ゼロからの出発と対外不平等の半世紀

第1章 ゼロからの出発と対外不平等の半世紀

第1節 安政の五か国条約

⑴ 条約の締結

安政 5 年(1858)、徳川幕府アメリカをはじめとする欧米各国との間で次々に通商条 約を締結した。翌安政 6 年(1859)には横浜、長崎、箱館(函館)の 3 港(注 1)が開港 し、それぞれの港に税関の前身である運上所が設置された。 日米修好通商条約は 14 か条の条文から成り、公使の江戸駐在、領事の開港地駐在、神 奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂(大阪)の開市、自由貿易、協定関税制、領 事裁判権(注 2)、外国人居留地の設定等に関する規定が設けられた。また条約に付属する 文書として貿易章程が定められ、輸入税及び輸出税の具体的内容や通関手続等について規 定された。同条約に続き、同じ年にオランダ、ロシア、イギリス及びフランスとの間にも 同様の条約(いわゆる「安政の五か国条約」)が締結され、その後、さらにプロシア、ポ ルトガル等とも同様の条約が締結された。これにより我が国は急速に開国への途を歩むに 至ったが、これらの条約は、外国人に居留地内での領事裁判権を認め(治外法権の付与) 、 関税についても我が国に税率の決定権を与えず、外国と相互に協議して定める協定関税制 を採用し(関税自主権の欠如)、しかも片務的な最恵国約款(注 3)が付されているという 極めて不平等な内容を抱えていたので、後に述べるように(25 頁の第 7 節⑴参照)我が 国外交は、これらの不平等が撤廃される明治の末に至るまで、大変な重荷と苦痛を抱え続 けていくことになるのである。

⑵ ハリスとの交渉経緯

ペリーと日米和親条約 ところで、開国と言えば、多くの方々はペリー(Matthew Calbraith Perry,1794~1858) を思い出し、ペリーと言えば、黒船の来航や砲艦外交(gunboat diplomacy)といった言 葉を思い起こされるであろう。次の有名な狂歌は、4 隻の黒船の来航にあわてふためくそ の当時の日本人の様子を実に見事に描写している。 「泰平のねむりをさます正 じょう (上)喜撰 きせん たった四はいで夜もねられず」 ここで上喜撰というのは上質な茶の銘柄であり、それを飲むと神経が高ぶって眠れない。 言うまでもなく、これを蒸気船(=黒船)にかけているわけである。 条約を締結するために翌年再来日したペリーに対して、アメリカの本国政府は、彼が威 嚇的でともすれば武力に頼ろうとしがちなのを抑えて、その使命は平和的交渉にあるとし、 防禦のほかには武力に訴えてはならない旨指示していた。しかし、武力を行使するまでも なく、ペリーの断固たる態度とアメリカ海軍の軍事力を背景にした露骨な示威行動は、幕 閣に対してその意図どおりに大いなる恐怖心を与え、鎖国日本の扉を極めて強引な形でこ じあけてしまったのである。

ハリスの交渉態度とその背景 このような驚天動地の騒ぎのうちに安政元年(1854)、ペリーによってほとんど力ずく で結ばせられた日米和親条約に比べて、その 4 年後(安政 5 年)の日米修好通商条約は、 かなり平和友好裡に締結交渉が進められた。アメリカ側は下田駐在総領事のタウンゼンド・ハリス(Tounsend Harris,1804~78)が代表をつとめ、幕府側は積極開国論を唱える 論客・岩瀬忠震 ただなり (文政元年(1818)~文久元年(1861))と交渉力に優れた井上清 きよ 直 なお (文 化 6 年(1809)~慶応 3 年(1867))(注 4)が全権委員に任じられた。双方の代表は、時 には相手方と厳しく対立することはあっても、お互いを深く信頼し合いながら筋道を立て て条約の締結交渉を進めていった。 ハリスは最初から、幕府に対して日本が貿易をすることの利を説くとともに、イギリス の侵略性・危険性を強調し、イギリスがやって来る前にアメリカと平和的・友好的な条約 を締結する方が得策であると持ちかけた。確かに当時のイギリスはあへん戦争(1840~42) で清を食い物にし、続くアロー戦争(1857~60)でも清をどんどん不利な状況に追いやっ ていた。インドではセポイの乱インド大反乱。1857~59)が契機となってムガール帝国 が廃され、イギリスによる植民地化が完成しつつあった。そうした中でイギリスがまだ日 本に手をつけていなかったのは、同国がたまたま清などとの紛争に手を取られていて、し かも市場の有望性という点から見れば、当時の日本には清などに優先して軍事力を割かな ければならないほどの魅力があるとは考えていなかったためである。しかしイギリスにと っては、そのうちに余裕ができれば日本にやって来て通商を迫ることは既定の路線であっ た。

ハリスからの好意的な提案 そうした情勢を背景にしながら、ハリスは、アメリカはイギリスのような領土的野心を 持っていないことを強調し、その証として条約の交渉過程で日本側に有利になるような条 件をあえて持ち出した。例えば条約第 2 条には「日本国と欧羅 ヨーロ 巴 ッパ 中の或る国との間に差障 さしさわり 起る時は日本政府の嘱 もとめ に応じ合衆国の大統領和親の 媒 なかだち と為りて扱ふべし」という規定が あるが、これは、日本とヨーロッパのある国との間に差し障りが起きたときには、アメリ カが日本のために仲をとりもってやりましょうという意味であり、国際的な法規範として はさしたる価値はないものの、アメリカの日本に対する好意を十分に印象づけるものであ った。また、条約第 4 条には「阿片の輸入厳禁たり」という規定があるが、これもハリス の側から持ち出したものであった。ハリスはあへん問題を利用して幕府のイギリスに対す る警戒心と反発心をかきたて、アメリカを信頼すべきパートナーとして売り込むことによ って条約締結交渉を自分の方に有利に運ぼうとしたのである。さらに、貿易章程には輸出 入品に対する関税率が規定されているが、これはハリスが交渉の過程で貿易による課税上 の利益(歳入の確保)を説いた手前もあって、日本側の言い値(主要輸入品目に対して 12.5%)より高い関税率(20%)を提示して日本により多くの関税収入を得させようとした ためである。 このようなハリスの交渉態度について、幕末・明治のイギリス外交官アーネスト・サト ウ(Ernest Mason Satow,1843~1929)は次のようなイギリス人ならではの見解を述べて いる。 「アメリカ人は、こうした古い時代の受難(当方注 独立戦争)をよく覚えていたので、世 界空前の大貿易と大海運を擁する強国(訳者注 イギリス)に対抗しがたい諸国に対しては、 自然同調する念が強かった。そして、独立権を守ろうとする東洋の諸国民に同情を寄せる と共に、これらの国々と親しく交際しておけば、通商上の特権を得る上に少なくともイギ リス人と同等の資格を得ることができるものと信じていた。この通商上の特権については、 アメリカ人はイギリス人に劣らぬ関心を有していたのである。 」(アーネスト・サトウ著、 坂田精一訳「一外交官の見た明治維新」より)  
国際法に無知だった幕府 ところで、アメリカがそのように日本に対して大変好意的であったとするならば、何故 に幕府は、後々になって自国を大いに苦しめる不平等な条約をそのアメリカと締結してし まったのであろうか。アメリカの「好意」は単に見せかけのものではなかったのか。 この点については、確かに、ハリスの巧妙な外交交渉技術といった要素を無視すること はできないかもしれない。しかし、やはり幕府にとってはあへん戦争以降のアジアの政治 情勢が大きな心理的圧迫要因となっていたであろうし、そもそも外国の軍事力・腕力とい うものが背景になかったならば、我が国が開国を迫られ、不平等な内容の条約を締結させ られるというようなことはなかったであろうと考えられるのである。 これに加えて、幕府側が国際法についておよそ無知だったという事情も考慮に入れなく てはならないであろう。通商条約で規定された事項のうち、領事裁判権治外法権)、協 定関税制(関税自主権の欠如)、片務的最恵国待遇などは我が国に著しい不平等を強いる ものであったが、交渉の過程においてこれらはほとんど議論の対象にならなかった。これ は、要はそれらの重要性について幕府の側にさしたる認識がなく、問題意識が全くと言っ てよいほど欠如していたからである。 これらのうち領事裁判権の問題については、既に日米和親条約第 4 条に、難破船員ある いは在日アメリカ人は、他の国におけるのと同様に自由で拘束されることなく、公正な法 律(「正直の法度」)に服するべきであるとの規定があり、それをハリスがさらに一歩推し 進めた日米協約(安政 4 年(1857)締結。下田協約ともいう)第 4 条には「日本人、亜米 利加人に対し法を犯す時は、日本之法度を以て日本司人罰し、亜米利加人、日本人へ対し 法を犯す時は、亜米利加之法度を以て、コンシュル・ゼネラール或はコンシュル罰すべし」 というように領事裁判権が明確に定められていた。現に幕府の方でも、外国人の裁判を我 が国の役人がやるなどというのはとても面倒なことだから、御免を蒙りたいというぐらい の考え方であったようであり、交渉の過程ではこの点についての議論はほとんどなされず にハリスが出した原案のとおりに決定された。また、アメリカに一方的に最恵国待遇を与 える片務的最恵国待遇についても日米和親条約第 9 条にこれを定めた規定があったが、通 商条約の草案にはこれを双務的なものとする条項があったにもかかわらず、幕府はハリス に輸出税の賦課を認めさせるのと引換えに、日本に対してアメリカの側から供与されるべ き最恵国待遇に係る規定をあっさりと放棄してしまった。さらに協定関税制についても、 幕府の側に何ら問題意識がなく、やすやすとこれを通してしまったのである。 こうした経緯も考慮に入れると、ハリスは、イギリスならばこういう条約にしたであろ うという不平等な内容の条約案をベースにしつつ、そこにアメリカならではの「好意」を もって少しだけ味つけをしたということであろう。しかしそれでも幕府は、あへん戦争の ような形で外国から直接的な武力行使を受けることもなく、南京条約(1842 年にイギリ ス・清間で結ばれた条約)よりも有利な条件で平和裡に通商条約を締結することができた。 国際法をよくわきまえていなかったとはいえ、幕府の外交手腕にも相当のものがあったと も評価しうるであろう。

⑶ 貿易に関する取決め

さて、条約のうち貿易に関する部分についてここで若干触れておきたい。 条約の締結交渉では、どの港を開港するか、江戸・大坂に外国人を住まわせるかなどと いった問題のほかに、会所貿易か自由貿易かということが大きな問題となった。当初幕府 側は、開港場に広い場所(交易場)を設置して内外人一同が品物を持ち寄り、互いに入札 して取引をする(居宅では取引をしない)という貿易仕法を主張した。これは従来長崎で行われてきた奉行所支配下の会所を通じる貿易取引のやり方に若干の変更を加えたもの で、既に安政 4 年(1857)の日蘭追加条約及び日露追加条約(注 5)でもオランダ及びロ シアに対して承認されていたものであった。ところがこれに対し、ハリスは取引に対して 役人が直接に介入することを嫌い、税金さえ払えば商人がどこでも自由に取引できるよう にすべきであるとの主張を強硬に行った。このハリスの決然たる態度が効を奏し、彼の唱 える自由貿易論が交渉のかなり早い段階であっさりと勝ちを収めた。 関税に関しては、前述のように、条約に付属する文書である貿易章程で定められた。そ の中で関税率については、輸入品のうち金銀、家財等は無税、食料、船具、石炭等は従価 5%、酒類は 35%、その他は 20%、輸出品はすべて従価 5%とされた。関税率以外の部分 はすべてハリスの案どおりとなった。貿易章程は、後の関税法及び関税定率法に相当する ものであるが、関税率が慶応 2 年(1866)の改税約書により引き下げられたことなどを除 くと、明治後期に条約の一部改正がなされて関税法等の法律が制定されるまでの実に約 40 年間(税率に関しては約 50 年間)、関税法規範として機能することになるのである。

第2節 横浜港の開港と神奈川運上所の設置

⑴ 横浜開港の経緯

岩瀬忠震の横浜開港論 安政元年(1854)に締結された日米和親条約の定めに基づき、下田駐在総領事としてハ リスが来日し、幕府との間で通商条約の締結に向けて交渉を行ったが、ハリスの条約草案 では、既に開港している下田と箱館のほか、大坂・長崎・平戸・京都・江戸・品川を開港・ 開市すること(ただし下田は江戸・品川の開港後閉鎖)が提案されており、神奈川あるい は横浜は開港の候補地には含まれていなかった。 ハリスとの交渉に先立ち幕府の側では老中首座・堀田正睦 まさよし (文化 7 年(1810)~元治元 年(1864))に外国事務取扱いを命じ、外務専任の閣老としていたが、この堀田に対して 横浜開港を求める開明的な意見書を提出したのが貿易取調御用を命じられていた目付・岩 瀬忠震(後に外国奉行等を歴任)であった。岩瀬はこの意見書の中で横浜開港を主張し、 大坂開港は絶対に避けなければならないとした。大坂は地理的にみて水陸両面における交 通の要衝で、我が国の商業の中心地であった。ここを基盤に全国の利権の 7、8 割を上方 商人が握っていたが、岩瀬は、これに外国貿易の利が加わると、江戸をはじめ全国が衰退 し大坂だけが繁栄するのではないかと懸念し、むしろ、江戸から適当な距離にある横浜を 開港して、全国の輸出品を江戸に輸送し外国からの輸入品は江戸を通じて全国に配給する というシステムによって、全国の利権を江戸に集中させ幕府の権力を強めるべきであると 主張した。岩瀬は明言していないが、大坂には西国雄藩の蔵屋敷が数多く存在しており、 上方にいったん外国との貿易を許すと、これら西国雄藩が勝手に貿易に乗り出して、その 動きにますます手がつけられなくなるということを懸念していたものと思われる。 岩瀬は条約締結に際しては幕府側の全権委員の一人として対米交渉にあたり、その結果、 日米修好通商条約には神奈川の開港が明記された。ただしその際、幕府としては横浜も含 めて「神奈川」と表現したつもりであった。条約上、単に「神奈川」とのみ表現されたの は、幕府の側で「神奈川・横浜」という煩雑な表現を避けようとしたためであるとみられ る。

横浜開港へ向けての幕府の決断と各国の抵抗 ところで、安政の五か国条約のうちの第四番目にあたる日英修好通商条約が締結されて 間もない安政 5 年(1858)8 月、幕府が外国奉行(同年 7 月に新設)の永井尚 なお 忠 むね 、井上清 直、堀利熙 としひろ 、岩瀬忠震及び目付の津田正路を派遣して実地に調査すると、神奈川湊は遠浅 (注 6)で良港としての条件を備えていないうえに、神奈川宿付近(注 7)は台地と海には さまれた地形で外国人居留地等を開設するだけの広さがないことがわかった。さらに東海 道沿いにあり交通の要衛であるため取締り上問題があることから、大老井伊直弼(文化 12 年(1815)~安政 7 年(1860)。安政 5 年(1858)4 月、大老に就任)を中心とする幕 府首脳は、神奈川宿ではなく横浜村を開港場として選定した(注 8、9)。実際、当時の幕府 の懸念は当たり、後に神奈川宿に近い東海道沿いの生麦村で生麦事件文久 2 年(1862)が起きることになる。 しかし当時、神奈川宿が開港場になると思っていたハリスら各国代表は、交通の便の悪 いそのような僻村の横浜が開港場となることに猛然と反発した。彼らは横浜で行う貿易の 発展性に疑問を持っただけでなく、横浜が出島化することについても強く警戒した。長崎 の出島が外国人にとってオランダ商館を半軟禁状態に置く極めて悪名の高い存在であっ たことから、各国の外交団は、横浜の町づくりが第二の出島を目指すものではないかとい う疑念を抱いたのである。 ハリスは自身の著書「日本滞在記」でも「神奈川は繁栄する町の様相を呈している。(中 略)江戸に一番近い港であり、江戸が外国貿易のために開かれるときには、非常に大切な 場所となるに相違ない」(坂田精一訳。安政 4 年 10 月 12 日の記録)と記し、神奈川宿に 多大の期待をかけていた。それだけに、神奈川宿に代えて横浜村が開港されることに大い に腹を立てたのである。イギリスの外交官サトウ(前出)によれば、その後ハリスは横浜 開港は約束違反であるとして領事の駐在を拒み、「自身もあくまでも反対をつづけて一歩 も横浜の地を踏まずに日本を去り、自分の誓いを貫いた」ということである(アーネスト・ サトウ著「一外交官の見た明治維新」より)。 では、神奈川か横浜かということが条約の締結交渉の過程で全く明らかにされていなか ったのかというと、そうではないようである。幕府側から神奈川を持ち出したとき、ハリ スが「横浜村も神奈川湾の中にあるのだから、同じく開かれるべきである」と述べたのに 対し、幕府側は「そのとおりにこれあり候」と明確に答えており、その点については両者 の間に争いはなかった。ただ、ハリスが当然のこととして神奈川湊がメインの港として開 港され、横浜は付け足しで開かれるぐらいに思っていたところ、案に相違して幕府が横浜 だけを開港場として選定してしまったものだから話がこじれてしまったのである。この点 について、条約の交渉当事者であった岩瀬忠震は、交渉の過程でハリスが条文の中に神奈 川・横浜と記したい旨を述べたのに対し、横浜を省いて単に神奈川とだけ書いておけば十 分であるとして了承を得た経緯があるので、「今さら神奈川湊を除外することはできない」 とハリスに同調する考え方を示したが、どうしても外国人を横浜に閉じ込めておきたい井 伊大老は、横浜のみを開港するという線で幕府内部の議論をまとめてしまった。こうして 幕府は、ハリスらの合意が得られないまま一方的に横浜開港の準備を進め、強引かつなし 崩し的にこれを既成事実化してしまった(注 10)。

開港日の設定 アメリカ、オランダとの条約では開港日は安政 6 年 6 月 5 日(新暦 1859 年 7 月 4 日) と定められた。その日はアメリカのイギリスからの独立記念日である。イギリス、ロシア との条約では 6 月 2 日(同 7 月 1 日)とされた。また、フランスとの条約では 7 月 17 日 (同 8 月 15 日)とされた。当時のフランスはナポレオン 3 世による第二帝政期であり、この日は皇帝の誕生日として国民的な祝典が行われる日であった。このように条約上は 様々な期日が開港日として設定されたが、実際には、最恵国約款によって 6 月 2 日(同 7 月 1 日)が開港日とされた。 開港の当日、特別な行事は何一つなかったというが、翌万延元年(1860)からは毎年、 記念行事が行われるようになった。その後我が国では明治 5 年(1873)に旧暦(陰暦)か ら新暦陽暦)への切替えが行われたが、横浜では明治 41 年(1908)までそのまま 6 月 2 日が開港記念日とされた。これが明治 42 年(1909)になると新暦に従って 7 月 1 日に 改められたが、昭和 3 年(1928)になって再び 6 月 2 日に戻された。これは、その前年の 6 月 2 日、開港 100 周年を記念して新築された開港記念横浜会館(現在の横浜市開港記念 会館)で大横浜建設記念式(第 2 章第 2 節(1)参照)が行われ、翌 3 年からは開港記念日 もその日に合わせることとされた、ということのようである。それ以来、横浜では 6 月 2 日を開港記念日としている。

⑵ 横浜開港場の建設と神奈川運上所の設置

神奈川奉行所の中核的機関としての運上所 幕府は安政 5 年(1858)7 月に海防掛を廃止して外国奉行を新設し、水野忠徳、永井尚 忠、井上清直、堀利熙、岩瀬忠震の 5 名をこれに当てた。しかし、安政の大獄により同年 9 月には岩瀬が、翌年 2 月には永井と井上がその職を追われ、彼らに替えて村垣範忠、酒 井忠行及び加藤則著 のりあき が新たに外国奉行に任命された。したがって、横浜の開港を控えて、 その準備は水野、堀、村垣、酒井、加藤という 5 名の外国奉行の手に委ねられることとな ったのである。 幕府は、安政 5 年(1858)10 月からこれら外国奉行神奈川奉行兼務の心得で交替で 神奈川に出張させていたが、繁忙のため、翌年 4 月からそのうちの 2 名を常駐させるよう になった。神奈川奉行が正式な役職として設置されたのは開港直後の安政 6 年(1859)6 月 4 日であり、当初は引き続き外国奉行との兼務であったが、翌年 9 月には専任制に切り 換えられた。神奈川奉行の下には地域(横浜、生麦、鶴見等の 9 町村)の政治・警察上の 事務を取り扱う戸部役所(現在の神奈川県立図書館付近に所在)と外交・通商上の事務を 取り扱う神奈川運上所(現在の神奈川県庁本庁舎所在地)とが置かれた。もとより神奈川 奉行の本来の設置目的は対外関係の円滑な処理にあったので、奉行所の職務内容や陣容は 運上所が中心であった。運上所では、今日の税関が行っている業務のほか、艦船の入出港 手続、洋銀両替、各国領事との交渉や外国人の取締りなどの幅広い任務に従事した。特に 軍事力を背景に強圧的な態度をとる各国領事との外交交渉や一部の山師的な悪徳外国商 人が引き起こす貿易上のトラブルの処理は、不平等条約というハンデを背負っている運上 所にとっては大変に厄介な問題であった。

開港場の建設 横浜開港場の建設は開港までの約 3 か月のうちに突貫工事で進められ、波止場、運上所、 役宅、道路、橋などが急ピッチで造成された。運上所の庁舎や関連施設は横浜開港場の中 心付近に設置・整備され、さらに運上所の海側の東西 2 か所には長さ 109m、幅 18m の石 積みの波止場が築かれた(注 11、12)。また、運上所をはさんで西側(資料 1 の地図では右 側)に日本人居住地、東側(同じく左側)に外国人居留地が形成された。造成した土地は 商人たちに賃貸された。その時期の様子について、日本に着任したばかりのイギリス総領 事ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock,1809~97。後に公使)は、開港場が 「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって」忽然と現れた、と表現してい る(ラザフォード・オールコック著、山口光朔訳「大君の都」より)。

こうして安政 6 年 6 月 2 日(新暦 1859 年 7 月 1 日)、横浜は無事開港し、同時に運上所 も仕事を始めたのである。初めて入港してきた船はアメリカのハード商会所属のワンダラ ー号(176 トン)であった。この船は 6 月 1 日には横浜に到着していたが、6 月 2 日を待 って入港手続を行ったという。 開港当初の横浜に出店した商人は、幕府から半強制的に出店させられた三井八郎右衛門 などの江戸の豪商や、関東甲信越等から新しい取引機会を求めて出て来た在方商人などで あった。後者の中には投機的な商人も多く、相場の変動等によりかなり多くの者が破綻し て早々に横浜から撤退していった。開港場にはそのほか、雑貨小売商や技術者・職人など 様々な職業を有する人々も集まって来た。 ところで、条約上は「其居留場の周囲に門墻 もんしょう を設けず出入自在にすべし」ということで あったが、開港直後に攘夷の志士による外国人殺傷事件が相次いで起きたため、間もなく 開港場に通ずる道には関門が設けられるようになった。さらに、翌万延元年(1860)には 開港場を防衛する観点から周囲の河川を延長して新たに運河が開削された。例えば元町や 山手のあたりはもともとは陸続きであったが、運河が開削されて切り離された。このよう な一連の工事により横浜開港場は周囲を河川や運河に囲まれ、あたかも長崎の出島のよう な観を呈するようになった。開港場と周辺地域の間には何本もの橋がかけられ、それぞれ の橋のたもとには関門番所が設けられた。後に、その内側が「関内」、外側が「関外」と 呼ばれるようになった(関門番所は明治 4 年(1871)に撤去)。

横浜開港と井伊直弼 幕末外交において華々しく活躍した開明派の岩瀬忠震らであるが、将軍継嗣問題も絡み、 極めて保守的な考え方の大老井伊直弼により、条約締結後、次々に左遷され(安政の大 獄)、開港時においてその地位を保っていたのは、開明派の中でもどちらかといえば保守 的な水野忠徳(注 13)らわずかを数えるのみであった。もともと井伊自身は開国そのもの には賛成で、老中・堀田正睦の動きを側面から支えたりもしていたのだが、他方、新規に 抜擢・登用された岩瀬忠震らの開明派が幕閣の中枢を占め、将軍継嗣問題でも紀州藩主・ 徳川慶福 よしとみ (後の第 14 代将軍家 いえ 茂 もち )を推す井伊らに対抗して一橋家の徳川慶喜 よしのぶ (水戸藩主・ 徳川斉 なり 昭 あき の子。後に第 15 代将軍)を推すなど活発な動きを見せているのを苦々しい思い で見ていた。その井伊が日米修好通商条約を勅許を得ないまま調印したというのは、ある 意味では開明派に引きずられ、大老という立場上そのようにせざるをえなかったというだ けのことであり、しかもこのことは本人にとっては甚だ不本意なことだったようである。
ところが、その井伊直弼が横浜開港時の幕閣の最高責任者であったということから、旧 彦根藩士らは井伊を横浜開港の恩人であると考え、明治 15 年(1882)頃からその銅像を 造立する動きを見せていた。市の有力者などからも助力の申し出があったようであるが、 これを断って旧藩士らだけで造立し、開港 50 周年を記念して明治 42 年(1909)、横浜市 の支援を得て銅像の除幕式を行った。 この除幕式の挙行にあたっては一波乱あった。井伊に対し強い反感を抱く明治政府の元 老たちがその業績を顕彰することに激しく反発したのである。そのうえ、当時の神奈川県 知事・周布 すふ 公平の父が長州の周布政之助(文政 6 年(1823)~元治元年(1864))であっ たことから、関係者は式の中止を要請した。これを受け、除幕式はいったんは延期された ものの、旧藩士らの巻き返しがあったのだろうか、間もなく実施に移された。なお、式の 数日後に銅像の首が切り落とされるという事件があったと言われる(例えば吉川英治著 「折々の記」参照)。しかし、この首切り事件については、当時の新聞に該当記事が見当 たらないこと等から、その真偽を疑う見方もある。いずれにしても、その真偽は定かでは ない。 大正 3 年(1914)には、庭園、銅像などの一切が井伊家から横浜市に寄贈され、一帯は 掃部山 かもんやま 公園と名付けられた。ところが昭和 18 年(1943)になると、戦時中の金属回収の ため銅像そのものが取り払われた。その際、勅許を得ずして通商条約を調印し、安政の大 獄を起こして吉田松陰をはじめとする勤王の志士を多数殺した悪逆無道の人間であると いう評価も加えられたようである。 現在の銅像は、開港 100 周年の記念行事の一つとして昭和 29 年(1954)に再建された ものである。

第3節 開港後の貿易と経済

⑴ 国内経済への影響

商品経済全体の活発化と一部地域・産業への打撃 開港後の横浜は急速な勢いで貿易港としての町並みを整え、貿易額も開港 2 年目の万延 元年(1860)から明治を迎えるまで連続して約 7~8 割を占め、我が国最大の貿易港とな った。 横浜港のシェアが高かった理由としては、日本の政治の中心であり一大消費地である江 戸、生糸の主要産地である関東・甲信、茶の産地である静岡を背後に有していたという立 地条件の有利性が挙げられる。
当時の主要輸出品は、生糸、茶、銅類等であった。特に生糸は横浜港の発展に大きく貢 献した品目で、開港以来昭和 16 年(1941)まで実に 83 年間連続で横浜港の輸出品目第 1 位を占めた。当時、世界における最大の生糸消費地はヨーロッパであったが、蚕の病気が 長期間蔓延したため、生産量が落ち込んでいた。さらに、最大の輸出国であった清からの 輸出量が、あへん戦争や太平天国の乱(1851~64)の影響により減少していた。丁度その 頃開国したばかりの日本で高品質の生糸が手に入ることがわかり、外国商人は不足する分 を日本からの輸入に求めるようになった。生糸が外国商人の関心商品であることに気付い た日本商人たちは、全国で生産された生糸の大部分(約 8 割)を買い占め、外国商人を通 じて横浜港から輸出した。多くの生糸商人たちが横浜に集まり、亀屋の原善三郎(文政 10 年(1827)~明治 32 年(1899))、野沢屋の茂木惣兵衛(文政 10 年(1827)~明治 27 年(1894))、吉村屋の吉田幸兵衛(天保 7 年(1836)~明治 40 年(1907))ほか数多くの 商人たちの活躍により横浜港は発展していった。 一方、主要輸入品は、欧米産の工業製品である綿織物、毛織物等であった。もとより当 時の輸入品は、「舶来品」という言葉にそのニュアンスが込められているように、日本人 にとっては文明そのものの輸入でもあった。 開港によって我が国全体の商品経済も活発化した。特に輸出産業が発展し、当時の主要 輸出品である生糸、茶は、技術の改良もあって生産が大幅に増大していった。 反面、この時期には、貿易の拡大によって打撃を受けた地域や産業もあった。生糸を扱 う商人が輸出のために買占めを行ったことにより、織物の原料である糸の価格が高騰し、 桐生、西陣、博多、八王子、秩父等の絹織物業は不振に陥った。特に文久 3 年(1863)は 大霜害があった年で、繭の収穫が半分くらいになってしまったことも桐生、西陣等の不振 に拍車をかけた。また、機械生産による安価な綿織物がイギリス等から輸入されることに よって、下野真岡、武蔵塚越(現在の埼玉県蕨市塚越)、足利、河内等の綿織物業も不振 に陥った。

洋銀両替問題と金貨の海外流出 開港後間もなく、通貨問題が我が国の経済を混乱させた。通商条約には「外国の諸貨幣 は日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし」「双方の国人互に物価を償ふに日本と外国と の貨幣を用ゆる妨なし」「日本人外国の貨幣に慣ざれば開港の後凡 およそ 一箇年の間各港の役所 より日本の貨幣を以て亜米利加人願次第引換渡すべし」(以上は日米修好通商条約第 5 条) との諸規定があり、また金貨・銀貨の輸出も認められていた。そこで運上所ではハリスと の下田以来の交渉に基づき、外国人が持ち込む洋銀(メキシコ銀)1 枚につき一分銀 3 枚 の比率で両替に応じた。ところがこれは市場での実勢(洋銀 1 枚に対し一分銀 2 枚)に比 べ洋銀を持ち込む側に有利な比率であったので、外国商人のみならず外国の官吏や軍艦の 乗組員までもが大量の洋銀を運上所に持ち込み、交換差益を得た。 それに加え、当時の日本では金 1 に対し銀は約 5 という交換比率であったが、諸外国で は金 1 に対し銀が約 15 というのが相場であった。これは、国際的に見て日本の銀が金に 対して割高であり、逆に金が銀に対して割安であったことを意味する。運上所で有利な条 件で大量の一分銀を取得した外国人は、これを用いて国際相場に比べ大幅割安の日本金貨 を大量に取得し、それを海外に持ち出すことによってさらに巨額の交換差益を懐にするこ とができたのである。これはまさに濡れ手に粟であった。こうして海外に流出した金貨は 10 万両以上にものぼったという。 さすがの外国も、ハリスやオールコックがこれでは貿易の正常な発展が損なわれてしま うと憂慮し、幕府に金貨の改鋳を行うべきであるとの意見書を提出した。そこで幕府は万 延元年(1860)、金貨の品質を大幅に低下させる改鋳(万延貨幣改鋳)を行って事態の悪 化を防止した。 しかし、これによって貨幣の実質価値が下がり物価の上昇に拍車をかけたので、庶民の 生活はますます圧迫された。そのために人々の外国貿易に対する反感が強まり、攘夷運動 が激化していく大きな要因ともなった。

⑵ 五品江戸廻送令

貿易商が生糸等の集荷に力を注ぐことによって輸出は急速に拡大したが、生産技術がい まだ発展途上であったため、需要の増大に供給が追い付かなかった。こうした需給のアン バランスが価格の急騰を招き、それが他の商品へも波及して全般的に物価が騰貴し、庶民 の生活不安が増大していった。さらにこれに拍車をかけたのが前述の通貨問題であった。 このような事態は我が国の経済界のみならず、封建体制全体をも揺るがしかねないもので あったので、幕府は何とかして貿易の発展を抑えようとし、開港の翌年の万延元年(1860) には早くも、雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の五品について江戸の問屋を経由せずに横浜に 直接送ることを禁ずる旨の五品江戸廻送令を発出した。また幕府は、五品に続いて銅につ いても同じ取扱いを決定した。 これらの幕令は、通商条約には直接抵触しない幕府の権力による国内限りの措置であっ たが、実質的には江戸の需要を賄った残りについてのみ貿易を認めるという極めて貿易制 限的な内容のものであったので、外国商人や横浜をはじめとする地方の商人には極めて不 評であった。また幕府内でも、江戸の問屋を支援する江戸町奉行と外国との関係や横浜商 人への影響を懸念する神奈川奉行との間で意見の対立があったとされる。 この政策は当初はかなり成果が上がったようであり、文久元年(1861)の輸出額は前年 (万延元年)の実績を下回った(資料2参照)。しかし国内外からの反発があまりにも強 く、たびたび江戸の特権商人と地方の商人間で紛争が繰り返されるようになり、やがては 命令をかいくぐって横浜に商品を送る者も出てきて、そのうちに完全に有名無実化してしまった。 幕府は五品江戸廻送令を補強するため、文久 3 年(1863)にも生糸の輸出制限政策をと ったりしたが、この年は前述の大霜害により生糸の原料が半減したり、生麦事件の発生に より外国との関係が悪化したりして、およそ五品江戸廻送令を強められるような環境には なかった。また、当時は攘夷の志士がしきりに横行しており、出島のような形で水路と関 門番所で隔離されていた横浜とは違い江戸では貿易に関わる商人を対象とした殺傷事件 も発生していたので、この頃には江戸の問屋も生糸等の取引から手を引きたいと考えるよ うになっていた。実際にも三井は、店頭に「天誅」の張紙がされていたので、京都の大元 方(本部)からの指示により生糸貿易から一切手を引いてしまった。翌元治元年(1864) になると、四国艦隊下関砲撃事件が起き、その勝利の余勢をかってイギリス公使オールコ ックはフランス、アメリカ、オランダの代表と共に幕府の老中以下と会見し、横浜におけ る生糸貿易の制限は事実上の鎖国であるから即座にこれを撤廃されたい旨、極めて強い調 子で申し入れた。この申し入れを受け、幕府は、直ちに輸出制限を解除することとした。
このようにして、五品江戸廻送令は実質的に 4 年ほどで終わってしまった。形式上も廃 止されるのは慶応 2 年(1866)になってからのことであるが、いずれにしても、開港前か ら幕府が抱いていた、経済の実権を握り幕府財政の再建を図ろうとする考えはこれにより 完全に空しいものになってしまったのである。

⑶ 幕末動乱の中での対外譲許

以上のような幕府の動きとは反対に、欧米諸国は幕末の動乱に乗じ、ロンドン覚書(文 久 2 年(1862))、日仏パリ協定(元治元年(1864) )、改税約書(慶応 2 年(1866))など の協約を締結することによって、関税の引下げや貿易を阻害する要因の撤廃を次々にかち 取っていった。 すなわち、国内の攘夷運動が活発化し治安が極端に悪化したことから、幕府は兵庫・新 潟の開港や江戸・大坂の開市の延期を図った。文久 2 年(1862)、イギリスとの間にロン ドン覚書が交わされ、開港・開市を同年 11 月 12 日(新暦 1863 年 1 月 1 日)から 5 年間 延期する代償として、輸入酒類とガラス製品の関税率引下げや貿易を阻害する制限の撤廃 が約束され、また横浜・長崎に保税倉庫建設(条文上は倉庫を「納屋」と表現)の準備を することについて取決めがなされた(続いてロシア、フランスとも同様の協定)。続く元 治元年(1864)の日仏パリ協定(パリ約定)でも、四国艦隊下関砲撃事件、薩英戦争等の 国内混乱の代償として大幅な関税率引下げが行われた(最恵国約款により他国にも自動適 用)。その後、イギリス、アメリカ、フランス及びオランダの4か国は、突如として武力 を背景に四国艦隊下関砲撃事件の未払賠償金の放棄を提案するとともに、大坂・兵庫の早 期開市・開港、条約の勅許及び関税率の引下げを強硬に要求してきた。その結果、慶応 2 年(1866)に改税約書等が交わされ、従量税の導入、従価税率の 5%への一本化、神奈川・ 長崎・箱館での保税倉庫建設(条文上は倉庫を「蔵」と表現)の準備等が取り決められた (最恵国約款によりこれら 4 か国以外にも適用)。なお、条約の勅許は実現したものの、 兵庫開港等が実現しなかったことから、未払賠償金の放棄は実現しなかった。

⑷ 明治期の貿易・経済

開港によって我が国の経済は徐々に発展していったものの、自由貿易の下で先進諸国と の競争に耐えられるだけのレベルには達していなかったため、政府自らが事業を興してこ れを経営し、民間に範を示し、事業の払い下げを行うといういわゆる殖産興業政策が推進 された。特に繊維産業は軍需産業と並んで重要視され、政府は群馬県富岡製糸場を設立したのをはじめとして、イギリスから輸入した紡績機を奈良、栃木、山梨、静岡等の希望 者に払い下げるなどして産業の育成を図った。 明治期に入ってからも横浜港の主要輸出品目は輸出額の 50~60%を占めていた生糸で あり、次いで茶であった。生糸は糸として輸出されるだけでなく、羽二重(注 14)や絹製 ハンカチーフといった二次製品としても輸出されるようになった。ただ、開港後 3、4 年 目頃から粗製濫造の弊が現われ、輸出量が増えるに従って品質の悪い生糸も多く出回るよ うになっていた。これが明治初期における生糸輸出停滞の大きな要因になったと言われる。 そこで、そのままでは日本の生糸の評判が下落し輸出に悪影響を与えることが懸念された ので、紆余曲折はあったものの明治 28 年(1895)、生糸検査所法が制定され、その翌年、 横浜生糸検査所(現在の横浜第二合同庁舎付近)が設立された。生糸の輸出は、生糸貿易 の開始当初はイギリス、フランス等ヨーロッパ向けが中心であったが、明治 10 年代後半 頃にはアメリカ向けが中心となっていた。なお、茶の輸出は、明治 32 年(1899)の清水 港開港以来、横浜港から徐々に清水港にシフトしていった。このほか、大正期には高級婦 人帽の材料である麻真田(注 15)の製造が横浜の地場産業として大いに発展し、輸出に貢 献した。 一方、輸入品目は、綿糸、綿織物、毛織物、鉄、兵器、薬品、砂糖、染料等多岐にわた っており、大部分はイギリスをはじめとする欧米諸国の近代工業製品であった。明治 40 年(1907)頃になると、砂糖、綿織物及び毛織物の輸入が著しく減少し、原綿(繰綿)及 び羊毛が増加した。砂糖の輸入が減少したのは、日清戦争後の下関条約によって我が国に 割譲された台湾で精糖業が著しく発達したためであり、綿織物及び毛織物が減少し原綿 (繰綿)及び羊毛が増加したのは、政府の殖産興業政策により国内の紡績業が著しく発達 したためである。

第4節 開港当時の神奈川運上所の業務

⑴ 入出港時の業務

入出港手続 運上所では、前述のように、今日の税関が行っている業務のほか、艦船の入出港手続、 洋銀両替、各国領事との交渉や外国人の取締りなどの幅広い任務に従事した。 当時の波止場はいずれも大型船を接岸することはできず、単なる物揚場にすぎなかった ため、大型船は沖合に停泊し、波止場との間を、貨物は艀や小船が、船客は伝馬船や小型 蒸気船が連絡した。外国貿易船(本船)が入港すると、運上所から来意尋問掛の役人(定 役)が部下(下番)2名を率いて、立会いの御目付及び通詞と共に沖合に停泊している本 船に赴き、船長に面会して「このたびは遠路の航海つつがなくご来着にて、恐悦至極に存 ず」などと切り出し、来航の目的、国籍、船名、積荷等について尋問した。入出港に際し ては手数料を徴求した。 また、取締りにあたっては、運上所の役人(下番)が本船に乗船して貨物を監視すると いう方法がとられた。夜になると通関未済の貨物についてはハッチ(艙口)を封印したう えで 2 名の役人が船に泊り込み、密輸(抜け荷)の防止に努めた。

シュリーマンの日本上陸 トロイ遺跡の発見で有名なハインリッヒ・シュリーマン(Heinrich Schliemann,1822 ~90、ドイツ人)が慶応元年(1865)に日本を訪れている。日本に上陸する際の様子や印 象を何人もの外国人が記録に残しているが、彼も入国の際の神奈川運上所職員の様子を次 のように記している。 「日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏 がにこやかに近付いてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下 げ、三十秒もその姿勢を続けた。次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。 荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞ れ一分(2.5 フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて『ニッポン ムスコ』(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義 務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなけ ればならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足 してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な対応だった。彼らはふたたび深々と おじぎをしながら、『サイナラ』(さようなら)と言った。
」 (ハインリッヒ・シュリーマン 著、石井和子訳「シュリーマン旅行記 清国・日本」より)

⑵ 初期の通関手続

開港当時は陸上に貨物の蔵置施設がなかったため、貨物を外国貿易船(本船)に積んだ まま通関手続が進められていた。しかし、施設が整ってくると、当然のことながら貨物を 陸揚げしたうえで手続が行われるようになった。以下は、「横浜税関沿革」(明治 35 年発 行)の「緒編 開港当時事務扱振」等による初期の通関手続の様子である。

提出書類 貨物を輸入する場合は、運上所に「差出書」(後の「陸揚願」。輸入申告書を兼ねたもの) を提出しなければならなかった。運上所では陸揚免状を荷主に交付し、貨物が陸揚げされ てくると、貨物の検査を行い価格を鑑定して関税の納付を受けた。納税が完了すると、運 上所は受取証を荷主に発給したが、輸入免状は交付せず、陸揚免状にこれを兼ねさせるの が例であった。

ところで、貿易章程では「差出書」に仕入書(インボイス)を添付することとされてい たが、運上所側では外交上の紛議を恐れ、外国商人が添付を怠るのを黙認した。その結果、 仕入書を提出する者が誰もいないというおかしな状態になり、それが明治期まで続いた。 勿論、そのために多くの虚偽申告が行われ、運上(関税)収入は極めて少なかった。当時 は 10 分の 1 ぐらいの低価申告が行われていたという。

価格鑑定 仕入書が添付されようとされまいと難しかったのが価格鑑定である。というのは、当時 の人々は舶来の品物などは滅多に見ることがなかったのであるから、それがいくらするも のなのか、そう簡単にはわかりようがなかったからである。そこで運上所では、輸入貨物 の価格鑑定のために目利人を置くこととした。この目利人には、横浜の日本商人のうち、
西洋小間物商、薬種商など、外国商品を取り扱った経験があり、かつ、資産のある者から 3 名が選任された。しかし目利人の中には、裏で荷主と馴れ合う者もいたため、運上所の 役人が自ら価格鑑定を行わざるをえなくなることもあった。 これについて次のような話が残っている。 当時、改掛(輸出入貨物の検査・鑑定の係)の中に高畠久治という老人がいた。この老 人は横浜を訪れた幕府の閣老や奉行所の役人の指示を受けて、外国の珍しい品物を買う使 いをしていたので、外国商品の相場をよく知っていた。このため、改掛の役人はこの老人 に価格の標準を聞いておき、出退勤の途中で実際に商品を確認する等して鑑定価格の算定 に当たっていた。このような苦心の結果、運上所の役人はやがて目利人に頼らなくともあ る程度自分で貨物の価格を鑑定できるようになったという。 明治期に入ると、税関は日本人の目利人では十分な鑑定を期待できないとして外国人鑑 定役の傭聘に踏み切り、横浜では明治 5 年(1872)から 26 年(1893)にかけてアメリカ 人を鑑定役として雇い入れた。また、アメリカ人鑑定役の建言に基づき、明治 11 年(1878) 以降は日本人の鑑定役も置かれることとなった。 なお、運上所(税関)の役人が輸入申告価格が低額であることを発見し、関税を増徴したときは、当該増徴税額を「増し税」といい、運上所(税関)では税務担当役人一同に対 しその一部を報酬として支給したという。この制度は幕末から明治 10 年(1877)頃まで 続けられた。

通関書類の翻訳 外国貿易船や外国商人から提出される書類は外国語で記載されていたので、運上所の翻 訳方(通詞)が和文に翻訳した。当時の翻訳方からは寺島宗則天保 3 年(1832)~明治 26 年(1893)。後に神奈川県知事、外務卿等を歴任)、福地源一郎(天保 12 年(1841)~ 明治 39 年(1906)。号は桜痴。後に東京日日新聞社長、衆議院議員)、子安 こやす 峻 たかし (天保 7 年 (1836)~明治 31 年(1898)。後に日本初の日本語日刊新聞・横浜毎日新聞の編集者を経 て読売新聞社長)、星亨(嘉永 3 年(1850)~明治 34 年(1901)。後に横浜税関長、衆議 院議長、逓信大臣等を歴任)などの逸材が輩出した。 ⑶ 保税制度の萌芽(借庫制度)

(2)でも述べたように、開港当時は貨物の蔵置施設がなかったため、貨物を本船に置い たまま輸入手続に入っていた。それでは貨物が船上に滞留するとして各国から強い要請が あり、慶応 2 年(1866)、イギリス、アメリカ、フランス及びオランダとの間で締結され た改税約書の中に借庫(保税倉庫の前身)制度が規定された。借庫制度とは、政府が所有 しまたは借り受けた倉庫を保税倉庫として民間人に貸し出す制度である。この改税約書の 規定に基づいて、同年、神奈川、長崎及び箱館の各奉行が借庫規則を制定した(注 16)。 同規則では、倉庫を借り受ける権利が外国の「荷物引請人」に対して認められ、寄託され る貨物も外国人が取り扱うものを対象とするとされた。ただし、やがて日本商人に対して も等しくその利用が認められるようになった。 同規則の制定後、まず神奈川運上所においてオランダ商人から買い取った倉庫(注 17) を借庫とし、輸入者の求めに応じ、保管料を徴収したうえで輸入貨物の蔵置を認めること とした。この借庫の誕生が、陸揚げされた貨物を国内に引き取るまでの間、関税の徴収を 猶予するという今日の保税制度の始まりである。これによりそれまで主に本船上に貨物を 置いたまま進めていた輸入手続を、借庫に貨物をいったん収納・蔵置したうえで行うこと ができるようになった。また、借庫内の貨物を再輸出する場合、いちいち戻税の手続をす るという手間も省けるようになった。この借庫制度は、2 か月間だけ試行し不都合があれ ば再協議を行うこととされていたが、試行期間満了時に各国から再協議の申し入れがなか ったため、そのまま明治元年(1868)まで延長された。明治 2 年(1869)、神奈川運上所 から政府に提出された改正意見に基づき、改正借庫規則が制定され、借庫制度が確立した。

⑷ 臨時開庁制度の始まり

運上所の執務時間外に貨物の積卸しをすることは原則として禁止されていたが、神奈川 運上所では、商業目的を持たない郵便船に限って、手数料を徴収することなくこれを認め ていた。これが臨時開庁制度の始まりである。明治期に入って入港船舶が増加したことに 伴い、郵便船にのみ認められていた臨時開庁の特典を一般の商船にも認めてほしいという 要請が強まったことから、横浜運上所(横浜税関に名称変更される直前の名称)では、明 治 5 年(1872)に臨時開関規則を制定し、税関の執務時間外に貨物の積卸しをすることを 認める一方で、当該臨時開庁については所定の手数料を徴収することとした。同規則の制 定を契機として臨時開庁制度は全国に広まっていった。当時の執務時間は「朝五ツ半(午 前 9 時)開門、夕方七ツ時(午後 4 時)閉門」であったが、、明治 23 年(1890)に税関規 則が制定され、午前 10 時から午後 4 時までに改められた。 なお、臨時開庁手数料は平成 20 年(2008)の関税改正により制度創設以来 136 年ぶり に無料化された(同年 4 月より実施)。

⑸ 明治政府の成立と税関

運上所から税関へ 神奈川運上所は慶応 3 年(1867)に横浜役所に引き継がれた。慶応 4 年(1868)に新政 府が成立すると神奈川奉行が廃止され、代わって神奈川裁判所(当時の「裁判所」は役所 の意)が置かれた。同裁判所は横浜裁判所(横浜役所の後身)と戸部裁判所(戸部役所の 後身)を総括したが、建物や人員も職務の内容も旧幕府時代のものとはほとんど異ならず、 運上所も以前と同じ建物で横浜裁判所の下、海関事務に携わった。神奈川裁判所は慶応 4 年(9 月 8 日に改元して明治元年)のうちに神奈川府、神奈川県とめまぐるしく名称が変 更され、その下部機構である横浜裁判所についても戸部裁判所を吸収統合するなどの機構 改革が行われた。その後、明治 4 年(1871)になると、神奈川運上所は神奈川県のもとを 離れて大蔵省に所属することになり、その名称も横浜運上所に変更されたが、さらにその 翌年(1872)11 月 28 日には横浜税関へと名称変更された。

対外交渉の重要性と役所の人事 横浜開港場において各国領事との交渉や外国商人を含む居留外国人の取扱いがいかに 重要かつ大変な行政課題であったかは、当時の神奈川運上所長官(横浜税関長)や神奈川 県令(県知事)の経歴によって窺い知ることができる。当時、運上所(税関)や県庁は外 国人との関係で絶えずトラブルを抱え、大いに神経を使った。このため、代々の神奈川運 上所長官(横浜税関長)はその大部分が欧米長期出張等の在外経験を有する者であった。 また、関税自主権が完全に回復される明治末期まで、多くの神奈川県令(県知事)が政府 の外国事務の経験者か欧米諸国滞在歴を有する者から官選により任命された(例えば前述 の寺島宗則陸奥宗光)。

ジョン・ハートリーあへん密輸入事件とマリア・ルース号事件 ここで、当時の横浜税関長や神奈川県令が対外的な問題でいかに苦労したかを、横浜港で起きた二つの特筆すべき事件を例にとって紹介してみよう。 一つは、ジョン・ハートリーあへん密輸入事件である。ジョン・ハートリーはイギリス の貿易商であったが、確信犯的にあへんの密輸入を繰り返し、明治 5 年(1872)の初回摘 発以来横浜税関に何度密輸入を摘発されようとも、そのたびに横浜税関長を相手どって執 拗に法廷闘争を繰り返した。この闘争は明治 26 年(1893)まで続いたが、一連の訴訟の うちハートリーを被告人とするものについてはイギリス領事に裁判権があることから、領 事裁判所において同人に対し微温的な判決が下されることもあった。しかし、歴代税関長 はハートリーに対し終始断固たる姿勢を貫き、最後には見事勝利した。 もう一つの出来事は、マリア・ルース号事件である。明治 5 年(1872)6 月 1 日、230 人の中国人船客を乗せたペルー船マリア・ルース号が横浜港に入港して来たが、彼ら中国 人は船客とは名ばかりで、実はペルーに売られていく奴隷であることが判明した。この取 扱いについて政府内では、我が国に法的権限のない問題に関わって外国ともめるのはよく ないとする江藤新平司法卿(天保 5 年(1834)~明治 7 年(1874) )、陸奥宗光神奈川県令 (弘化元年(1844)~明治 30 年(1897)。後に外相等を歴任)らの意見と、人道と正義に 立脚して対処すべきであるとする副島種臣外務卿(文政11年(1828)~明治38年(1905))、 大江卓神奈川県権令(弘化 4 年(1847)~大正 10 年(1921)。神奈川県令を経て、後に衆 議院議員、東京株式取引所会頭等を歴任)らの意見がぶつかった。結局は副島らの意見が 通り、陸奥県令が辞任するという事態になった。後任の県令に任じられた大江は神奈川県 庁で特別法廷を開き、自らが裁判長となって中国人の解放等を内容とする判決を下した。 この大江の裁判は、ペルー政府より越権であるとの強い抗議を招いたが、国際的には世界 共通の道義に立ったものであるとして称讃の対象となった。

県名の由来 ところで、県名には神奈川が採用されたが、何故、横浜県にならなかったのであろうか。 開港場となったのは実際には横浜であるが、条約上(タテマエ)は「神奈川」開港であ った。そこで幕府は「神奈川」奉行を置き、「神奈川」運上所を開設した。明治政府もこ れを受け継いで、行政機関として神奈川裁判所を置き、これが神奈川府を経て神奈川県と なる。明治初期は足柄県、六浦県など他にも県が分立していたが、これらが統合されて明 治 9 年(1876)、現在の神奈川県の原型ができた(さらに明治 26 年(1893)、多摩郡の一 部(三多摩)が東京府に移管されて現在の県域が確定)。結局、神奈川の県名は、横浜が 条約上は「神奈川」ということで開港し、そこに「神奈川」奉行が置かれたというところ から始まったようである。

第5節 対等な貿易取引を求める横浜商人の動き

⑴ 貿易取引の形態

商館貿易と直貿易 開港当初の貿易形態は、日本商人が産地から仕入れた商品を横浜の外国人居留地内にあ る外国商館に持ち込み、または外国商館が海外から輸入した商品を日本商人が引き取ると いう商館貿易(あるいは居留地貿易)であった。日本商人は売込商または引取商として外 国商人を相手に商館で取引をすることは許されていたが、自ら直接外国との間で貿易をす ること(直貿易)は認められていなかった。日本商人による直貿易が初めて本格的な形で 行われたのは明治 9 年(1876)の生糸輸出である。これには明治政府の後押し(注 18)があった。当時、我が国は輸入増加によって貿易収支が赤字に陥っていたが、それに加え、 外債の利払いや償還、外交活動の本格展開等によって外貨への需要が高まっており、政府 としては直輸出によって少しでも多くの外貨を獲得する必要に迫られていたのである。 直貿易はその後、外国商人の抵抗を排しながら徐々に一般化していく。しかし、明治 20 年代中頃でも貿易全体の 1、2 割程度にすぎず、関税自主権を完全に回復した時点(明 治 44 年(1911))でもなお外国商人の取扱いシェアは約 5 割を占めていた。大半の取引が 日本商人の手に移り、その商権が確立されたのは大正期もようやく中頃になってからのこ とであった。

初期の貿易取引の実情 開港に伴い横浜に進出した商人には、江戸の大規模な問屋(門閥の豪商)に始まり関東 甲信越などから集まってきた商人(在方商人)まで、様々な出自・性格の者がいた。 前述のように、横浜で外国貿易に携わる日本商人には売込商と引取商の二つの類型があ ったが、それらのうち売込商はさらに二つのタイプに大別することができた。第一のタイ プは、単に問屋として荷主から口銭(手数料)を受け取るだけのものであり、これには幕 府の要請を受けて横浜に出店した三井などの江戸の商人が多く当てはまった。第二のタイ プは、商品の産地と結びつき、問屋としてだけでなく自らも荷主として横浜・産地間の価 格差を懐に収めようとするもので、各地からやってきた在方商人の多くがこのタイプに属 した。これに対し、引取商の多くは江戸の商人であった。これは、彼らが大消費地・江戸 の流通機構を押さえていたことや輸入商品の買取りに必要とされる資金の調達力を相当 程度備えていたことによるものと思われる。 横浜の地場経済で急速に実力をつけ、主流を形成していったのは主に在方出身の売込商 であった。彼らは生糸、茶等の売込みを通じて大きな利益を得、早々に在方商人の域を脱 して横浜経済界の中枢を担うようになっていった。 ただし、中には甲州屋篠原忠右衛門のように、業容の拡大を急ぐあまり、投機的な取引 に走って多額の損失を蒙り、横浜開港場から姿を消して行く者があったことも忘れてはな るまい。そうした投機的商人の多くは明治の初期頃までには淘汰されてしまった。 また、淘汰された者たちの中には悪徳商人もおり、それらの者たちは、外国商人に品質 の劣る商品を売りつけたり、商品の目方をごまかして取引を行ったりした。前出のアーネ スト・サトウは文久 2 年(1862)における横浜での取引事情を外国人の立場から次のよう に記述している。 「横浜の場合は、外国の商人が取引きの相手にしなければならなかったのは、主として無 資本の、そして商売に無知な山師連中だったのである。契約の破棄や詐欺は珍しいことで はなかった。外国商人は、荷の渡る見込みのない商品購入を目当てに、こんな当てになら ぬ男どもに大枚の前金を支払ったり、また相場が下がれば荷受けを拒絶して自分の懐を痛 めぬようにする者どもを相手に、本国へ製品の注文を発したりしていたのだ。生糸には砂 が混じっていたり、重い紙ひもで結わえてあったりするので、代金を支払う前に梱を一々 念入りに検査せねばならず、茶も見本通りの良質品と信用するわけにはいかなかった。日 本の商人も、往々同様な手段で相手に返報されたが、不正行為を差引きすれば日本の方が はるかに大きかった。そんなわけで、外国人たちの間に、『日本人と不正直な取引者とは 同意義である』との確信がきわめて強くなった。両者の親善感情などは、あり得べくもな かったのである。 」(「一外交官の見た明治維新」より) サトウの見方はあまりにも身びいきであり承服するわけにはいかないが、それでも開港 当初の事情としてはあながち誇張とばかりも言い切れぬ面もあったであろう。

不利な立場の日本商人 以上のような一部の日本商人による目に余る取引は貿易取引全般にも悪影響を与え、明 治初期における生糸輸出停滞の大きな要因ともなる。しかしながら、開港後約半世紀の間 は、貿易の商権ないし主導権が不平等条約を背景に外国商人の側に握られ続けていたとい うことも否めない事実であった。 すなわち日本商人は、言葉のハンデがあるうえに取引上の知識が不足しており、また相 手方たる外国商人の側には治外法権があったことから、取引面で不利な立場に立たされる ことが多かった。外国商人は補助者として中国人の買弁を雇い、有利な交渉を行った(注 19)。買弁は外国商館内に専用の部屋を持ち、外国商人の行う検査の下請けをしたり、日 本商人との取引の仲介を行ったりした。取引の仲介にあたっては、日本商人から「南京進 上」と称する手数料を受け取った。 外国商人は例えば生糸を買い入れるとき、見本をあらかじめ売込商から出させておき、 商品が入荷するたびにこの見本と照合のうえ品質検査をして値段をつけた。これを「拝見」 といい、それがすむまでは手付金や契約証書を渡さなかった。中には品物に何やかやと文 句をつけて買いたたいたり、品物を持ち逃げする者もいた。あるいは、通常は現物を倉庫 に入れさせ、「看貫 かんかん 」と呼ばれる量目検査を行ったうえで代金の支払いを行うのであるが、 本国の値を見て安くなっていれば、損失を避けるため検査不合格として破談にしたりした。 このような場合、日本商人が役人に「おそれながら…」と訴え出ても、裁判権は外国人領 事にあるから(領事裁判権)、日本の役人ではどうしようもなかった。また、荷造り費用 や運搬費用に関しても日本商人が一方的に負担させられる慣行があった。 当時の状況について「横浜商工会議所百年史」では、「外商の買入れ価格は、明治初年 には海外市場価格の 2 分の 1 から 3 分の 1 であったといわれ、いかに外商が内商の無知に 乗じて買いたたき、法外な利益をあげていたかがうかがい知られる」と記している。また、 イギリス公使のオールコックは、「金の採掘のためならいざ知らず、そうでもないのに、 これほどありとあらゆる国から無法で身もちの悪い連中が大量に流れこんでいるところ は、東アジア以外にはない」と述べている(「大君の都」より) 。 さらに、貿易金融、外国航路などが外国人に押さえられていた当時においては、日本人 の立場はますます弱いものとならざるをえなかった。

⑵ 初期の外国商人

代表的な外国商人 横浜に進出した初期の外国商人は、対清貿易で経験を積み、豊富な資金と船舶を持つイ ギリスのジャーディン・マセソン商会やデント商会のような大商社で、これらがアジア全 域での貿易で当時、主導的な役割を果たしていた。 ジャーディン・マセソン商会は系譜的には 1782 年のコックス・リード商会に遡ること ができるが、1832 年に、元・東インド会社の船医でマニアック商会のパートナーであっ たウィリアム・ジャーディン(William Jardine,1784~1843)と、カルカッタで貿易商と して独立し、同じくマニアック商会のパートナーでもあったジェームズ・マセソン(James Matheson,1796~1878)という 2 人のスコットランド人が澳門 マカオ において設立した。同商会 は、東インド会社の貿易独占廃止以降も引き続きインド・清間のあへん・茶貿易を取り扱 い、1841 年には拠点を香港に定め、さらに 46 年に上海、59 年には横浜に支店網を拡張し て、1860 年代には東アジアで最大の貿易商社となった(現在も活動中)。 安政 6 年(1859)、同商会は神奈川運上所に隣接する 1 番の区画を借り入れ、翌年には 耐火倉庫などを建築して横浜に腰をすえ、その建物は「英一番館」と呼ばれるようになっ た。横浜での取扱い商品は生糸、茶、水油、寒天、昆布、銅、樟脳、椎茸等であった。ちなみに、現在の鹿島建設㈱の創業者・鹿島岩吉が「英一番館」の建物を施工したといわれ る(注 20)。 続いてアメリカのウォルシュ・ホール商会、オーガスティン・ハード商会、イギリスの デント商会、デビッド・サスーン商会も 2 番以下の土地を借り入れ、オフィスを構えた。 これらのうちウォルシュ・ホール商会(建物は「亜米一 あめいち 」)は生糸、茶、絹物を取り扱い、 デント商会(「英二番館」)は専ら生糸取引に従事した。ジャーディン・マセソン商会とこ れら 2 商会を合わせた 3 社が横浜では外国人居留地の始祖と呼ばれた(ただし、デント商 会は慶応 2 年(1866)の生糸輸出不振により倒産)。 なお、グラバー邸で有名なトーマス・グラバー(Thomas Glover,1838~99、スコットラ ンド出身)は文久元年(1861)に長崎でグラバー商会を興し、ジャーディン・マセソン商 会等と取引するとともに、同商会の長崎での代理人となった。

横浜外国人商業会議所の設立 開港後、横浜港での貿易がめざましく伸びていくにつれて幕府と外国商人との間の軋轢 も増していった。当時の幕府は国内の攘夷勢力に押されて貿易の国家統制を図ろうとして いたが、これは外国人の側からすれば、幕府の役人が貿易や商業に対して不当な干渉・妨 害を加えているということにほかならなかった。そこで慶応元年(1865)、居留地の外国 商人により横浜外国人商業会議所が設立された。同会議所はやがて東京の会議所と合併し て横浜東京外国人商業会議所となる。 横浜外国人商業会議所では、日常的に内外商の紛議の調停に携わるほか、各国の公使に 対しても商人・居留民の利益のためにしばしばその影響力を行使した。例えば、後述の日 本商人による生糸改会社の設立や連合生糸荷預所事件に際しては、外国商人の利益を守る ために一致団結したほか、後に横浜築港に関する建議なども行った。 同会議所の活動は横浜商人が横浜商法会議所を設立するうえでも大きな刺激となった。

⑶ 横浜商人の団結

商人団体の組織化 横浜開港場には開港当初から横浜町会所という半ば自治的な町政機関が存在していた。 町政を担ったのは総年寄 2 名とその下の名主(各丁目ごとに 3 名)であり、神奈川奉行所 が彼らを指名し役人を常駐させて監督した。行政経費は、売込商・引取商からその貿易額 に 1000 分の 5 を掛けて算出した歩合金を自ら徴収して賄った(注 21)。しかしながら、明 治新政府が成立すると、明治 5 年(1872)に町役人制度(総年寄・名主)が廃止され、翌 年には町政が官選の区長・戸長の手に移されたので、町会所は町政機関としての機能を失 い、貿易商等の商人の集会所となった。 横浜町会所と同じ頃にスタートしたものとしては商人会所というものがあった。これは 横浜商人による組織的活動の始まりともいえるもので、町会所の活動を支える歩合金の徴 収・管理事務もこの商人会所が請け負っていたものとみられる。 明治 13 年(1880)になると、商人会所を発展させる形で横浜町会所内に横浜商法会議 所が設立され、初代会頭には生糸貿易で活躍した原善三郎が就任した。そもそも商法会議 所は、商工業の保護育成を図ることを目的に、明治 11 年(1878)、渋沢栄一天保 11 年 (1840)~昭和 6 年(1931) )、五代友厚天保 6 年(1835)~明治 18 年(1885))らによ って東京・大阪・神戸に設立されたのが始まりであるが、横浜における同会議所設立の最 大の動機は、不平等条約の下における外国商人の専横な商行為を何としても是正したいと いうことであった。当時、いわゆる「商権回復」運動が盛り上がりつつあり、外国人商業会議所の実力のほどを見せつけられていた横浜商人も商法会議所の下に結束・連携して外 国人の勢力に対抗しようとしたのである。 ところが、横浜商法会議所では、内外商間の紛争解決などの実際上の活動は原善三郎、 小野光景、大谷嘉兵衛など主要会員の個人的力量に負うところが大きく、また具体的な対 応も個々の同業組合に委ねられることが多かったようであり、同会議所の組織自体に内外 商の紛議を調停するだけの機能が十分に備わっているわけではなかったようである。その 活動はやがて明治 10 年代半ばから 20 年代にかけて停滞するようになった。 商法会議所は法律によらない私設の団体として活動していたが、我が国の経済発展に伴 い会議所制度の抜本的強化を図るため、明治 23 年(1890) 、商業会議所条例が制定された。 同条例において商業会議所は法人格を有する地域経済団体であると規定され、全国組織と して商業会議所連合会が結成された。横浜では、明治 10 年代以降、共有物事件(注 22) に代表されるように、住民が一般商人や地主を中心とする地主派と貿易商を中心とする商 人派に分裂して内紛を繰り返し、さらに同条例が画一的すぎて開港場である横浜の実情に は合わないと考えられたことなどもあって、他地域のようにすんなりと商業会議所は設立 されなかった。しかしながら、明治 28 年(1895)になると共有物事件が長い抗争の末、 ようやく決着し、条例も改正され、さらには中野健明神奈川県知事らの熱心な働きかけも あって、横浜商人はようやくここに大同団結して横浜商業会議所(初代会頭:原善三郎) を設立することになったのである。(なお、明治 35 年(1902)、同条例は廃止され、商業 会議所法が制定された。) 昭和 2 年(1927)には、会議所の組織を一層強化するとともに経済界における指導的役 割を期して商工会議所法が制定され、全国組織として日本商工会議所が設立された。横浜 においては昭和 3 年(1928)、横浜商工会議所が設立されている。

生糸改会社 生糸輸出に伴い、前述のように粗悪な品質のものも出回るようになったことから、その ままでは日本の生糸の対外的信用が大きく損なわれるおそれが出てきた。そこで陸奥宗光 神奈川県令が呼びかけたのがきっかけとなって明治 6 年(1873)、生糸売込商が団結して 生糸の自主的検査をするために横浜生糸改会社を設立した。しかし、その実態は生糸売込 商の同業組合というようなものであったようであり、検査機関としては見るべき実績を残 すまでには至らなかった。他方で、横浜の生糸商人が政府の後押しを受けて一つにまとま って行動することに危惧を感じた外国商人は、横浜外国人商業会議所を通じてイギリス公 使ハリー・パークス(Harry Smith Parkes,1828-85。オールコックの後任)に対し、生糸 改会社が貿易の自由を侵し通商条約に違反するとの申し入れを行っている。 生糸に続いて明治 8 年(1875)には茶売込商が横浜製茶改会社を設立している。 生糸改会社は運営がうまくいかず、明治 10 年(1877)には廃止されてしまったが、こ のような取組みは後述の連合生糸荷預所等を経て 19 年(1886)には蚕糸売込業組合へと 発展していった。一方、製茶改会社は茶商協同組合(明治 12 年(1879)設立)を経て 17 年(1884)には茶業組合へと発展していった。さらに明治 22 年(1889)には横浜貿易商 組合が結成されるに至る。

鉄輪問題
 明治 12 年(1879)に起きたのが鉄輪問題である。当時、外国からの輸入品である綿糸、 金巾 かなきん 、ラシャ等は、輸送の安全のために布で包装した上を鉄輪で固くくくる慣習があった。 日本商人がこの貨物を買い取る際、外国商人お抱えの中国人蔵番 くらばん が鉄輪をはずして貨物を 引き渡した。そして、蔵番は不用になった鉄輪を鉄商に売却して収入を得ていた。その背景には、欧米の外国商人が中国人を前述の買弁や蔵番として雇用しておきながら、まとも な給与を支給していないという問題が横たわっていた。 ところが、この鉄輪の代金は前もって外国商人に支払ってあったので、日本商人にとっ ては損失となり、その額は年に 8 万円ともいわれた。そこで横浜の引取商たちは明治 12 年(1879)10 月、結束してこの不公正な商慣習をやめると通告、それに同意しない外国 商人とは取引を拒否する旨宣言して同月 23 日よりこれを実行に移した。そして 12 月初旬 までにはすべての外国商人に同意させ、完全な勝利を収めることができた。

連合生糸荷預所事件 横浜商法会議所が設立されたのと同じ年の明治 13 年(1880)、原善三郎、茂木惣兵衛、 渋沢喜作の 3 名から佐野常民大蔵卿にあてて「連合生糸荷預所設立願」が出された。これ は、横浜へ入る生糸をこれまでのように外国商人のところへ個々に持ち込むのではなく、 荷預所がこれから建造する倉庫(共同倉庫)に独占的に集め、検査・秤量や引渡し等もそ こで行おうとするものであった。その狙いは、地場の加盟生糸問屋が団結して流通機構を 押さえるというところにあったが、却下された。この願いは翌 14 年(1881)、三井物産と 三菱の主宰する貿易商会が加わって再提出され、ようやく受理された。同年 9 月、荷預所 は開業の第一歩を踏み出す。 しかし、これに対して外国商人は一切の取引を拒否するなどして激しく抵抗した。この ため、横浜では 9 月半ばから 2 か月間にわたって貿易がストップする事態となった。いよ いよ対立が深まった 10 月、事態を憂慮したアメリカ公使ジョン・ビンガム(John A. Bingham)の斡旋により日本側から渋沢栄一と益田孝(嘉永元年(1848)~昭和 13 年(1938))、 横浜外国人商業会議所側からウィルキン会頭(A.J.Willkin)とトーマス・ウォルシュ (Thomas Walsh)が出て妥協工作が行われた。ウィルキンは、日本側が提案している「中 央市場」(=共同倉庫)の設立は認めるが、それができるまでの間は、現品を外国商人の 倉庫に搬入し検査のうえ、代価支払その他について記入した約定書を交換するという妥協 案を提示した。紆余曲折の末、この案が日本商人、外国商人の双方に受け入れられた。 その結果、旧来の取引上の悪い慣習はいくらか改められたが、それでもなお契約後に破 談になるといった例は相変わらず続き、また共同倉庫も不況の影響により関係者の足並み が乱れ、いったんは看板を掲げたものの、たちまちのうちに、東京に設立された他の新会 社に吸収されてしまった。この事件は、横浜の有力貿易商人の力を伸ばすうえで効果はあ ったが、商慣行の改善という面では必ずしも成功とはいえなかった。

⑷ 横浜生糸検査所の設立

明治 29 年(1896)になると、横浜生糸検査所が設立された(11 頁の第 3 節⑷参照) 。 外国人に検査されるのではなく日本商人自らが検査しようということでフランスから機 械を買い入れて事業を始めたが、当初は利用者が少なかった。これは、生糸検査所法に基 づく検査が任意で強制を伴うものではなかったことや、当時の外国商館や日本商人(売込 商)が生糸の品位を検査する機械を自ら備えていたことなどによる。しかし、その後取引 量が増加し盛況になっていくにつれ、それら自前の設備では対応しきれなくなったことか ら、検査所に持ち込まれる件数が年々著しく増加していった。当時の状況について「生糸 検査所 80 年史」には、「外商は最初検査所を白眼視していたというが、次第に利用するも のが増加し、明治 34 年以降は外商の請求件数が邦商のそれを上回るようになった」と記 されている。横浜生糸検査所ではこうした高まる需要に応えるため、体制や施設を逐次整 備・拡充していった。 同検査所は大正 12 年(1923)に関東大震災により著しい被害を受けたが、その復旧後、間もなく、14 年(1925)には建築家・遠藤於菟 おと (慶応 2 年(1866)~昭和 18 年(1943)) の設計により広大な庁舎や倉庫が建造された。また、昭和 2 年(1927)からは輸出生糸の すべてに対して強制的に正量検査が行われることとなった。これにより生糸の品位が確保 され、安心して取引できるようになったが、皮肉なことに横浜における生糸取引は既にそ の頃から徐々に哀退していく運命にあった。

第6節 港湾関係業務の発展

⑴ 貿易業

明治 20 年代後半頃から日本商人と諸外国との直貿易が増え始め、大正期に入ると、そ れが商館貿易を上回るようになった(注 23)。これは、政府が直貿易を奨励したこと、条 約改正により我が国が諸外国と対等な関係になったこと及び以下に述べるように日本人 自身により貿易業、海運業や貿易金融業務等の港湾関係業務が発展したことなどによるも のであった。 例えば、貿易業をみると、横浜では三井物産会社(明治 9 年(1876)設立。後に(旧) 三井物産㈱)の活躍が貿易の発展に大きく寄与した。同社は明治 7 年(1874)に初代社長・ 益田孝(前出)が井上馨天保 6 年(1836)~大正 4 年(1915))と共に設立した先収会 社がその前身であり、創業とともに生糸、茶等の売込みを始め、10 年(1877)には早く も直輸出を手がけている。横浜正金銀行が誕生するまでは大蔵省から海外荷為替の特権を 賦与され、海外各地にも支店網をめぐらした。明治後期には生糸、綿糸・綿布、石炭をは じめ数多くの種類の商品を取り扱い、明治 40 年代には当時の我が国貿易総額の約 2 割を 占めていたといわれる。このように同社の発展は横浜のみならず日本の貿易の興隆に大い に寄与した(注 24)。

⑵ 海運業

海運業をみると、横浜では日本郵船㈱の存在と役割が大きかった。同社の前身の一つは、 明治 3 年(1870)に設立された三菱商会である(設立当時の社名は九十九商会)。明治 8 年(1875)、政府は三菱商会の海運事業に対し手厚い助成策を講じるとともに、国有会社 であった日本国郵便蒸気船会社の解散に伴い、その所有船舶も無償で提供した。こうして 郵便汽船三菱会社ができた。もう一つの前身は、明治 15 年(1882)に三菱独占の弊害抑 制と海軍の補助機関としての役割を期待して設立された三井系の国策海運会社・共同運輸 会社であった。この郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が運賃値下げ競争でお互いをつぶし あうような消耗戦を展開し始めたことから、政府の仲介で明治 18 年(1885)に対等合併 してできたのが日本郵船会社である。同社は明治 26 年(1893)に日本最初の株式会社の 一つとして日本郵船㈱となった。 日本郵船㈱は外国の有力海運会社と激烈な競争を展開しながら世界各国に向けて次々 に定期航路を開き、日本人自身の足として大いに活躍する。 なお、横浜では、明治 29 年(1896)に浅野総一郎嘉永元年(1848)~昭和 5 年(1930) 。 浅野セメント㈱等から成る浅野財閥創始者)が渋沢栄一安田善次郎大倉喜八郎、原 六郎などの協力を仰いで創立した東洋汽船㈱も活躍した。同社は北米航路を開設するなど 積極的に営業展開していたが、第一次世界大戦後の海運不況と北米航路をめぐる競争の激 化に見舞われて経営が著しく悪化し、大正 15 年(1926)、日本郵船㈱に吸収合併された。

⑶ 貿易金融業

また、貿易金融に関しては明治 13 年(1880)、横浜正金銀行が設立された。 その頃既に国内金融に関しては、明治 2 年(1869)に設立された横浜為替会社が発展的 に解消して 5 年(1872)、第二銀行が誕生し、11 年(1878)には第七十四銀行も誕生して いたが、日本商人に何としても望まれたのは日本人の経営する外国為替銀行であった。 それまでの日本商人は、外国為替や正貨である銀貨の供給が文久 3 年(1863)以降横浜 に進出してきたセントラル銀行(本店・ボンベイ)、チャータードマーカンタイル銀行(本 店・ロンドン)、オリエンタル銀行(同)、香港上海銀行(本店・香港)等の外国銀行に握 られ、それを利用して外国商人が、例えば売込商に前貸資金を供与し、その見返りに大幅 な安値で商品を仕入れるなどしてうまく立ち回り、巨利を得ているのを苦々しくながめて いた。 外国銀行の中でも最も活躍がめざましかったのは当時東洋における最大の植民地銀行 であったオリエンタル銀行で、同行は明治政府との間でも、①維新戦争時にソシエテ・ジ ェネラル銀行(本店・パリ)により押さえられていた横須賀製鉄所の政府への引き渡し、 ②大蔵省造幣寮(後の大蔵省(現・財務省造幣局。現在の独立行政法人造幣局)の建 設と運営、③我が国最初の鉄道建設(新橋・横浜間)などの重要施策に金融を通じて深く 関わった。 このように外国銀行が草創期の我が国の近代国家建設や民間貿易取引において大きな 存在感を示す中、周囲からの大きな期待を担って登場したのが横浜正金銀行である。現在 の神奈川県立歴史博物館がかつての本店である。同行は明治 20 年(1887)の横浜正金銀 行条例により外国為替専門銀行となり、なお勢力の強い外国銀行に対抗しながら、徐々に その地歩を固めていく(注 25)。

倉庫業

倉庫業の発展も重要な要因である。もともと保税倉庫は運上所(税関)自身が保有・管 理する借庫という形でスタートしたが、これを借り受けることができるのは原則として外 国商人に限られていた(やがて日本商人にも開放)。自らの倉庫を持つということは商品 の現物を自ら押さえているということを意味し、治外法権を有する外国商人との関係では 自らの商売の安全性・有利性を確保するという意味も持っていた。そこで明治 10 年代に なると、日本商人に自らの倉庫を作ろうという動きが始まり、20 年代からその動きが本 格化した。しかし、横浜の倉庫業が独立した企業として営業の基盤を固めるようになるの は明治もようやく 30 年代以降のことであり、収益が安定して着実な成長を開始するのは 大正期に入ってからのことであった。倉庫会社は大雑把に言えば財閥系や地場系などに分 かれるが、多くの老舗倉庫が明治 20、30 年代から大正期、昭和初期にかけて創業してい る。 なお、明治 30 年(1897)に保税倉庫法が成立したが、同年にこの法律の下で民営倉庫 として横浜で初めて保税倉庫の許可を受けたのは中央倉庫㈱である(注 26)。横浜商人の 貿易面での活躍は、その商品を保管管理したこれらの倉庫の存在を抜きに語ることはでき ない。 さて、港湾関係業務と言えば、上記のほかに荷役作業、港湾運送、水先案内などといっ た業務も開港時以来、港を支える業務として連綿と続いてきた。本章では対外関係に焦点 を当てているのでそれらの業務についての説明は省略するが、そもそも港に埠頭さえ整備 すれば船がひとりでにやって来るものではなく、必要な一連の業務がきちんと備わってこ そ港が港としての機能を発揮しえ、入港船を招き入れるものである。そのことをあえてここに付言しておく。

第7節 関税自主権の回復と近代的税関制度の確立

関税自主権回復のための努力

安政 5 年(1858)に欧米各国と締結された通商条約は、日本に関税自主権がなく、また 外国人に治外法権を認めるなど極めて不平等な内容であった。そのため我が国にとっては、 この不平等条約を改正することが極めて重要な国家的政策課題となった。例えば関税自主 権の問題については明治 4 年(1871)、伊藤博文大蔵少輔 しょう (天保 12 年(1841)~明治 42 年(1909))が保護関税論と併せて関税自主権回復の必要性を建議・提唱しているが、こ れに同調した大久保利通大蔵卿と井上馨大蔵大輔 たいふ は同年、富国強兵の原資である関税収入 を決定する権利を外国の手に握られているのは「実に苦痛の至りに存じ奉り候」として関 税自主権の回復を求める意見書を正院に対し提出している。 政府は、明治 4 年(1871)、岩倉具視(文政 8 年(1825)~明治 16 年(1883))を全権 大使とする使節団を派遣しアメリカとの交渉にあたらせたが、成功しなかった。明治 11 年(1878)には寺島宗則外務卿が関税自主権回復のための新条約をアメリカとの間で締結 し調印したが、イギリスをはじめとする他国の反対により発効にまでは至らなかった。次 いで明治 15 年(1882)、井上馨外務卿が領事裁判権の撤廃、外国人に対する国内居住権・ 営業権の開放、外国人判事の採用等を発案するとともに、欧化主義を唱え洋風生活を奨励 するという、いわゆる鹿鳴館時代を現出した。しかし、人々の欧化主義への反感もあり、 井上卿の大幅な譲歩案に対する国内の反対運動が高まり、この試みは失敗した。明治 21 年(1888)には大隈重信外相(天保 9 年(1838)~大正 11 年(1922))が先の井上馨案を 若干改善した案を作成し、これをもとにアメリカ、ドイツ、ロシアとの交渉に成功したが、 その内容がロンドン・タイムズ紙に載ると国内の反対運動が再燃し、また大隈外相に対す る爆弾テロもあって、再び挫折した。大隈外相の後を継いだ青木周蔵外相の交渉は改正目 前まで進んだが、明治 24 年(1891)、来日中のロシア皇太子が大津で遭難するという大事 件(いわゆる「大津事件」)が起きたため、青木外相はその責任を取って辞職し、条約改 正作業は中断した。 その後陸奥宗光外相によって作業が再開され、明治 27 年(1894)、日清戦争の開始直前 に我が国はイギリスと新条約の締結に成功したのをはじめとして、30 年(1897)末まで に各国との新条約調印に成功し、32 年(1899)の条約発効を待ってようやく治外法権の 撤廃、相互対等の最恵国待遇の獲得及び関税自主権の一部回復に成功した。しかし、関税 自主権の完全な回復はなお遅れ、明治 44 年(1911)、小村寿太郎外相(安政 2 年(1855) ~明治 44 年(1911))の時にようやく改正に成功し、ここに長年の懸案であった条約改正 が完全に実現した。これにより、政府は関税政策を通じて国内産業の保護と輸出の拡大を 図ることが可能となった。

⑵ 関税関連法規の整備

開港時から明治期の初めにかけては、我が国に外国貿易に関する国内法はなく、各国と の間で締結された貿易章程等の条約法規が唯一の法規範として用いられていたが、貿易の 進展とともに我が国の実情に合致しない適用事例が数多くみられるようになったため、関 連法規の整備の必要性が高まっていた。 こうした中、明治 23 年(1890)に税関法及び税関規則が制定されたが、これらの法規は領事に裁判権があるために外国人に対しては実質的に適用されず、ほとんど有名無実の存在となっていた。したがって、まず不平等条約の改正を行う必要があり、前述のように 各国との交渉の結果、明治 27 年(1894)から 30 年(1897)にかけて各国との間で新条約 の締結が行われた。新条約の締結を契機に国内法の整備が行われ、関税定率法(明治 30 年(1897))、保税倉庫法(明治 30 年(1897) )、関税法(明治 32 年(1899) )、屯税法(明 治 32 年(1899))、税関仮置場法(明治 33 年(1900))及び税関貨物取扱人法(明治 34 年 (1901))がそれぞれ制定され、自主的な税関行政の基礎が確立された。

⑶ 適正通関確保へ向けての前進

監視取締手段の整備 税関の監視部門においては、開港時以来、入港船舶に対し積荷の有無、種類等を調査し て取締り上の手段を講ずるとともに、税関の執務時間外に貨物の積卸しができないよう積 荷の搬出入を行うハッチ(艙口)に施封を行うという方法をとってきた。 明治 32 年(1899)になると前述のように関税法が制定され、船陸交通に対する取締り や犯則事件の調査、処分等に関する規定が定められるとともに、関税法上の犯則として、 輸入禁制品の密輸入、関税ほ脱、無許可輸出入及び虚偽申告書の提出等が規定された。ま た、同法の制定により、犯則調査の際の倉庫等への立入り、捜索、物件の差押え及び警察 官吏に援助を求めることなどが可能となった。

通関手続の改善と税関貨物取扱人制度の創設 明治 23 年(1890)の税関規則には、輸入者は輸入手続の際、「陸揚願」に仕入書(イン ボイス)を添付すべきことが明記された。これに加え、関税法で、仕入書を添付しない場 合は税関官吏の鑑定価格に異議を申し立てることができないと規定されたことから、仕入 書の添付が促されることとなった。 輸出手続においては、明治 32 年(1899)に輸出税が全廃されたため、手続が著しく簡 素化された。 また、明治 34 年(1901)には、通関手続を代行する税関貨物取扱人に関する初めての 法律として税関貨物取扱人法が制定された。税関貨物取扱人制度は、税関長会議での横浜 税関長からの提案をきっかけに海外出張報告(外国にはライセンス・カストム・ブローカ ーがいるから通関がスムーズにいっているとの報告)を参考にしながら立案されたといわ れる。同法においては、税関貨物取扱人の営業を許可制とすることや業務に関して税関長 の監督を受けることなどが規定された。

⑷ 保税制度の確立

幕末期に誕生した借庫によって我が国に初めて保税の概念が登場したが、明治期には上 屋、保税倉庫及び税関仮置場等の保税地域が誕生し、現在の保税制度の原型ができ上がっ た。輸入貨物が我が国に到着すると、短時日のうちに国内に引き取られる貨物は上屋に、 一定期間保管されたうえで引き取られる貨物は保税倉庫(かつての借庫)に、加工・製造 等を行う貨物は税関仮置場にそれぞれ搬入された。これらのうち上屋と保税倉庫の違いは 蔵置期間の差異であり、上屋は輸出入手続を行う通関施設であるため蔵置期間が短く、一 方保税倉庫は商取引の利便を図るために設置されたものであるため長期にわたる蔵置が 可能とされた。 それぞれの制度のあらましは以下のとおりである。

上屋

上屋は、輸出入貨物を一時的に蔵置するために官によって運上所(税関)構内に設けら れた施設である。蔵置された貨物は、商人によって引き取られるまでは運上所(税関)の 監視下に置かれた。明治維新以前は、上屋は単なる物揚場と考えられていたため、上屋内 を整理する規則はなかったが、貿易の進展により貨物が増加するとこれを整理する規則が 必要となった。そこで明治 5 年(1872)、横浜税関が上屋規則を制定し、まず横浜港にお いてこれを実施し、順次各港に適用することとなった。同規則により、蔵置期間は 72 時 間以内とすることやその期間を超える場合、税関長は貨物を借庫に送ることができること などが定められた。上屋は当初は官設のみであったが、蔵置場所不足を補うため、明治 6 年(1873)には私設上屋も認められるようになった。ただし、私設の上屋は、実際には日 本人のみが設置した。その後、上屋規則は明治 32 年(1899)に制定された関税法に吸収 された。

保税倉庫 明治 30 年(1897)に保税倉庫法が制定されたが、これは借庫規則を発展させたもので あり、従来の官設に加え私設の倉庫も認められた。横浜における許可第 1 号が中央倉庫㈱ であることは前に述べたとおりである(24 頁参照)。私設保税倉庫も税関の強い監督下に 置かれた。上屋が輸入手続未済貨物を一時的に蔵置するための施設であるのに対して、保 税倉庫は長期間の蔵置(1年以内)が可能となる施設であった。また、同法によって輸入 手続未済貨物の運搬(保税運送)ができることなども定められた。

税関仮置場 明治 33 年(1900)に税関仮置場法が制定された。従来、輸入者は、陸揚貨物を 72 時間 以内に引き取る場合は上屋を利用し、その期間を超えて蔵置する場合は保税倉庫を利用し ていた。しかし、貨物の改装、仕分及び破損品の手入れを行う必要がある場合にはそれら の施設の利用ができないこととされていた。税関仮置場法はこの不便を解消するために制 定された法律である。 ところが、同法によって設けられた仮置場はすべて官設であり、その機能も輸入手続未 済貨物の改装、仕分及び破損品の手入れができるにすぎなかった。そこで、機能を拡大し 加工貿易の一層の発達を図るため、大正元年(1912)に仮置場法が制定された。これによ って、仮置場では単なる改装や仕分だけでなく、外国貨物の加工や外国貨物を原料とする 製造ができるほか、これらの加工・製造に内国貨物を使用できることとなった。さらに、 従来の官設に加え、税関の監督の下に私設の仮置場を設置することも認められた。この仮 置場法は、昭和 2 年(1927)に保税工場法へと発展した。

一棟貸倉庫と仮置所 上記の保税上屋、保税倉庫及び税関仮置場以外の保税地域として、横浜税関には一棟貸 倉庫及び仮置所という名称の倉庫が存在した。これらは保税上屋等を補完するものとして 設置された倉庫であった。 明治元年(1868)、アメリカ及びイギリスの商人から運上所構内に倉庫を建築したいと いう申し出があったが、神奈川運上所はこれを官費によって建築し、その永代使用を認め た。これが一棟貸倉庫の始まりである。その後、他国の商人に対しても同様に倉庫の永代 使用が認められた。これは、外国商人に対する特別待遇であり、借庫が本来は条約締結国 の国民の利便のために設けられたものであるにもかかわらず一般の商人に対しても等し く開放されていたのに対して、一棟貸倉庫は特定の外国商人にのみ倉庫 1 棟の独占的使用を半永久的に認めるというもので、いわば治外法権的な性格を持つものであった。一棟貸 倉庫は機能的には借庫と同じであり、当該特定の外国商人たちにとっては非常に便利な施 設であったと考えられる。歴代の横浜税関長は、そのようなあり方を改めようと試みたが、 諸外国の抵抗にあって目的を遂げることはできなかった。しかし一棟貸倉庫は、明治 33 年(1900)、税関仮置場法の制定を機に廃止された。 仮置所は、明治 22 年(1889)に横浜税関前の西側の波止場(いわゆる「税関波止場」に接した海面を埋め立ててその上に官費によって建築された 5 棟の倉庫で、上屋の混雑解 消を図るために貨物の引取りまでの間の一時的な置場として設けられたものであるが、機 能的には上屋と同じ施設である。それまでの横浜税関構内の上屋は非常に狭隘であり、貨 物が上屋の内外に置かれ、そのため検査や通関手続が遅れがちになっていた。そうした状 況について苦情を訴える外国商人が多くなり、イギリス総領事が横浜税関に改善を要望し たが、それが受け入れられなかったため外務省に問題を提起した。そこで、外務省が大蔵 省(本省)と交渉した結果、大蔵省から横浜税関に対して外国商人の意向を確認するよう 指示があった。その結果としてこの仮置所が設置されたのである。前述の一棟貸倉庫が外 国商人に対する独占的使用を認めたものであったのに対して、この仮置所は外国商人の要 望によって設置されたものではあるが、内外の商人に利用を認めたものであった。これが 大いに利用され活況を呈したため、明治 23 年(1890)にさらに 1 棟が増築された。その 後、仮置所は明治 33 年(1900)の税関仮置場法の制定に伴い廃止され、6 棟の倉庫のう ち、1 棟は税関仮置場の倉庫に、また 1 棟は収容倉庫に、他の 4 棟は輸入貨物の上屋とし てそれぞれ使用されることとなった。

第8節 象の鼻と新港埠頭

⑴ 鉄桟橋と象の鼻地区の整備

横浜港での貿易は、開港以来、神奈川運上所またはその後身の横浜税関の前の波止場(象 の鼻地区)(30 頁の(注 12)参照)において行われていたが、船舶が着くことのできる本 格的な岸壁がなく、貿易量の増大に既存の波止場の処理能力が追いつかなくなっていた。
ところで、当時の国力は現在とは比べものにならないほど弱く、政府は全国のどこにで も港を整備することができるというわけではなかった。そこで政府内では東京と横浜のど ちらに本格的な港を整備するかで長年論争が続いていたが、そのような中、明治 16 年 (1883)にアメリカから元治元年(1864)の四国艦隊下関砲撃事件の賠償金 78 万 5 千ド ルが還贈されてきた。もともとアメリカの国内では、自国が形ばかり参戦しただけなのに 多額の賠償金(しかもそのほとんどが、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの 4 か 国が下関の街を焼き払わなかった ........ ことに対しての代償なのであった)を幕府からむしり取 ったのは筋が通らないという意見が多かった。南北戦争時の北軍の将軍であったグラント 大統領(Ulysses Simpson Grant,1822~85,在任 1869~76)もその代表的な論者の一人で、 彼は大統領退任後来日した折に一層その感を深め、何年もの歳月を費やしてアメリカ議会 を説得し、ようやく還贈の実現にこぎつけたのであった。 この還贈金とその運用益を活用して横浜の港を整備しようと言い出したのが明治 21 年 (1888)に外相に就任した大隈重信であった。彼は明治初期に長い間大蔵卿を勤めていた のであるが、その頃から積極的な横浜築港論者であった。その彼の閣内での強力な発言が 閣議を横浜築港に導き、こうして明治 22 年(1889)、象の鼻地区の整備工事(第 1 期築港 工事)が開始されたのである。なお、この年は横浜に市制が敷かれた年でもある。

工事は明治 29 年(1896)に竣工した。この工事においては鉄桟橋(大桟橋の前身)が 建築されるとともに(明治 27 年(1894)完成)、税関前から鉄桟橋基部まで(現在の神奈 川県庁より海側の区画)が埋め立てられ、陸上設備として倉庫、上屋、起重機等が設置さ れた。この工事は神奈川県庁と内務省が行い、完成とともに閣議決定を経て横浜税関の所 管に移された。

⑵ 新港埠頭の整備

明治 30 年(1897)になると、横浜商業会議所が横浜税関長に対し「税関貨物渋滞に関 する具申書」を提出し、税関施設等の改善を要望した。これを踏まえ、横浜税関では新た に新港埠頭を建設する案を準備した。この案を時の水上浩躬 みなかみひろみ 税関長(文久元年(1861)~ 昭和 7 年(1932))が大蔵省に上申し帝国議会に提出するよう要望したところ、かねてよ り横浜港建設に積極的であった井上馨蔵相は、「このような小規模な計画はやめて、将来 の貿易の発展にも応じられる大規模なものを作るように」と指示した。そこで水上税関長 は、内務省を退官したばかりの古市 ふるいち 公 こう 威 い 工学博士(安政元年(1854)~昭和 9 年(1934) (注 27)に依頼して新港埠頭の設計図を作成した。ところが、横浜市民はこのような大規模 埠頭では港内が混雑して船舶の航行に支障が出るとして強く反対した。横浜貿易新聞(神 奈川新聞の前身)、時事新報等も反対の論陣を張った。これに対し水上税関長は繋船 けいせん 岸壁 の重要性を熱心に説き、様々な手立てを講じて何とか市民の理解を得ることができた。 こうした迂余曲折を経て、新港埠頭の建設(第2期築港工事)は大蔵省臨時税関工事部 及び横浜税関により着手された。工事は明治 32 年(1899)に始まり、6年半余の歳月を かけて 38 年(1905)末に終了した。 しかしこの工事は日露戦争による財政難のため既存計画の一部(現・新港埠頭の西側突 堤の埋立て等)を諦めざるをえなかったことから、地元より大蔵省に対し、未着手部分の 早期着工に向け強い要望が出された。この要望は大蔵省の受け入れるところとなり、工費 の約 3 分の 1 を横浜市が負担するとの条件の下に残りの工事(後期工事)が開始され(明 治 39 年(1906)起工)、大正 6 年(1917)に完成して現在の新港埠頭の形ができ上がった。 なお、水上税関長が自らの 8 年間の税関行政を綴った「八年記」には、工事決定にまつわ るある秘話が記されている。すなわち、大蔵省内では横浜市が総工費の 3 分の 1 以上を負 担するなら工事を行ってもよいとの結論に達していたが、それを踏まえて水上氏が市原盛 宏市長(安政 5 年(1858)~大正 4 年(1915))の感触を内々に探ったところ、「望アルヲ 発見シ当港ノ将来ノ為メニ多少ノ望ヲ懐 いだ 」いたというのである。 後期工事においては、赤レンガ倉庫も税関倉庫として建設された。赤レンガ倉庫のうち、 北側の第 2 号倉庫は、大蔵省臨時建築部(部長:妻木頼 つまきより 黄 なか )の設計による直轄工事で、明 治 40 年(1907)11 月起工し、44 年(1911)5 月竣工した。南側の第 1 号倉庫は、大蔵省 臨時建築部の設計、原木仙之助の施工により、第 2 号倉庫より少し遅れて明治 41 年(1908) 4 月起工し、大正 2 年(1913)3 月に竣工した。この倉庫は関東大震災で半分が壊れた。 新港埠頭は、その後関東大震災により大きな被害を受けるといった曲折はあったものの、 昭和 30 年代まで横浜港の中核的施設として貿易取引の面で主導的な役割を担うことにな った(注 28)。

[第 1 章の注]

(注1) 箱館日米和親条約等に基づき、安政 2 年(1855)、外国船に薪水、食料及びその他欠乏品を供給する基地として既に開港していたが、外国貿易港としての開港は 6 年(1859) 6 月 2 日(新暦では 7 月 1 日)になってからであり、横浜・長崎と同時である。 (注2) 領事裁判権とは、外国人が被告となった場合にその外国人が属する国の領事がその国の 法律に従って裁判を行うことができる権利をいう。 (注3) 最恵国約款とは、ある条約締結国にとって有利な取決めをした場合にそれが他の条約締 結国にも自動的に適用されることを認める条項をいう。
(注4) 井上清直は、幕末の外交家でめざましい業績を残した川路聖謨 としあきら (享和元年(1801)~慶 応 4 年(1868)。勘定奉行など数多くの役職を歴任)の実弟で、自身も下田奉行として ハリスの応接にあたるなど幕末の外交において大きな役割を果たした。 (注5) 日蘭追加条約は安政 4 年(1857)にオランダとの間で締結された我が国最初の正式な通 商条約で、オランダ人宣教師の行動の自由を保障するために同 2 年(1855)に締結され た日蘭和親条約の追加条約(40 か条)である。また、日露追加条約は、日蘭追加条約に 続き同じ年にロシアとの間で締結された通商条約で、ロシア船への補給のための箱館・ 下田・長崎の開港等を内容とする安政元年(1854)の日露和親条約の追加条約(28 か条) である。 (注6) 例えば当時の大型船である太平洋航路客船のコロラドは喫水が 7m あった。遠浅の神奈 川湊沖に対し、横浜地先は陸から 500m も行くと水深が 7、8m 以上もあり、港として適 していた。 (注7) 神奈川宿は、現在の国道 15 号線(第一京浜)の京浜急行神奈川新町駅付近から青木橋 付近を通り、台町の坂を登って上台橋にまで至る海岸線に沿って存在していた。そして 現在の横浜駅(当時は海の中)の北方 500m ほどのところに東西に細長く町並みが形成 されていた。神奈川湊は、現在の中央卸売市場から青木橋にかけての一帯にあった。 (注8) 外国奉行らは神奈川宿付近を実地検分した結果、神奈川宿は土地が狭隘で開港場として は不適当であるとし、一方、横浜村は遠浅の神奈川に比べて良港の条件を有し、また、 土地が広いので、港町を建設するのにより適しているとした。しかし、その真意は、東 海道筋にあたる神奈川宿は人々の往来が激しく、そこに外国人が居留するとなると、当 時の不穏な情勢の下で自然いろいろ紛争が起こるおそれがあるので、日本人が外国人に 直接接触する機会をできるだけ少なくしようとしたところにある。この時の幕閣の最高 責任者が大老井伊直弼であり、井伊の断固たる姿勢の下で外国奉行は、横浜村を開港 場にすべく準備作業を進めることになった。 (注9) 当時の横浜は、現在の元町付近から北西方面に細長く突き出た小さな半島で、「横に長 い浜」というのがその地名の起こりであるとされている。東海道からは野毛山と入り海 に隔てられており、「横浜沿革誌」(本田久好編集、明治 25 年(1892)発行)によれば、 もともと石高合計 335 石余、戸数 101 戸の一小村で田地も少く、そのために漁業を生 業とする漁村にすぎなかったようである。 (注10) 当初、各国の代表は幕府の強引な横浜開港に反発し、神奈川宿の寺院の一角を借りてそ こに総領事館を構えた。しかしながら来日した外国商人たちは、大型船舶を停泊させる ことができ、貿易取引が実際に行われている横浜開港場にこぞって商館を建設し、神奈 川宿に本拠を構える者はいなかった。そこでやがて各国代表も、オランダを皮切りに 次々に総領事館を横浜に移してしまった。 (注11) 当時の横浜には現在のような高層の建物がなく、富士山がよく見えたようである。例え ば慶応 2 年(1866)にフランス海軍士官として来日したエドゥアルド・スエンソン (Edouard Suenson,1842~1921、デンマーク人)は、「日本人の聖なる山、この尊大な る岩山は・・・・・・とても身近に感じられ、ひと足歩けばたどり着けそうに思われ る。・・・・・・横浜の日本人にとって富士山の意味は深遠である」と述べている(「江戸幕末滞在記」より)。 (注12) 神奈川運上所前の二つの波止場のうち東側のものはイギリス総領事館の近くにあった こと等から「イギリス波止場」「異人波止場」などと呼ばれ(後には「メリケン波止場」 とも呼ばれるようになったが、その名の由来は不明)、外国からの輸出入貨物を取り扱 った。一方、西側の波止場は内航船(ことに江戸との間を往来する船)が内国貨物を積 卸しするのに用いられたことから、「御国産波止場」「日本波止場」と呼ばれたが、運上 所(税関)の建物に近かったせいであろうか、「税関波止場」と呼ばれることもあった。 また、後に貿易量の増大に伴い、東方(現在の山下公園中央付近)に「東波止場」(ま たは「新波止場」)が増設されたことから、上記二つの波止場を総称して「西波止場」 と呼ぶようになった。「東波止場」はフランス海軍の物置場前にあったことから「フラ ンス波止場」とも呼ばれ、荷物改めのために東運上所が置かれた。なお、「横浜税関沿 革」「横浜税関百二十年史」などでは神奈川運上所前の二つの波止場のうち東側のもの を「東波止場」、西側のものを「西波止場」と表記している。いずれにしても、これら の波止場には定着した呼称はなかったようである。
(注13) その水野忠徳も、開港直後に起きたロシア人将兵殺害事件の責を問われて安政 6 年 (1859)8 月、加藤則著と共に神奈川奉行の職を免ぜられた。さらに堀利熙は安政元年 (1860)11 月、プロシア等との条約交渉の進め方について幕府から追及を受け、それに 対して何ら弁解を行わないまま、自ら切腹して果てた。 (注14) 羽二重 はぶたえ は日本の代表的な絹織物で、縦横糸に無 む 撚 よ りの生糸等を使用した、主として平織 りの後 あと 練 ねり 織物(生糸を織物に織り上げてから精練・染色する織物)。 (注15) 麻 あさ 真田 さなだ はマニラ麻の繊維を真田 さなだ 紐 ひも のように編んだもの。 (注16) 明治 35 年(1902)に発行された「横浜税関沿革」によれば、幕末から明治期にかけて、 神奈川運上所(横浜税関)では外国人を高額の報酬で顧問に雇い入れることが多かった という。その第 1 号は慶応 2 年(1866)、借庫規則の制定にあたり雇い入れたイギリス 人のベンジャミン・シールとトーマス・ホッグであった。当時の日本人には借庫の何た るかを解する者がおらず、したがって規則の制定作業を担いうる者もいなかったので、 これら両名を運上所に顧問として迎え入れたのである。借庫規則はシールの起草になる もので、運上所では同規則制定の後も両名をして共に借庫に関する事務に携わらせ、そ の傍ら、運上所の役人から 3 名を選び、両名に付き従わせて当該事務を研修させた。シ ールは明治維新の際解雇されたが、ホッグはなお 1 年間引き続き勤務したという。 (注17) この倉庫が慶応 2 年(1866)の横浜大火(いわゆる「豚屋火事」)により消失したため、 神奈川運上所ではその翌年(1867)に運上所前の両波止場間の埋立を行い、そこに石造 りの倉庫 4 棟を新築して借庫とした。 (注18) 明治 8 年(1875)、大久保利通内務卿(文政 13 年(1830)~明治 11 年(1878))が「海 外直売の基業を開くの議」を提出し、直貿易の必要性を訴えた。 (注19) 居留外国人というと欧米人のみを連想しがちであるが、実は数としては中国人が最も多 かった。明治 32 年(1899)に外国人居留地はその 40 年間の歴史に幕を下ろしたが、そ の前年には横浜に約 5,400 人の外国人が居住していたといわれる。実にその 3 分の 2 が 中国人で、次いでイギリス人、アメリカ人の順に多かった。中国人は欧米人に雇われて 貿易関係実務に携わったり、自らアジア諸国を相手に貿易を行ったりと、港における活 動領域は広かった。ただし、外国人居留地制度が撤廃された後も、いわゆる内地雑居令、 すなわち「条約若ハ慣行ニ依リ居住ノ自由ヲ有セサル外国人ノ居住及営業等ニ関スル 件」(明治 32 年勅令第 352 号)の発布により中国人の居住権と経済活動には厳しい制限 が課せられ、我が国への中国人労働者の流入を困難にした。このため、今日の我が国に おける華僑社会が東南アジアや北米のそれと比べてかなり小規模であるのは、100 年余り前のこの規制にその原因の一つがあると言われている。
(注20) 天保 11 年(1840)、現在の鹿島建設㈱の創業者・鹿島岩吉は、独立して江戸に「大岩」 という屋号の店を構え、水戸徳川家、松平越中守、土井大炊守などの大名屋敷に出入り した。横浜開港は開港場に役所、商館、住宅などの一大建築ブームを巻き起こし、岩吉 も江戸の店をたたんで横浜に進出したが、日本人居住地の建物はいち早く進出していた 大工たちによって既に請け負われていた。そこで、出遅れた岩吉は日本人大工が敬遠す る外国商館の建設を手がけることになり、まずジャーディン・マセソン商会の「英一番 館」を請け負い、続いてウォルシュ・ホール商会の「亜米一 あめいち 」を建築した。伝統的な日 本の建築技術を生かしながら洋館の建築を手がけた岩吉の実績が評価され、鹿島岩吉と その長男・岩蔵が明治初期までに手がけた工事は横浜の居留地の 3 分の 2、神戸の居留 地の半分以上に及んだという。鹿島父子は、「亜米一」のウォルシュ兄弟の推薦により 第十五銀行の洋館、高輪の毛利邸和洋折衷邸宅など数々の建築を手がけたほか、横浜水 道木管の大修繕工事などにも携わった。明治 13 年(1880)になると、岩蔵を初代組長 として鹿島組が創立され、これが㈱鹿島組(昭和 5 年(1930))を経て今日の鹿島建設 ㈱(昭和 22 年(1947)に社名変更)へと発展していく。 (注21) 歩合金の徴収が始まったのは、売込商については万延元年(1860)、引取商については 慶応 3 年(1867)であった。 (注22) 明治 6 年(1873)に町政が横浜町会所から区長・戸長に移管された際、町会所が所有し ていた多額の資産の帰属が問題となった。貿易商はそれらの資産は自らの積み立てた歩 合金(前出)が原資となっているのであるから貿易商組合の共有物であると考えた。こ れに対し明治 22 年(1889)、沖守固 もりかた 神奈川県知事は共有物であることを否定する措置を 打ち出した。この対立が遂に約 500 名いた貿易商のうちの 390 名が 13 町の戸長を相手 に集団訴訟を提起するという事態にまで発展する。訴訟は長期化したが、明治 27 年 (1894)になって、横浜に深い縁のある川田小一郎日銀総裁の仲裁により、共有物のす べてを横浜市の財産とするということで決着を見た。横浜ではこの事件以前にも明治 10 年代初頭に歩合金の取扱いをめぐる県と貿易商の対立やガス局事件と呼ばれる区長と 民権論者との対立などがあったが、この共有物事件が終結したのを機にそうした市民間 の対立も沈静化の方向に向かった。 (注23) 外国人居留地は条約改正に伴い明治 32 年(1899)に廃止されたが、横浜港及び神戸港 では旧外国人居留地を中心とする貿易がなおも続いた。 (注24) (旧)三井物産㈱は戦後の財閥解体によりいったんは解体されたが、昭和 22 年(1947) に第一物産㈱として復活した。昭和 34 年(1959)には、この第一物産㈱を中心にかつ ての三井物産系企業が再結集し、新生・三井物産㈱としてスタートした。 (注25) 特殊銀行であった横浜正金銀行第二次世界大戦後に閉鎖され、その資産をもとに昭和 21 年(1946)、㈱東京銀行が設立された。同行はその後の再編を経て平成 18 年(2006)、 ㈱三菱東京UFJ銀行となる。 (注26) 私設保税倉庫として全国で初めて許可を受けたのは神戸桟橋㈱であり(明治30年(1897) 10 月)、横浜の中央倉庫㈱は二番目であった(同年 11 月)。 (注27) 古市博士は近代土木行政の基礎を形造るとともに、我が国の工学及び土木工学の草分け となった人物である。明治 2 年(1869)から開成学校及び大学南校(東京大学の前身の 一つ)で学び、6 年(1873)には文部省初の留学生としてフランスに渡り、12 年(1879) には中央工業大学(エコール・サントラル)、13 年(1880)にはパリ大学理学部を卒業 した。帰国後は内務省に勤務。その後、帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)学長、 内務省土木局長、土木技監、逓信省次官等を歴任した。古市博士が新港埠頭の設計を引 き受けたのは内務省を退官して間もなくのことであるが、博士は大蔵省・税関が主体となって行う工事に省庁の枠を超えて協力したとされる。また、水上税関長の「八年記」 によれば、博士は後に逓信省次官に転じてからも、部下の港務局長が横浜港の鉄道との 連絡に関して異議を唱えようとしたのを厳しく制止したということである。ところで、 作家・三島由紀夫(大正 14 年(1925)~昭和 45 年(1970))の本名は平岡公 きみ 威 たけ である が、これは内務官僚であった祖父・定太郎が同郷の先輩・古市博士の恩顧を受けたこと から、自分の孫に博士の名を取って「公威」と命名したものであると伝えられている。
(注28) 新港埠頭建設の詳しい経緯については、「横浜港の生い立ちと税関」(横浜税関HP)参 照。