し需用の如何を試みたり。巽が前年米掛となるや其挙半途にあり。爾後之が処分を担任し、此年(明治六年)迄に米高百弐拾万石、此代金三百余万円の取引を了し、其決算を完結し利害得失を詳悉し、以て其局を結びたり。是巽が大蔵省に在て大事件を処理したる始めなりし」

明治初年に試みられた米穀輸出は、輸出振興の一環であったにとどまらず、財政上により必要にせまられていたのである。