日清戦争の結果

1879年の金本位制はこの賠償金の運用によってなされたが、当時の実業界では対清輸出上不利であるという反対論が強かった。

それにかかわらず、金本位制を採用したのは、戦後経営が軍艦、兵器、鉄鋼、機械などの欧米からの輸入を必要とし、それには金本位制が有利であったからです。それに主要輸出品である生糸、茶の輸出先が金本位国で外貨獲得に便利であったこともあげられます。さらに軍事工業立国のための外資輸入に有効だったからである。

軍備拡張の要求は外貨獲得の課題を提起し、それを実現するために貿易立国と金本位制が採用され、ついで輸出振興のために工業立国が主張されるにいたったということですね!

この賠償金の在外正貨は日本自体の蓄積資金ではない事実を理解せんことには、この辺の歴史の流れは見えてこんと思うが!

戦後経営ある軍事拡張政策に要する膨大な歳出の財源は清国賠償金にもとめられたが、もちろんそれでは不足であったのです。不足分は増税、公債、外貨債の募集、朝鮮からの金の輸入などによった。

増税は物価騰貴ともに国民の生活を圧迫した。つまり、日清の役になまじ勝利した結果は、今や日本をも容易ならざる地位に陥らしめんとしつつあったし、意外の大禍をこうむる結果となった。

そもそも、清国の日本への償金二億三〇〇〇万両支払いのための露仏借款四億フランと、翌年それに対抗して貸付けられた同額の英独借款によってあたえられたものです。当然借款よって利権と租借をなんなく獲得するわけです。たとえば、露清銀行の創立、露清密約と東清鉄道協定、ビルマ鉄道の雲南延長、ドイツの膠州湾占領とその阻借、ロシアの旅順軍港占領、旅順、大連湾租借、イギリスの威海衛租借などです。下関条約成立直後から義和団蜂起にいたり、極東は対立のもっとも重要な焦点となり、各国は続々と艦隊を送りこんだ。

日本は日清戦争で清国を弱体させ、欧米強国の勢力を極東に招いただけで、朝鮮さえもロシアの進出を窺うようになり、国民は軍拡の増税で苦しんだ。つまり踏んだり蹴ったりの有様であったのです。

参考

那須宏「農商高等会議について」

工業立国諭が産業資本の現実的な要求によるのでなくて、国家的要求から提起されたことは重要であった。それは客観的には資本の要求にそうものであっても、さしあたっては資本の発展に桎梏とならざるをえないからである。この矛盾は、軍備拡張がアジア侵略をうみ、それが国内資本主義の発展をもたらすというさかだちした進路をうみだし、日本帝国主義を特質づけたのである。

11月12日付の竹添進一郎が伊藤参議と井上参議に宛てた報告書

第四号
筆記第一筆記第二ハ小官赴任即下朝鮮之景況ヲ見ルへキ者二俣当春大院君帰国之風説有之国王初メ一統狼狽ヲ極メ候以来支那党ハ在韓之支那武官ニ媚ヲ献シ殆ト奴隷同様ノ醜態ヲ極メ内テ向テハ支那ノ威勢ヲカザシテ其権力ヲ張リ就而ハ税則均沾ニ不法ノ論議ヲ主張シタルカ如キモ支那党之手ヲ出テ将又日本党之諸人ヲ流刑ニ処セソト企テ候等実ニ驚入タル次第ニ有之候
 イ 代理公使ニチハ権勢薄クシテ支那党ノ勢燄ニ当ルニ十分ナラザルノ気味有之候
小官着任之上右之事情ヲ承知候ニ付支那党ヲニクラシク応接致シ候処素ト何ノ思慮モ無ク只々支那ヲ大国ト仰キ候支那党ニ付大ニ恐怖之心ヲ生シ尹泰駿ハ遽カニ統理衝門協弁ヲ辞シ金允植モ鼠ノ如ク相成其レ等之為メ均沾之紛議モ容易ニ致収局候而シテ今度清仏之戦争ニ日本ハ仏ト合シ支那ヲ撃ツニ決定セリトノ風説相起り(右風説ハ支那党ヲ恐嚇スル為米公使フート氏ノ手許ヨリ出ヌルニ無之哉ト邪推致侯)支郡党ハ畏縮之態ヲ顕ハシ大二権勢ヲ減シ随而日本党頗ル起色有之候金玉均御国ニ渡航之節ハ実二馬鹿々々敷挙動ノミニ有之候得トモ其内幕ヲ相探り候得ハ実ハ改革ノ熱心ニ候処ヨリ開化党ヲ組織スル為メ生徒ヲ御国ニ留学セシメ又一方ハ国王之信用ヲ堅クセソ為メ種々之策ヲ施シタル等ニ而一時金策ニノミ汲々致シタル儀モ有之候然ルニ支那党益幡結シテ進制之妨礙ヲ為スニ存御国ヨリ帰リ候後ハ公然日本党ト相唱ヘ抵抗候ニ付支那党ヨリ之ヲ敵視スル尤甚敷有之候就テハ下官モ此節ハ彼レヲ保護スル方ニ注意罷在候筆記第一筆記第ニ之通リ日本党之計画ハ巳ニ一決致候小官ヨリ一言同意ヲ表シ候得ハ直ニ事ヲ起シ候勢ニ付懇々其暴挙ヲ相戒メ居候就而ハ甲乙案ヲ左二開陳ス


甲案
我日本ハ支那政府ト政治ノ針路ヲ異ニスルヲ以テ到底親睦ニ至ルヲ得ルノ目的ナシ偽テ寧ロ支那ト一戦シ彼ヲシテ虚傲ノ心ヲ消セシメハ却テ其実ノ交際二至り快哉モ難計トノ御廟議二候ハ、今日日本党ヲ煽動シテ朝鮮ノ内乱ヲ起スヲ得策トス何トナレパ我ハ求メテ支那ト戦ヲ開クニ無之只朝鮮国王ノ依頼ニ由り王宮ヲ守衛シ右国王ニ刃向タル支那兵ヲ撃退ケタリト云名儀ナレハ何モ不都合無之儀ト存候

 乙案
若又今日ハ専ラ東洋和局ヲ保持スルヲ旨トシ支那ト事ヲ生ゼズ朝鮮ハ其自然ノ運ヒニ任セ候方得策ナリトノ御廟議ニ候ヘハ小官ノ手心ヲ以テ成ベク日本党ノ大禍ヲ受ケザル様保護スル丈ケニ止マリ可申候

右甲乙ノ二案何レニカ御決定被為在候上ハ速ニ御内示被下候奉願候
設令乙案ニ御決定相成候テモ朝鮮人ハ宇内ノ大勢ヲ夢ニモ知ラス只支那ヲ以テ無比ノ大国ト信シ込ミ支那人ヨリ蕞爾ノ日本安ソ中国ニ抵抗スルコトヲ得ソヤ若無礼ヲ加ヘハ直二撲チ潰スベシト法螺ヲ吹立候ヲ信用致シ居到底無気力無廉恥ノ輩ノミニ候間之ヲシテ常二我レヲ恐怖スルノ念ヲ抱カシムルニ非サレハ何事モ被行サル儀ニ付支那ノ恐ルルニ足ラサルヲ知ラシムル為メ時々支那党ヲカミ付ケ其頭ヲ押サヘ可カラス其辺ハ予テ御含置可被下候
清仏戦争ノ影響モ有之支那党ノ面々ニ日本ヲ恐怖スル念十分相シ(関泳翊ハ井上角五郎ニ向テ頻ニ巳レハ支那党ニ非スト弁明致候権勢嚇々タル関泳翊スラ如此ニ付其他ノ支那党推シ知ルべシ)且塡補金之御贈ニテ日本ノ好意十分相顕ハシ候ニ付兼テ日本ハ信実ナキノ国ト口グセノ様申居候事モ災キレサル様相成国王殿下ニハ日本ヘ傾向之念一層強ク被為成候二付此ノ両三日間ニ支那党之勢力遽カニ減縮致シ候只今通リ之景況ニ候得ハ別ニ懸念スルコトモ無之候待共向後又々支那党践慮スル様相成候得ハ日本党ハ必死之地二陥り可申ニ付必ス斬奸之挙ニ出可申其場合二差迫り候得ハ電報ヲ以テ更に御指示伺出候心得ニ御座候右御内信申上候也

 十一月十二日

 伊藤参議殿
 井上参薗殿


竹添進一郎