米と日本人と朝鮮

開港後の朝鮮からの米穀輸入金額は、韓国経済通史によれば、明治12年度輸入総額61万円で米穀は58.6%であるから36万円、明治13年度輸入総額125万円で米穀は58.1%であるから72万円になっております。

ちなみに日本帝国統計年鑑よれば、明治12年度の輸入総額は67万円で、明治13年度輸入総額137万円で、同じ水準を示しており、日本帝国統計年鑑は明治15年に創刊されたもので、韓国経済通史よる数字はほぼ信用に値するものと考えられます。

明治15年以前は、日本帝国統計年鑑を参照して、以後は大蔵省関税部によって創刊された大日本外国貿易年表をもって見れば、朝鮮が開港後の明治10年7月1日から明治15年6月30日までの朝鮮からの総輸入金額は510万5千円です。

1880(明治十三)年8月、朝鮮の修信使金宏集の一行が来日し、関税にかんする不平等の改正について日本政府と交渉し、あわせて米穀の輸出を禁止したい旨を述べ、その時の外務卿曰く

「・・・米穀ハ即今貴国輸出物中最多旗ノ物トス之ヲ禁スルハ貿易ノ過半ヲ禁スルニ同シ・・」と言うておるから、明治10年7月1日から明治15年6月30日までの朝鮮からの総輸入金額は510万5千円の半分以上、255万円以上は米穀であったのはほぼ間違いないと思うが。

当時の日本は輸出・輸入ともに取扱いは外国貿易資本の手でほとんど独占的に行なわれたんだよ。

政府保護によって日本内商の直貿易が発展した明治14年においてさえ、内商の取扱い率は輸出15パーセント、輸入2パーセントにすぎない。

貿易海運もイギリスのP&0汽船会社、アメリカの太平洋郵船会社、フランスの帝国郵船会社等の外国海運会社がほぼ全面的に掌握し、日本の沿岸航路までその支配下にある、という状態であった。そればかりではない。貿易金融もオリエンタル銀行、チャータード・マーカンタイル銀行、香港上海銀行、コントワール・デスコント銀行などの外国銀行の支配下にあった。外国銀行は、ぼう大な資本と外国貿易商の国際的連携によって、外国為替業務を独占していた。

当時の東洋貿易の国際通貨であった洋銀や外国銀行券の一方的な供給機関たる機能を果たして、外国人貿易商は活動の舞台をひろげ、莫大な利潤を得ていた。海外市場の価格と横浜市場のそれとは、つねに大きなひらきがあったからです。

朝鮮の開港後の日本は、朝鮮へ売るものが見当たらんので、その地位を利用して欧州製品を朝鮮に転売して暴利を得ていた。

日本商人によってもたらされた新しい欧州製品の入手のためには、農産国としては農産物を中心とした生産物を手離す以外に方法はなく、その海外流出は必至であった。日本も欧米に対しては同じような状態だったから、米穀が海外に流失した。

朝鮮開国にともない釜山、元山などの開港場に日本人穀物輸入商がつめかけ、米、大豆など買占め、日本に輸送した。買占めはつぎのような方法によっておこなわれた。すなわち「日本人は……耕作者手前二自ラ農業地方ヲ巡視シ若クハ代理者タル韓人ヲ巡廻セシメ通例収穫ノ一半ヲ分得スルノ条件ヲ以テ農民二資金ヲ貸与シ秋二重レハ再ヒ契約地方ヲ巡廻シテ農産収穫ヲ分得シ之ヲ貿易港二送致シ其貸与スル所ハ米穀ノ買売相場ヨリハ余程低圧ナルヲ以テ豊年エバ莫大ノ利益ヲ見凶作ニモ損失スル所少ナシ」(韓国誌)といった高利賃的方法であった。このような米穀引当資金貸与の方法によって、米穀の多量が凶年の場合でも日本人穀物輸入商の手に入り、その損失はすべて住民の肩にかかったのであって、このため朝鮮政府は1889年に至って穀物輸出禁止のための防穀令を布告し、住民の日本商人に対する反抗もまた激しくなった。当時、日本商人は、釜山においてすら日本軍檻の碇泊によってはじめて商業を営むことができたとまでいわれている。

朝鮮との清国と日本との貿易比較を貿易統計上の数字で見れば、朝鮮からの輸入は圧倒的水準、総額の95%以上が日本へ向けられておるし、朝鮮への輸出でも圧倒的優勢が保たれ、日清戦争前あたりでようやく日本と清国への輸出が同額になる。

統計上は、朝鮮貿易を支配していたのは、日本国であることが歴然としていたことがお分かりいただけたと思う。

統計上では、1882年から1889年の7年間は低迷しておるが、1890年は圧倒的水準に達して以後は順調に米穀を輸入している。


日本貿易精覧よる対朝鮮貿易は

明治13年度、輸入 978千円、輸出1,260千円
明治14年度、輸入1,945千円、輸出1,372千円
明治15年度、輸入1,778千円、輸出1,340千円
明治16年度、輸入2,248千円、輸出1,059千円
明治17年度、輸入 338千円、輸出 408千円
明治18年度、輸入 461千円、輸出 471千円
明治19年度、輸入 829千円、輸出 563千円
明治20年度、輸入 552千円、輸出1,010千円
明治21年度、輸入 707千円、輸出1,042千円
明治22年度、輸入1,251千円、輸出4,364千円
明治23年度、輸入1,466千円、輸出4,033千円

以上のように推移している。

もちろん上記には金地は統計上別枠になっておるから、含まれていません。

統計上(大日本外国貿易年表)の数字よれば、対朝鮮主要輸入品は豆類、米、生牛皮が三大輸入品で、これによってみると、米・豆票輸入額の過半を占めるようになったのは1887年以後であり、とりわけ1890年以後、米の輸入が急増し、米・豆票の輸入額が総輸入合計額の約九〇%近くにまで達していることが判明する。

また朝鮮から見れば、全輸出額の九〇%以上が日本に輸出されたことになる。たとえば1892年における『朝鮮貿易史』掲載の統計によると、日本九〇・九%、中国七・九%、ロシア二.二%となっている。このことの示す事実は、いまや朝鮮が日本の強制的な食糧供給地に置かれるに至ったということであろう。

朝鮮国内でもっぱら主食となる食糧を生産しながら不足におちいるという状態を改善するために「防穀令」が朝鮮政府によって出されたが、朝鮮の米穀を必要としていた日本はいうまでもなくこの穀物輸出禁止令に反対し、そのため1893年12月から94年3月までに出された防穀令をめぐって両国のあいだに防穀令事件という外交問題を惹起させ、軍艦を派遣して軍事力の威嚇により朝鮮政府に賠償金を支払わせるという事態にまで至っている。

朝鮮米輸入は農業の停滞と都市労働者人口の増大とによって生じた食橿不足を緩和し、日本の若い産業資本をして資本蓄積を加速することを可能にした。日本が工業をある程度まで急速に発展させることができたのは、一つには安価な朝鮮米が存在したからです。