韓国王妃殺害事件

韓国の文化、風習、習慣については、所々間違っている箇所があります。 グレブストは自分の目で見て、自分の耳で聞いた通りに書き留めているわけですが、彼自身、韓国語が分からなかったことや、彼の周りの外国人(友人として登場するドイツ領事や朝鮮皇帝の侍従医のブンシュ博士、泊まっていた宿の主人など)も韓国の文化や習慣について詳しいというわけではないでしょうから、それはしょうがないことかもしれません。

また、滞在期間が冬だったことや、時局の関係から、ソウル以外の農村地帯などへはほとんど行っておらず、ソウルで見聞きしたことがほとんどです。

つまり滞在期間が短いので、主観に囚われず当時言われ伝えらておる事柄をそのまま記述しているといえます。現在人が当時のことを下記のようにいろんな資料の中から短い文章を取り上げ原文とまったく違う物語を作っておるものと比べる自体がくだらんことです。

たとえば

「朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った公使・三浦梧楼も暗殺事件への嫌疑がかけれられたため、日本は国際的に非難され三浦を含む容疑者を召還し裁判にかけたが、首謀と殺害に関して[7]は証拠不十分し免訴となり、釈放した。」いう所は[7] 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編を参照にしておるが、実際市川正明氏は下記のように述べています。

この閔妃殺害事件の下手人であった日本人は、日本国内の裁判によって「事実アリト雖モ前記ノ被告人中、其犯罪ヲ実行シクルモノト認ムヘナ証憑十分ナラス」ということで金部免訴になったというておるが!

 予審調書によっても、この事件が、「三名(三浦公使、杉村び岡本)謀議ノ上、常ニ宮中ノ為メこ忌マレ、自ラ危ム所ノ訓練隊ト、時勢憤慨スル壮士連ヲ利用シ、暗ニ我京城ノ守備隊モ之二声援セシメ以テ犬院君ノ入闕ヲ援ケ、其機ニ乗ジ宮中ニ在テ最モ権勢ヲ壇ニスル王后陛下ヲ弑サソト決意」したとあるから、組織的に進行されたことはよく分かります。
またその調書では 日本公使館では、これから起こるであろう事件の詳細な計画を作り、三浦公使は「当国二十年来ノ禍根ヲ絶ツハ実ニ比一撃ニアリトノ決意ヲ示シ、入闕ノ際王后陛下ヲ殺害スヘキ旨ヲ」教唆したとしている。

>ということが定説らしい。

なにが定説かよく分からんが、日本の裁判では「事実アリト雖モ」無罪になったことが、「定説」ならそうでしょう。


[7] 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編で当時京城駐在の一等領事内田定槌氏は次のような証言をしております。

 私ハ其ノ頃領事信二住ソデ居ツクガ、或ル朝(明治二十八年十月ハ目)ケタタマシイ銃声に眠リヲ破ラレタ。窓ヲ開ケ未ダ夜ハ明ケ切ラヌ。館内ニハ警察署ガアツタノデ、何事ガ起ツタノカト巡査二訊イタガ、知ラヌト言フ。萩原警部ヲ起シニ行ツタガ、其ノ室二居ラヌ。厩舎へ行クト、私ノ馬ガ見エナイ。ドウシタノカト巡査二訊クト、警部が乗ツテ行キマシタト言フ。其ノ中ニ銃声ハ止ンダ。近クニハ新納少佐ト云フ海軍ノ公使館附武官ガ居ツタノデ、ソコヘ行ツテ訊イテ見タガ、何ノコトカ分ラヌト言フ。又当時ノ外交官補口置益君モ近クニ居ツタガ、矢張リチツトモ知ラヌト言フ。サウシテ居ル中ニ、血刀ヲ提ゲタ連中が帰ツテ来テ新納少佐ノ所へ報告ニ行ツタ。私モソコヘ行ツテ話を聞イタガ、其ノ連中ハ昨夜王城ニ侵入シテ王妃ヲ殺シクノダト云フ。ドウシテ行ツタノカト尋ネルト、最初ハ大院君(国王ノ父デ王妃卜犬猿ノ間柄デアッタ人)が朝鮮入ヲ率ヰテ王誠二侵入シ、王妃ヲ殺ス筈ダツタ。ソレニ就テハ前カラ種々策謀ガアツタ。例ノ岡本柳之助氏が参謀デ、大院君ヲ引ツ張り出スノガー番宜カラウト云フコトニナリ、岡本が大院君二勧メ二行ツタ。其ノ時一緒ニ勧メニ行ツタノガ領事官補ノ堀口(九萬一)君。

同君ハ朝鮮語ハ出来ナイケレトモ、漢文二通ジ文章が達者ナノデ筆談ヲシタ。其ノ結果、大院君モソレデハ君側ノ奸ヲ倒ス為二起ダウト承諾シタ。最初ノ計画デハ、夜半ニ日本ノ兵隊卜警察官が大院君ヲ先順二立テ、王城二人リ、朝鮮人が王妃ヲ殺害スル筈デアツタガ、大院君ハ種々出テ末ナイ。京城郊外ノ大院君ノ邸へ岡本ヤ堀ロガ夜中二行ツテ促サウトシタガ、大院君ハ種々出テ来ナイ。愚図々々シテ居ルト夜分明ケ始メタノデ、多勢ノ日本人ノ壮士等モー緒ニナツテ無理矢理二大院君ヲ引ツ張り出シ、真先キニ守り立テテ王誠ニ向ツタ。王城侵入ノ際、護衛兵ガ発砲シテ抵抗シタケレドモ日本兵ガ之ヲ追ヒ散ラシ、城内ニ入ツタ。サウ言フ死骸ノ始末ニ付テハ、関係人カラ後デ聞イタノダガ、兎二角私ハ非常二困ツタ。公使ニ会ツテ話ヲ聞ケバ、万事分ルダラウト思ツテ公使館へ出掛ケタカ、公使ハ、一寸待ツテ呉レト云フコトデ、直ダニ会ハナイ。公使ハ二階ニ居リ、私ハ下ノ待合室デ待ツテ居ルト、二階デ頻リニ鐘ノ音ガスル。妙ナコトダト思ツテ居ルト、二十分バカリシテ二階へ通サレタ。スルト公使ハ床ノ間ニ不動明王ノ像ヲ飾ツテ、灯明ヲ上ゲテ拝ンデ居ル。ソコデ私ハ「大変ナ騒ギニナリマシクネ」ト言フト、公使ハ「イヤ是デ朝鮮モ悠々日本ノモノニナツタ。モウ安心ダ」ト言フ。ソレデ私ハ「併シ是ハ大変ナコトデス。日本人が血刀ヲ提ゲテ白昼公然京城ノ街ヲ歩ツテ居ルノヲ朝鮮人ハ素ヨリ外国人モ見タニ相違ナイカラ、日本人が此事変ニ関係シクコトハ隠スコトハ出末マセヌ。併シ日本ノ兵隊ヤ警察官、公使館員、領事館員等が之ニ関係シタコトハ、ドウニカシテ隠シタイト思フガ、ソレニ就テハドウ云フ方法ヲ講ジタラ宜イデセウ」卜言ツタガ、公使ハ「俺モ今ハソレヲ考ヘテ居ルノダ」ト言ハレタ。
 公使ト話シテ居ル中ニ露国公使ガ血眼ニナツテヤツテ来タノデ、私ハ席ヲ外シクガ、貴国公使が帰ツテカラ再ビニ階ニ上ツテ見ルト、公使ハ非常ニ悄レテシマツテ居ル。ソコデ私ハ、日本人ガ関係シタコトダケハ何トシテモ隠蔽シナケレバナルマイト繰返シ言ツテ、公使卜別レタガ、借テソレカラドウシタラ宜イカ考ヘガ付カヌ。外務省へ知ラセョウト思ツテモ電信ハ公使ノ命令デ差止メラレテシマッテ居ル。公使館以外ノ者ハ、一切電報ヲ打ツコトヲ差止メラテシマツタノデ、私モ無論電信ヲ出スコトハ出来ナイ。後デ聞ケバ、「昨夜王城二変アリ、王妃行衛ヲ知ラズ」卜言フ電報ヲ公使館カラ外務省へ送ツタサウダガ、ソレ切リ止メテシマッタノデ、私ハドウスルコトモ出来ナカツタ。
 其ノ中ニ、堀口君ヤ警部ガ帰ッテ来タノデ、堀口君ニ「君ハ大変ナコトヲヤツタガ、アトハドウスル積リカ、僕ニハ此ノ始末ハ出来ナイ」卜言ツタラ、何トモ答ヘナイデ黙ッテ居ル。矢張リドウシテ宜イノカ分ラナイノダ。ソコデ私ハ「僕ノ考ヘデハ、是ハドウシテモ日本政府二始末ヲ委スヨリ他ハナイ。併シソレニハ日本ノ外務省が事実ヲ能ク知ラネバナラヌ。トコロガ外務省カラ何ヲ言ツテ来テモ、公使館カラハ返事ヲヤラナイヤウナ状態デハ、外務省デモ真相ヲ掴ミ得マイ。君ハ最初カラ事件ノ真相ヲ知ツテ居ルヤウダカラ、スツカリ其ノ始末ヲ書イテ、本省二報告シテ呉レ」ト言ツタ。スルト堀口君ハ達筆ナノデ、真ダ長イ報告書ヲ書イテ、特使デアッタカ、郵便デアツクカハハッキリ記憶シナイガ、兎ニ角本省ニ送ツタ。


>その時代に生きた人間の報告は貴重だがグレブストのばあい上記の理由ですべてを鵜呑みにするわけにはいかない。

「上記の理由」というからは日本による関与が皆無な偏向的な「ウィキペディア」の歴史を鵜呑みにしておることになりますよ!

上記の理由で「ウィキペディア」の歴史をすべてを鵜呑みにするわけにはいかない。


>かえってその時代から離れた位置にいる現代の歴史家のほうが渦中にいる人間より史実を客観的正確に見ることができるとも言えよう。

渦中にいた人間の証言はそれ自体が歴史そのもので、「ウィキペディア」ある歴史は「現代の歴史家」がカキコしたものではなく、日本の関与を隠蔽しておる記述でワシから言わせれば偏向した人々によるものです。

>酒井はこれとほぼ同様のことを言っているが。

清国帝国内の問題を清国と他国の問題として扱っておるが!

また、日本のよってアジアが独立したと言うておるが、日本の敗戦によって独立機運が盛り上がって、多くの国々が独立したんじゃないかい!