王妃殺害事件

 東洋的な観念によれば、故王妃は優れた教育を受けており、朝鮮のみならず、恐らくは東洋全体を見渡しても当代随一の漢字通と見なされていた。それに加えて、彼女はヨーロッパの文明と改革を、日本人の仲介を経ずに朝鮮へ導入することに、たいそう意欲的であった。決断力もあり、聡明でもあった王妃が、朝鮮の勝手気儀な統治を望んでいた日本人たちを快く思い得なかったのは当然である。そして、日本人は極めて陰険な悪事すら、怯むことなく敢行したわけだが、われわれのソウル滞在中は、その詳細がまだ最終的には解明されなかった二つのことだけは確かである。即ち、虐殺は1895年11月25日から26日にかけての深夜に、完全に日本人のみが、以下のような状況の下で実行したのである。午前三時、王宮を日本軍が包囲し始めた。日本軍の一部隊は北西門に配備され、北東門に集結したのは、日本人によって教育された朝鮮兵約三〇〇人である。宮中にはダイ将軍がいて、王宮防衛のための措置を講じょうと試みたが、宿直室には将校が見当たらず、王宮守備隊も一部は解散してしまっていた。連隊長の発した解散命令を、北東門を固める朝鮮兵は実行しないはかりか、却って、彼は指揮官ではない、ここで命令できるのは日本人教官だけだ、と言った声すらも聞かれる始末だった。宮中では、日本軍と朝鮮軍の兵士によって王宮が包囲されたことが明らかとなるや否や、国王は前の農商務相李範晋に米国とロシアの公使館へ駆け込み、救援を求めるよう命令した。西壁に登った李範晋は、その前面が兵士で充満していたので、ここから気付かれずに下りるのは不可能と断じた。そこで彼は、城壁の南東隅にある塔によじ登った。この場所には、僅かに二人の日本兵が守備についているに過ぎなかった。李範晋は、彼らが遠ざかる頃合いを見計らって壁から飛下り、片足を挫いてしまったにもかかわらず、駆け出して逃げていった。米国公使館近くに差しかかった時、彼は最初の銃声を聞いた。破れた召使いの衣服を纏った李範晋がロシア帝国公使館に駆け込むや、彼は僅かな語彙を駆使して次のように訴えた。日本人が宮中において、恐らくは王妃の殺害を目指して、虐殺を重ねており、国王はロシアと米国の代表が救援に駆付けてくれることを切望している、と。
ところで午前四時過ぎ、最初の銃声を合図に数名の日本人が、差掛け梯子を伝って王宮の壁を北側からよじ登った。南壁をよじ登った老たちが銃撃で歩哨を追い散らして、正門を開けたので、正門の外に待機していた朝鮮兵が怒涛のごとく乱入した。一万、北門を押し破って侵入した日本軍や朝鮮軍の兵士らは、差掛け梯子を用いて北の小門を乗越え、銃撃によって宮中の衛兵を追い散らした後に、門を開放して、王宮の北の部分を占拠した。王宮の中央部は日本人将校指揮下の朝鮮兵部隊が陣取り、国王の居間では、庭園に出る扉と宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに、日本兵が二名ずつ立哨していた。王妃の離れが所在する中庭は、平服に軍刀を帯びた日本人で充満していた。彼らの何人かは、抜き身の刀を手にしていた。この群団の指揮者もやはり、長い短剣を帯びる日本人だった。彼らは戚声を上げつつ中庭を走り回って、王妃の所在を聞き出せると判断される人々を捕まえては打擲するも、誰一人として彼らの求める情報を与えた者はいなかった。王妃が女官の間に身を隠しているに違いないと考えた日本人たちは、か弱い宮廷婦人を手当たり次第に殺しだした。官内大臣が日本人らに向かって飛出し、彼らと王妃の間に立ちはだかって、諸手を挙げて慈悲を請うたが、日本人らは軍刀を振りおろして、彼の両手を切り落とした。彼は血を流しながら崩れ落ちた。日本人らは婦人たちに襲いかかり、王妃の引渡しを要求するのだった。王妃と全ての女官たちは口裏を合わせて、王妃がここには居ないと答えていた。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって彼女が廊下へ逃げだすと、l人の日本人が脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえるや床に投げ出して、彼女の胸に足を載せて三回はど踏みつけたあげく、刺し殺した。しばらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林へ運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。1895年11月26日の流血劇は、こうして幕を閉じた。恥じ知らずという点では、歴史上に前例のない出来事が起きたのである。異国の人々が平時に、かの国の軍隊の庇護下に、はたまたその指揮下に、そして、恐らくは外交使節さえも関与の上で王宮内へ大挙して閲入し、王妃を殺害して、その遺骸を焼き払い、卑劣なる殺人や暴行の限りを尽くしたあげくの果てには、この上なく恥じ知らずな遣り口で、衆目の注視する中で遂行されたことを(彼らが犯罪の実行直後にほとんどいつも行なっていたように)敢えて否定したような事例が、かつてあったであろうか。
 日本人らが自らの虐殺を実行していた頃、南門からは日本軍兵士とともに大院君が、そして彼とほぼ同時に日本の三浦公使も王宮に入った。彼らは直ちに王の許に赴き、王妃からその称号を剥脱し、平民の身分に降格させることを宣する布告に署名するよう迫った。激怒した国王は両手を差出して、自らの指を示しながら次のように言った。「これらの指を切り落とし給え。そして、もし指どもが望むならば、諸君が余に要求することについて署名させ給え。だがそれまでは、余の手は決して、そのようなことを為きぬであろう」
 忌まわしい王妃殺害からしばらくして当初の大混乱が鎮まった頃、ロシアと米国の代表、国王の臥問や側近たちが王宮に到着した。その日のうちに全ての外国代表が参集して会議が開かれ、その席で日本公使には、日本軍兵士が王妃を殺害し、また一部の部隊は11月25日から26日にかけて、大院君を郊外の住居からソウルの王宮まで護衛したとする告発に対する釈明が求められた。とどのつまりは、日本政府がロシア政府へソウルで起きた騒動については深い遺憾の意を表明し、わが国の駐ソウル代理公使と共同歩調をとるべく訓令された全権代表を調査のためソウルへ派遣した、というのがその結末だった。

注、私はこれらの諸事件を目撃したわけではないが、それらは後続の諸事件とも非常に密接に結びついており、人々の記憶にも生々しく生き続けており、また1896年1月30日の政変に僅かに先立って発生していることから、話の完全さを期するためにこれらを紹介するのもそれなりに有意義と考える。

上記は1895年から1996年に朝鮮旅行したカネイェフ大佐とその助手ミハイロフ中尉らの手記です。

感想

「話の完全さを期するため」とあるから事実その通りだと思う。この事件は日清戦争のおわった直後に、当時の韓国駐在、三浦梧楼公使と、熊本県人を主体とする民間壮士たちの手で行なわれたものだが、堂々と公使が指揮をとって王妃を殺してしまったのだから、いくらナショナリズムの19世紀といえど、同時の日本の指導者の意識の文明度が分かる。かって、占領下の日本に連合国軍最高司令官として君臨したマッカーサー元帥は、米国に帰ってすぐ、日本人のことを「12歳の少年のよう」と語って、日本国民を憤慨させたことがあったが、冷静に考えて見てば、マッカーサー元帥が言うたことは真実かも知れん。