閔妃暗殺事件の予審調書

当時京城駐在の一等領事内田定槌氏は次のような証言をしております。

公使ト話シテ居ル中ニ露国公使ガ血眼ニナツテヤツテ来タノデ、私ハ席ヲ外シクガ、貴国公使が帰ツテカラ再ビニ階ニ上ツテ見ルト、公使ハ非常ニ悄レテシマツテ居ル。ソコデ私ハ、日本人ガ関係シタコトダケハ何トシテモ隠蔽シナケレバナルマイト繰返シ言ツテ、公使卜別レタガ、偖テソレカラドウシタラ宜イカ考ヘガ付カヌ。

つまり「日本人ガ関係シタコト」を「隠蔽」したということでしょう。

 予審調書によっても、この事件が、「三名(三浦公使、杉村び岡本)謀議ノ上、常ニ宮中ノ為メこ忌マレ、自ラ危ム所ノ訓練隊ト、時勢憤慨スル壮士連ヲ利用シ、暗ニ我京城ノ守備隊モ之二声援セシメ以テ犬院君ノ入闕ヲ援ケ、其機ニ乗ジ宮中ニ在テ最モ権勢ヲ壇ニスル王后陛下ヲ弑サソト決意」したとあるから、組織的に進行されたことはよく分かります。

それに大院君が賛同し訓練隊の解散の時期が切迫したとする軍部大臣の声明が、三浦らの計画実行の時機を早めさせる原因となりました。つまり「時機既二切迫シ青も猶予シ難キヲ以テ、被告梧榛、被告二協議ノ上同夜事ヲ挙クルニ決シ」たということです。

さらに予審調書には日本公使館では、これから起こるであろう事件の詳細な計画を作り、三浦公使は「当国二十年来ノ禍根ヲ絶ツハ実ニ比一撃ニアリトノ決意ヲ示シ、入闕ノ際王后陛下ヲ殺害スヘキ旨ヲ」教唆したとあります。

王后の暗殺は日清戦争のおわった直後に、当時の韓国駐在、三浦梧楼公使と、熊本県人を主体とする民間壮士たちの手で行なわれました。思うにいくらナショナリズムの十九世紀でも、公使が指揮をとって王妃を殺すというのは無茶なことをしたのでしょうか、列国はただちに日本に抗議し、日本も関係者全員を逮捕したが、そのあと、朝鮮人の一人がみずから罪を買って出たことや、ロシアがこんどは国王を奪っていったことやで、結局被告は全員釈放となり、事件はうやむやのうちに葬られてしまったということです。

当時この事件の実行者のひとり小早川秀雄氏は閔妃暗殺事件の予審調書について次のような感想を述べています。

 以上、予が詳述したところと、この予審終結決定書のいうところとを対照すれば、その間に多少の相違が認められるであろう。たとえば、三浦公使の枢機にあずかり、謀議に参加した者を、一、二名の人のみにかぎっていることなど、予の説明と同じではない。これは判事の眼光が表裏に徹底していないためである。四十八人の被告人は、おのおの自分の見聞によって法廷で陳述したから、事実の真相を見失っている点がないわけでもない。それに加えて、事は秘密のうちに計画され、秘密のうちに終始したが、機密に参与して真相を知っている者はかえって沈黙し、そうでない者はむしろ多くを語る傾向があった。予審決定書がまま真実を欠くきらいのあるのも、このためであろう。前半の経過を詳述しながら、終局にいたり、にわかに証拠不十分なりと称して免訴したところなど、まさに噴飯ものである。時の当事者が、はじめはこの事件を真面目に処分しようとし、その後形勢の一変によりにわかに態度を改め、ついに免訴して事件をあいまいのままに葬り去ったことは、このままにおおうべからざる事実である。このように終始一貫しない当局者の方針に余儀なくされて、獄中に閃われの苦しみを受け、処刑具の前に臨む危難に陥った三浦公使以下の災厄を、誰が気の毒と思わないでいられようか。かくて三浦将軍をはじめ、杉村、岡本、安達、国友、平山、寺崎、中村、藤、家人、木協、境の十一人は、獄中において予審免訴の告知を受け、他は保釈または責付きですでに出獄していてこの決定書を受けとった。まっさきに拘留されて、予審決定まで獄中にいた、国友平山らは、実に八十九日の長期を、鉄窓幽階の中に過ごしたのである。これよりさき、志士の退韓と同時に帰朝を命ぜられた公使館付陸軍砲兵中佐楠瀬幸彦、守備隊大隊長馬屋原務木以下、同隊付将校数名は、この事変に関係したとのゆえをもって、第五師団軍法会議の審問にかけられていたが、三浦公使以下の予審終結の数日前に、いずれも無罪の宣告を受けた。

「事実アリト雖モ」というのは「事は秘密のうちに計画され、秘密のうちに終始した」ことを言うのでしょう。