小早川秀雄氏

>いずれにしろ閔妃をほっておいては朝鮮の行く末と日本の国防が危うくなるということで朝鮮内外に除去の気運はあったろう。知る限り彼女は朝鮮のためには害あって利の無い指導者だったと思う。

彼女は日本のためには害あって利の無い指導者だったということでしょう。

当時この事件の実行者のひとり小早川秀雄氏は閔妃について「まことに当代にならぶ者のない俊物」と評価しておるよ!

宮中のおこなうものは、大小となくすべて閔后の胸より出て、国王陛下はほとんどかいらいにすぎなかった。しかも韓国の政治家中、その知謀において、そのらつ腕において、一人として閲后の右に出る者はなく、関后はまことに当代にならぶ者のない俊物であった。大院君は東洋の豪傑であると称せられたが、それでも閲后と対抗する力はなかった。他は推して知るべし。当時の外部大臣金允栂は、一代の学者と称せられたが、彼にしても閲后の学問の深く広いのには驚いていたという。

つまり「閏后が宮中に健在であるかぎり」朝鮮における日本の野望を遂げることは不可能と観念したのでしょう。

当時この事件の実行者のひとり小早川秀雄氏は次のように証言しております。

三浦公使は、京城に着任したときから、形勢の刻々非運にむかいつつあるを見てとった。そのよってきたるところは、一朝夕のことではないから、これにたいする手段も一時のまにあわせの術策ではとうてい効果はなく、非常の猛断をもって禍根をとりのぞくのでなければ、時勢の挽回は不可能であると認めた。そこで、公使は、止むを得ない場合には、止むを得ない手段をとることを、いち早く胸中に決定したようである。ただその時機については、もっとも慎重な熟慮を要するので、その決心はたんに自分一人の秘密として胸中深くおさめ、他には容易にもらさなかった。ところが井上公使の帰朝後、形勢は急転直下して、いまや猶予すべからざる事態となったため公使はだんぜんその時機を早め、十月八日に決行しようとした。
 三浦公使は、この決心の実行にあたって、民間志士の援助を期待した。このとき京城には熊本県出身の壮年が数十人、漢城新報社を中心に固く団結し、安達謙蔵を指導者として一致協同、その行動を共にしていた。三浦公使はこれをよく知っていたので、はじめ.から安達らの力を借りようとしていた。十月一日の夕暮、公使が夕食の席にあったとき、たまたま安達謙蔵が現われた。公使らは食卓にむかいあって、ともにビールを飲んだ。

 公使「形勢はすこぶる切迫した。近日大事をおこそうと思う」
 安達「そんなに早くとは思わなかった」
 公使「危機がそこまで迫ってきて、もはや猶予する余地がない。君の同志中から、決死の士を何人得られるだろうか」
 安達「京城にいる壮年の同志は、実着の人物が多いので、死士は多く得られない。二、三人くらいはいるだろヶか。止むを得なければ、郷国から電報で呼び寄せよう」
 公使「時機が急を告げているので、とうてい電報で呼ぶひまはない。二、三人を得られたら、それでもよい」

 断乎とした決心は、ことばと顔に表われて、談話はきわめて簡単であった。
 三浦公使はこの計画を、公使館一等書記官杉村、公使館付砲兵中佐楠瀬幸彦に語ったが、事をあげるのに必要のない人物には、これを洩らさなかった。他の公使館員も知らず、京城領事も知らず、韓延の顧問官として有力であった星亨、斎藤修一郎らの名士も、無論これを知らなかったのである。
 このとき三浦公使は、大院君の胸中をさきの堀口らの訪問によってくわしく知っていたので、大院君を利用するのがよいと考え、大院君を擁して宮中に入れば、目的を達することは非常にたやすいと信じた。しかし杉村書記官は、京城にすでに十年も滞在して、韓国の形勢に通じ、上下の人物をよく知っているので、大院君が自らを過信して、いったん志を得た場合には、容易に他の干渉を受けいれない性癖のあることを察し、かつて大鳥公使の時代に一度にがい経験もあるので、無条件で官中入りを誘うのは将来のためにならないと信じ、三浦公使にこれを説いた。公使も杉村の建言をとりあげ、杉村に左の四ヵ条の誓約書を起草させた。

一、大院君は、宮中に入ってその整理をおこなうが、政治にはいっさい干渉しないこと。
一、金宏集を内閣員とし、その他の改革派を登用すること。
一、李載晃、金宗漢を官内大臣および協弁に任命すること。
一、李竣鋸を日本に留学せしめること

大院君を起たせるについては、この四ヵ条の誓約は、大院君のばっこを未然におさえ、将来の禍根を絶つうえにおいて、もっとも緊要のものであった。
 しかしながら、大院君を起たせるについては、あらかじめ彼と交渉しておかねばならない。三浦公使はその使者を岡本柳之助に依頼した。岡本はすでに数年も京城にあり、
大院君の信任を得て、もっとも親しく交わっていたから、大院君を説くにはもっとも適任とされたのである。
十月三日、公使は岡本を公使館に招いてその計画を語り、孔徳里におもむいて大院君と交渉するよう頼み、前記四ヵ条の誓約書をわたした。そこで岡本は、こえて五目、韓語に熟達の鈴木順兄をつれて、半島の老英雄を孔徳里の別荘に訪問した。これはさながら、以仁王の令使が、伊豆の山奥に流されていた源軒朝を崩れたのと似ているではないか。
 わきおこる豪気をおさえ、全身に憤恨をいだいている大院君が、どうして三浦公使の密使を両手をあげて喜び通えないことがあろうか。相談はすらすらと進み、打ちあわせは円滑にはこんだ。岡本は、今日の形勢が止むを得ず大院君の官中入りをわずらわせることを説き、たずさえていった四ヵ条の契約書を出してその承諾を求めた。大院君はさも愉快気にすぐと承知し、少しも反対の言葉をのべなかった。このとき大院君は話題を一転し、激しい調子で腹いっはいの憤怨をぶちまけた。まづ鋒先を田后にむけて、その陰険老槍、杵謀術策の軽視できないことを説いた。すなわち、閲后は.外面は日本に顧るふりをして、打実はロシアと結んで日本の勢力を排斥しようとし、ロシアと宮中との間には恐るべき密約が締結されている。先日、宮中で催された盛大な夜会は、明治十五年の変乱のとき閏后が忠活道から宮中に帰った日を記念した祝賀会であるが、その費用の五万円をロシアが提供して催させたものである。閔氏が李氏の天下を奪おうとする魂胆の一部が、ここにはしなくも現われているではないか。大院君は痛烈にこれをあざけり、かつ悪しざまにののしった。さらに、宮中には刺客をかかえて、金宏集以下の内閣員を暗殺しようと、すでに手ほずを整え、李竣鉾や自分の一身も、風前の燈火のごとく危いと涙を涜さんばかりに欺き、大きなため息をついた。終わりに大院君は岡本にむかって、去る十五年の変には、旧兵の乱暴を鎮定するという理由で宮中にはいったが、今回もまた前例にならってはどうかと言った。岡本はその決定を急ぐ必要はないと思い、ただ軽く応じただけで、入城の期日はあらためて確実に知らせることを約して孔徳里を去った。
一抹の暗雲が韓国の山々、天の一角龍かかった。まさに来たらんとするのは、猛雨か、疾風か、あるいは激しい雷であろうか。大きな沢にひそむ竜も、躍り出て大空に舞うであろう。深山の猛虎も叫んで天地を驚かすであろう。しかし大動の機はなお至静の中におさまって、眼前の木の葉すら動かない。見わたすかぎりのどかな秋色は、野に満も、山に満ちて、眼にうつるのはただ平和の光景のみである。この静けさの中に変動のひそむことを、はたして幾人が知っているであろうか。大活動の計画は、こうしてまったく秘密の幕におおわれ、秘密のうちに進行したのである。

感想

以下「事変のはじめから終わりまでを、くわしく書きつくそうと思い、予は当時自分が実際に体験し見聞したことを、くわしく記して挿入することにした」とありますので、疑問があれば、具体的にくわしく述べたいと思います。

小早川秀雄氏はこの事件における王宮の模様を次のように証言しています。

 宮中における混雑の模様は、今ここに詳細を明快に記述できないのが遺憾である。とにかく予らは、後宮に突進した。道で侍衛隊の防戦にあって、多少胆を寒からしめられたことがなかったわけでもないが、それほどの障害もなく、国王のおられる乾清宮殿にかけつけることができた。
 予が宮殿の前庭に着いたときは、障子を立てめぐらした室内から、女のけたたましい叫びが、いうべからざるすごい声に聞こえる。そこでは兵士や志士が、縦横に走りまわっている。障子をあけた隣室には、顔色の青ざめた国王が十数人の官々に解せられてすわっておられる。やがて白衣の婦人十数人が、生きた人間の色は無く、ふるえおののきながらドヤドヤと出てきた。その中には、白衣に唐紅の血潮をあびて、ほほにまでしぶきのかかった気品の高い年少め女もいた。あとで聞けば、この貴婦人は王太子の妃であったという。そのとき、誰れいうともなく、関王妃は逃げかくれたのだと伝えられた。王妃をとりにがしてほならぬと言って、いずれも手に手に武器を持って、四辺に建ちならぶ数多の空室をさがしまわった。なかには、侍衛隊の捨て去った銃を拾い、それで閉ざされた戸扉を打ちこわしている者もある。縁の下に這いこんでさがしている者もある。いずれも血眼になって、右往左往、あちらこちらをさがしまわったが、何者をも見出せない。
 この殺気満々の中には、いろいろの喜劇が演ぜられた。血潮をあびた貴婦人をつかまえて、自刃をその胸に突きつけ、「王妃のいるところを告げよ、しからずんば汝を刺すぞ」と、純粋の日本語で迫っている者がいる。朝鮮の宮中の貴婦人が、どうしてこの日本語を解せるだろうか。ただ哀号を叫ぶのみであった。ちょうどそのとき、侍衛隊の連隊長である玄興沢が、軍服を着けたまま、ただ腰の剣を捨てて、恐る恐るやって来た。どうしてこれを見逃すものか。志士の鉄拳が雨のごとく下った。玄はかろうじて生命を拾って走り去り、ロシア公使館に逃げこんだ。命冥加な男といわねばならぬ。
 こうしているうちに、室内に倒れている婦人が、関王妃だということが、誰れ言うとなく伝わった。予は室内にはいって、その倒れた婦人を見たが、この婦人はまだ寝床から出たはかりのところであったと見えて、上体には短い白の肌衣を着たはかり、腰から下は白のズボンをはきこんでいるが、膝から下は露わである。そして胸のあたりから両手の半分を露出して、仰向きのままはや息切れて倒れ、血潮があたりに流れている。よく見ると小柄な、やさがたな、色の白い、どう見ても二十五、六歳としか見えない女の、死んだというよりは、人形を倒したというかっこうで、美しく永久の眠りにはいっている。
か弱い手で八道を動かし、群豪をあやつった閲后その人の遺骸だとは思われないほどである。雄魂逝って帰らず、室中一人の遺骸を守る者もなく、まことに凄惨きわまる光景であった。

感想

王宮深く入り込んだ日本人たちは、官女たちをつかまえては関妃の居どころを問いつめた。泣き騒ぎ、答えることができない官女たちは、その場で刺し殺した。返答をためらったものも、結果はおなじだった。血まみれの死骸は増える一方である。そのうち、日本人たちは、すでに殺害した官女たちのなかに、関妃がいるのではと思いついた。左のこめかみあたりに小さなあざがあるという噂だけを頼りに、王宮内の玉壷楼に集めてあった官女たちの死骸を改めてみた。その女は虫の息だが、まだかすかに呼吸をしていた。壮士たちに関妃の体を絨毯でくるませ、後宮の背後にひろがる松林のなかに運ばせた。そして、枯れ木を積み上げると絨毯の包みを放り落とし、石油を浴びせて火をつけた。時に午前八時三〇分、関妃四五歳―。