ベルツの日記とW・S・クラークとケーベル博士

「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのま!〕」と わたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱいと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもつていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。(菅沼龍太郎訳ベルツの日記 明治9年10月25日)

「日本政府は、燕尾服とシルクハットを新年祝賀の公式礼装に制定することが適当だと考えたのである。かくて喜劇的な点では全く奇想天外ともいうべき姿が首都の街路をうろつくことになった。…それも大人だけではなく、十歳から十二歳の坊やまでがこの道化の犠牲になっている。この街頭風景と謁見控え室の一群を親しく目撃したものでない限りは、その情景を想像することはできない。しかもこれらの人々は自国の式服姿であれば実によく似合い、それどころか時としては、威厳があって気高くすら見えるのだ。」(本書 明治10年 1月 1日)

「その国土の人たちが固有の文化をかように軽視すれば、かえって外人のあいだで信望を博することにもなりません。これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんな不合理なものでも新しい制度をほめてもらうほが、はるかに大きい関心事なのです。」(本書より)

「彼らはすべての外人に親しみやすいのですが、反面また同じ程度に、すべての外人に対して疑い深い有様です。だがしかし、彼らの中でも具眼者は、彼らの努力に対して誠意ある同情を受けていると感じた場合には、道理に耳を傾けないものでもないことがわかりました。」(本書より)

東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ奉祝門・照明・行列の計画、だが滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ。
 二月十六日 日本憲法が発表された。もともと国民に委ねられた自由なるものはほんの僅かである。しかしながら不思議なことに、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって悲憤慷慨したあの新聞がすべて満足の意を表しているのだ」(本書より)


すなわち日本国民は、十年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれ中世の騎士時代の文化状態にあったのが、昨日から今日へと一足飛びに、われわれヨーロッパの文化発展に要した五百年たっぷりの期間を飛び越えて、十九世紀の全成果を即座に、しかも一時にわが物にしようとしているのであると。従ってこれは真実、途方もなく大きい文化革命です---なにしろ根底からの変革である以上、発展とは申せませんから。そしてわたしは、この極めて興味ある実験の立会人たる幸運に恵まれたしだいです。(本書より明治9年10月)

日清戦争の当初一八九四年には、まだ英国では日本の力を信じなかった。そしてかなり公然と清国側に味方したので、当時日本では英国に対し、ちょうど現在ドイツに対すると同じ程度に、著しい反感が勢を得ていた。しかしながら、英国人は実践的の国民である。かれらはその公使館付武官を通じて、当時の戦争を詳細に研究し、日本軍の指揮・指導振りに確信を持つに至って、その政策を根本的に改めた。かれらは遼東半島還附の干渉に加わることを拒み、それによって、従来は反感のみを受けていたところで、直ちに好感をかち得た。 (中略) 新時代に入って以来、全日本人の希望する最大の目的は、西洋諸国より同権にして対等と認められることであった。そしてこの目的はついに英国の援助により達成されたのであるから、人々はその英国にたっぷりと「謝意」を表したのである。 (本書より)

現在、旅順の占領が非常に難関に遭遇している責任は、主として海軍のわがままによるそうだ。それというのも、旅順での名声を海軍が一手に占めようと思ったからで、旅順の背後に軍隊を至急上陸させることを、陸軍から督促すると、その都度、海軍の返答はいつもきまって、冒険すぎるから、責任をもって安全を保証することはできないというのであった。どうやら海軍は、最初のうち、単独でこの要塞を片付けてしまう予定だったらしい。ところがそれは、とんでもない誤算だった。あげくのはて、どうしても軍隊を上陸させねばならないことになったときには、もう陣地がすっかり固められていたので、日本は陸海軍とも、散々これに悩まされることになった。戦争が終わった後、これら陸海軍の勢力争いは、はっきりと表沙汰となり、あるいはこの国の将来に影響を及ぼすのではないか。 (本書より明治37年10月)

「子供たちは、学校でも家庭でも、長上に対する礼儀と尊敬とを第一の絶対必 要条件としてしつけられる。若い人たちの上品な挙止には全く驚かされる。日本人はおそらく世界一の礼儀正しい国民である。はだしで歩き、アメリカ人ほど衣服は身につけないが、文明人と自称する多くの国民よりも、たしかに礼儀正しく親切である。殊に子供たちは決して喧嘩腰になったり、手に負えないようなことがなく、両親や教師には従順で忠実であり、それだから却って幸福なのだ。学校でも無秩序なことは起らず、 ごくつまらぬ服装の子供でも態度に上品な所があった。生徒たちの着ているゆるやかな着物には、長い袖があって、ボケットの代用となり、こま、紐、みかん、茶 色の紙の束とか、何でも必要な物は入れてあつた。
書物は木綿か絹の布で包み、家へ持ち帰って、夜に大声で勉強する。この大声で読む昔の勉強法は、シナ及び日本の古典の長い文節を頭に詰めこむだけで、子供たちは学んだことの意味はよく分らず、機械的に諳記していた。彼らはまた親 と兄には従順に、老人を敬い、祖先の霊を祭り、神々の社に供物を捧げるというような倫理や、勇気を教え、死を軽んじさせるために工夫された武勇や盗賊の物語も学ばなければならなかつた」。

「大講堂には五、六十名の青年が、化学又は物理の実験と講義を受けるのを待 つていた。青年たちは殆んど皆私と同年輩で、燃えるような熱心さで科学を追究し、驚くほど勤勉に研究した。アメリカの大学生が全力を注がねばならない教科書をたやすくこなし、全く勉強に打込んでいたので、彼らに教えることは愉快だ った。当局は頗る気前よく科学器具や物理機械を与えてくれたので、物理.化学の諸原理と問題を、学生の前で例証することができた。実験は少々危険なものもあつたが、日本人は夢中になつて喜び、最も危険な実験にでも平気で立向った」。(飯田宏訳.岡田章雄編「外国人の見た日本」)

「純粋の日本といふものの消滅する日の来るのは、もう遠いことではあるまい。 恐らくは何処か田舎において、辺陲の島々において、百姓や漁夫の間には今なほそれが存在してゐることであらう。都市においてはしかし、今や全然価値なき西洋の「近代文明」が、日本の文化をば殆んど食い尽した。私は到る処に欧羅巴や亜米利加の罪悪と愚味の猿真似を見る」。(「ケーベル博士随筆集」久保勉訳)

「"黄禍"が泰西を脅威しつ、あるとは欧羅巴においてよく言はれる所である。が、これ実に一種の馬鹿げた、そして笑ふべき空言に過ぎない。もし東洋が西洋の "害になる"ことがあるとすれば、それは高々純物質的意味のもの、即ち、その巨大なる人群による侵害、・・・・例へば蝗の群が耕地を害する如き—・・・・に止まるであらう。ところがこれに反して若し日本において"白禍"否むしろ"赤禍"が説かれ始めたとしたならば、それは決して馬鹿げてもゐないし、又笑ふべきでもないであらう。実を言へばこの危険はもはや危険ではなくなったのである。恐れらるべきもの は既に侵入したのである。泰西の侵入者らは日本において思ふがま、に振舞ひ、殆んどそれを彼らの一州であるかの如く見做さうとし始めた」(同書)