下記は事件の数日後に、朝鮮人護衛隊の指揮士官玄興沢大佐はソウル駐在のアメリカ公使アレン博士に手交した報告です。

李朝開国五百四年八月二十日(陰暦)午前二時、王宮周壁を巡回、監視のため派遣されていた国王秘密警察官二名が、宮殿前の兵舎三軍府に約二音百名の日本軍兵が入った、と私に報告した。私は数名の兵を調査のために派し、この報告がまちがいのないものであることを知った。四時、私は、日本軍部隊が王宮北西門を包囲し、王宮庭園に画している北山の中腹をよじのぼっており、日本兵および朝鮮兵たちが王宮の前門を破壊していることを知り、私はただちに、国王侍衝隊員に対して、王宮のあらゆる箇所で抵抗するよう配置につけと命令した。
その時私は、日本軍部隊が北西門の城壁を乗り越えたと聞いたので、現場におもむき、すでにおよそ百名の日本軍部隊が王宮後庭に侵入してきていることを見た。私は後庭に通ずる諦門を閉鎖し、兵士らとともに抵抗の行動に出たが、日本軍部隊は、自分たちが開いた前門から、射撃しつつ王宮の中へと押し寄せて来た。侍衝隊典も応射反撃したが、彼らは結局は敗退し四散してしまった。今や日本軍部隊はあげて国王家族の居所(乾清宮)に突進しこれを包囲してしまった。約二十名の普通の洋服を着て剣を偏した日本人と、日本在来の衣服を着てこれまた剣を帯びた数名の者、および銃を肩にした正規日本軍兵数名が来た。彼らは私を捕えて後ろ手に縛り、私をなぐりつづけながら「王妃はどこにいる」と尋問した。私は知らないと答えた。彼らは私の名前を聞いたので、それに答えた。それから彼らは、私を国王たちの居所に引きずって行き、王妃はどこにいるかと尋問しつづけた。私は、殺されても知らないものは知らない、と答えた。彼らは、私を国王の前に引きずっ
て行き、王妃を捜し出せと私に強要した。彼らは、私を閣藍庁と呼ぶ、とある建物に連れこみ、その間中私をなぐりつづけた。
突然日本人のひと組みが宮殿の中で大声をあげた。そこで私を捕えていた者たちも私を放り出してそちらの方へと突進して行った。私は何事が起こったのかを見ようとそこへ行った。そして国王が外の官房へと御されているのを見た。私は、その宮殿の小さな部屋の中に王妃らしい死体の横たわっているのを見た。私はそれから日本人の手により放逐された。しぼらくたってから、日本人たちが、殺した王妃の死体を近くの東園で燃やしているということを聞いた。私はそこの門のところにかけつけ、燃えている死体のまとっている衣服が貴婦人用のものであるのを、この目ではっきりと見た。