1885年の朝鮮

経営の単純さ故に役畜の数も限られている。ポニーと牡牛と牝牛を同時に飼っている農家は稀である。これらの内の一頭だけで、一人の朝鮮人にとって農作業と薪の調達、また一年分の干魚と昆布を市場から運ぶのには十分である。家にはさらに、やはり限られた数ではあるが、犬や隊や牝鶏もいる。犬は豚や牝鶏と同様に、祭日の食卓を賑わすために飼われる。犬の肉は朝鮮人の好物である。羊と山羊は、何らかの宗教的見解を慮って法律が飼育を禁じているので、国内には影も形も見当らない。朝鮮農民の食事は煮米、野菜汁、干魚よりなり、これら全てを毎回、米で作った相当量のウォトカで流し込む。食事は日に三回、即ち、早朝、正午、そして夕方の就寝前である。注目されるのは、朝鮮人が牛の乳を搾ることを全くせず、かくて乳製品を利用しない事実である。朝食後に農作業が始まるが、どんな仕事でも正午には終わって、再開は決まって翌朝である。午餐を済ませると、男たちは昼寝をするか、あるいは街頭へ繰り出して、長いキセルをくあえながら互いの間で、あるいは通行人と話を交わしつつ夕食まで時間を潰す。このような生活を送る朝鮮村落が常に生気にあふれ、祭りのような観を呈するのは言うまでもない。・・・

上記は1885年アムール州総督官房付 公爵ダデシュカリアニの報告書の一部です。


下記はロシアの商人ヂェロトケヴィチの1885年12月6日から1886年2月29日の旅日誌から首都に関する表記です。

 ソウルは約三〇万の人口を擁し、深い盆地に立地している。町自体は漢江から五房里のところにあり、総延長がほとんど八露里に及ぶ石壁でぐるりと取り巻かれている。壁は高さが四サージュン、厚さ二サージェンに達する箇所もあり、六カ所で木造の門を構える。・・町の門は毎夕、日没とともに鐘の音と銃声が響く中を閉じられる。門が閉められた後は、政府の許可を有する者を除いて、もはや何人といえども町を歩く権利を有さない。朝は日の出とともに、閉じられた時と同じ儀式を伴って門が開かれる。・・・町の中ほどを、北西から南東へ貫いて小川〔清渓川〕が流れる。この川の水は、唯一肌着の洗濯だけに利用される。飲用ならびに炊事用の水は、小川の畔にあまた掘られた井戸から汲まれる。町の大路を繋ぐ形で川に架かる幾つかの堅牢な石橋は、どうやらかなり古い時代に建てられたようだ。裕福でない住民の家屋は大抵が粘土壁で、外壁はそれぞれ独立に縄で角材に固定されている石塊で覆われている。家星は内壁も外壁も粘土で仕上げてある。敷地は遠に石塀か滞木の垣根で囲まれている。家々の窓は内庭に面していて、街路に画するのはただ煙突と煙出しの孔だけである。かまどの焚き口は屋内にあり、ここには・コミや汚水の集培所も設けられる。屋根は茅葺きと瓦葺きの双方がある。政府の建物および富裕な商人の館は石造もしくは木造建築で、瓦葺きの屋根には日本風の各種装飾が施される。また私の見るところ、一般に星根や門は装飾が凝らされている。屋敷は、高さ一サージェンほどの石塀で囲まれる。各部屋の内壁には、たいそう上質の紙もしくは自家製壁紙が貼られる。竈の焚き口は屋外にあって、屋敷全体に張り廻らされた煙道は、同時に床でもまた暖炉でもある。煙道には丈夫な油紙が上張りされている。格子窓には薄手の白い紙が張られ、室内は沢山の仕切りで区分けされる。・・・
 ソウルには英国、ドイツ、米国、日本、中国の代表が駐在する。その外に若干名の外国人が朝鮮人のもとで働いている。即ち、米人医師二名、税関勤務のドイツ人三名とロシア人一名、英語教師の米人一名である。学校は半年前にようやく開設された。少年たちは英語で読み書きを学んでいる。・・・

釜山の開港は1876年、次いで元山が1880年、そして済物浦は1883年に開港されます。1885年のアムール州総督官房付公爵ダデシュカリアニの報告書では朝鮮の現状と将来について次のようなことを報告書で述べています。

当面の輸入品は、更紗の生地、羊毛毛布、各種の鉄製品、弾丸、ガラス製品および旋盤製品、時計その他の小間物類である。
 これらの商品の見返りとして朝鮮から輸出されるのは砂金、銀、去勢牛の皮革と各種毛皮、肥料用の動物骨(日本向け)、生糸、タバコ、昆布、さまざまな魚類、真珠、木材、人参ならびにその他の薬草類である。
 朝鮮税関を通じて輸入される商品には英国の税率が適用され、輸出品には五パーセントの関税が課せられる。
 三開港における1884年度の朝鮮の総取引高は、4,724,641ドルであった。このうちで輸入額が2,384,183ドル、輸出額は2,340,459ドルである。これに先立つ数年間における輸出入の差額はもっと大きかった。当初、即ち、1881年には差額が50万ドルにも達したが、毎年減少を続けて、引用した数字に見えるように、昨年は45,724ドルにまで縮小した。輸出額が単に輸入額に見合うだけでなく、それを著しく上回るような時も遠からずである。文明は日本と同じく朝鮮においても、それを完全に受け入れる土壌を見出出している。過去四、五年間ヨーロッパ人ならびにアメリカ人と交流を続けた結果、朝鮮人はこれらの国民から既に多くのものを学び、さまざまな模範施設を自ら創設している。これらの施設では朝鮮の若者が、経験を積んだ外国人の指導下にさまざまな分野の農業、工業の作業を学び、機械生産などにも習熟しつつある。これら全ての新事業に対して、朝鮮政府は税関収入と地租の一部を特別資金として支出している。朝鮮人の情熱的気質ならびに進取の気性をもってするなら、これら有益な企図の全てに輝かしい成功を収めることが可能で、地方の生産力およびその経済生活の向上を目指す自らの出費の全てを、政府は何倍にも割増して回収するであろう。朝鮮人労働者がいずれかの官吏のためでなく自分自身の利益のために働く港湾ならびに海外では、彼は勤勉と精励の模範である。彼は全ての国民にも増して、特に中国人と比べても優秀とされている。祖国における彼の生活条件を変え給え、そうすれば彼は疲れを知らぬ勤労者となるであろう。朝鮮の過去は、農業の成功のためにもまた工場制産業のためにも、あらゆる与件が揃っていることを立証する。かつては朝鮮人が、今日の日本国民の誇りである諸技術(陶器、綿製品ならびに金属製晶の製造)について日本人に教えることのできた時代もあった。だが、この至福の時代の朝鮮人は、今のように生産を束縛せぬばかりか、それを全面的に奨励もする諸条件ならびに国内組織の下で暮らしていた。今日では民衆も朝鮮政府も、彼らの国家体制が立脚する反動的諸原理の完膚なきまでの破産を明瞭に意識している。そこで民衆も政府も一致協力して、行政の領域のみならず社会生活においても根本的な改革を断行することに決した。朝鮮政府はヨーロッパ人の優越性、彼らの知識と経験を認めて、これらの文明化した人々を招き、高給と有利な条件で雇用しているが、民衆も彼らを喜んで迎え、自らの文明開化の先導者として敬意を払ってもいる。・・・・