明治6年朝鮮王朝では政変があり,大院君が引退し高宗の妃の閔氏派が政権を握った。そこで日本は明治7年から開国の交渉を再開し,日本側の森山茂と閔氏政権の代表朴斉実とのあいだに正式会談が始まった。しかし閔氏政府内に残っていた大院君派が強くこれに反対したため朝鮮側の政策は一定せず,儀礼的な問題でも行き詰まった。これをみて条約交渉のため釜山にいた日本の外交官森山らは明治8年4月政変の性格を報告するとともに武力の威嚇による非常手段をとらねば交渉は成立しないと外務卿寺島宗則に献策した。 この献策を容れた寺島は岩倉具視三条実美らと協議し,極秘に少佐井上良馨の指揮する雲揚号など3隻の軍艦を朝鮮に派遣した。これらの軍艦は5月予告なしに釜山に入港し,閔氏派政権の抗議を無視して湾内に碇泊したまま示威のための発砲演習を行い,さらに朝鮮東海岸をへて帰国した。そして9月雲揚号は再び朝鮮西海岸から清朝の牛荘(営口)までの航路探索と沿海測量を行わせた。

9月19日雲揚号が江華島の沖に仮泊,翌20日朝8時半に錨を上げて塩河河口に進み「測量及諸事検捜且当国官吏へ面会万事尋問をなさん」としてボートを下ろした。艦長井上少佐自ら乗り込んで河を遡り、そうして上陸しようとしたが、日も未だ高く、「測量及諸事検捜」のために上陸を後にしてさらに奥に進もうと思い江華島の第三砲台の近くまで来た。右営門の砲台の前を通過しようとしたときに突然発砲をうけた。時に午後4時半、ボートは14,5挺の小銃で応戦しながら後退した。ちょうど上げ潮であったから、ようやく午後9時に本艦にもどった。この時点で人的な損害はなかった。

翌21日の朝8時御国旗掲げ数カ条軍法を兵に申渡し戦争の用意なし河口を遡り第三砲台から1千6百メートルのところに錨を下ろした。前日の報復のために第三砲台に狙いを定めて砲撃を開始し破壊した。8分後に砲台から発砲があったが届かなかった。二時間をかけて27発を発射し、錨を上げて第二砲台の近くに進み、昼職を摂ってから午後二時四十分に陸戦隊を揚陸して第二砲台を焼き払った。

翌22日には江華島の隣の永宗島の第一砲台に向かい、砲撃したが反撃がなかったため、城郭の前面に錨を降ろした。小銃の反撃を受けながら小笠原中尉の率いる22名の陸戦隊を揚陸して放火、朝鮮人35余名を殺し16名を捕虜にした。陸戦隊の負傷は2名、一名は帰艦後死亡した。捕虜には略奪品を運ばせた。
この夜は、軍艦のすべてのランプを点灯して、酒宴を行い「分捕りの楽器を列奏し、各愉快を尽くし」て寝たのは翌日午前2時であった。

翌23日、再び上陸して前日に運び切れなかった捕獲品を積み込み翌24日に出発して長崎に着いたのが28日の午後であった。

以上が艦長井上少佐の報告書の内容であるが、対外的に認められそうにもないので、東京に着いたときに10月8日に改定報告書が提出された。その作られた報告書が一般的に知られることから、この真相が現れ難くなっている。

当時は欧米諸国と朝鮮と外交関係がなく、朝鮮政府は国内にも詳細を伝えようとしなかったことにより、日本側の一方的な説明が疑われることがなかった。

この井上艦長は事件前に「日夜出兵の御命令を待つのみ」という征韓の意欲のあふれた意見書を提出しているので、彼が選ばれたのであろうと思う。

この不祥事について、平壌を管轄する京畿道の監司(長官)も江華留守(守備武官)も、また付近の海陸防衛地をあずかる官憲たちも、中央に対して何の報告もしなかった。誰もが責任逃れを望んだからだと思う。

また、大院君が失脚すると、求心力を失った朝鮮では外威勢道政治が復活し、政府内両班官僚間の絶え間ない内紛・分裂・抗争の結果、軍事力は極度に弱体化したまま放置され、派閥間での官職獲得闘争は、お互いに血を流し合うまでに至るすさまじいものであり、日々政治システムの維持に狂奔することが政治そのものとなっていたのである。