韓国王妃惨殺事件

九月の初め、井上伯のあとをついだのが三浦梧楼将軍であったが、この人は本国におけるたびたびの内乱に卓越した役割を果たした老軍人であった。彼は、厳格な礼儀作法の持ち主であり、禁欲的戒律をもっともきびしく実践する厳格な宗団である禅宗仏教徒の一人だとの評判であった。彼は、自分自身が常に王妃の頑固な妨害をうけていることに気がついた。彼の計画という計画はすべて、王妃によって挫折せしめられた。いっぼう国王は、虚弱で優柔不断で、決心の動揺しゃすい意志薄弱な人で、三浦や王妃からはつまらない存在とみなされていた。王妃は日本にとって恐るべき人物の一人であり、三浦もそのことを知っていた。三浦がこの王妃にうち勝つことのできたのは、どのようにしてであったろうか?彼の一等書記官杉村も、彼の過激な手段に全面的に賛同した。
 ちょうどこのころ、大院君とこの新任公使とは互いに接触しはじめた。日本人の説明では、大院君の方から秘かに三浦に接近したのだという話だが、おそらく、杉村が、両者の仲介役となって、行動の手順など計画したものであろう。大院君は再度権勢の座につくことを切望し、三浦は衰退の一路をたどる日本の勢力挽回を願望していた。両者の願望の前に立ちふさがっているのは、一人の小柄な女性だけであった。彼女をわきへ払いのけさえすれば、ことはすべてうまく運ぶはずであった。双方は、行動路線について何度も協議し、お互いの果たすべき役割はすべて順調にとり進められた。一八九五年、陽暦十月三日、三浦、杉村、そして朝鮮政府の軍務街門および宮内府の顧問であった岡本柳之助が、彼らの騒動の計画を決定するために日本公使館に集まった。大院君が、その復帰ののち実際の国政関与において自制すること、ならびに、日本の望む通商上および政治上の特権を供与すること、これが明確に公約されるのでなければ、行動は起こさないことになっていた。この要求は文書に作成された。もし大院君がこれらの要求に同意すれば、日本軍、日本警察はもとより、朝鮮軍つまり日本人により訓練され統率されていた「訓練隊」は、王宮に侵入して、国王をとらえ、王妃を殺害したのち、大院君の執政を宣言するはずであった。すなわち、日本側報告公文書の正確な辞句を引用すれば、
「(大院君、入関ヲ援ケ)其機二乗ジ、宮中二在テ最モ権勢ヲ檀ニスル王后陛下ヲ殖サント決意シタ」(明治二十九(一八九六)年一月二十日「広島地方裁判所予審終結決定書」)のである。

 岡本は、大院君をその孔徳里の私邸に訪問し、その文書を示して参加を促した。当時すでによわい八十歳に達していた大院君は、その子息や孫とともにそれに同意し、彼自身は日本の保護下におかれる、と文書をもって約束した。共謀者たちは、その陰謀の痕跡を隠蔽するとともに、岡本の大院君訪問によってひき起こされるあらゆる猜疑を避けるため、岡本は本国に帰ることになったので、そのため大院君を儀礼的に訪問したものである、と発表した。
 事件は、宮廷派の行動によってかえって促進された。 すなわち、これより数週間前、日本人将校の指揮下にあった兵士たち「訓練隊」が、市内の警官たちとけんかをし、そのうちの何人かを殺害した事件があったが、大臣たちは、この機会を利用して訓練隊の解散を提議したのであった。ところが、軍務大臣(安朗寿)が日本公使館を訪問して、この事実を密告した。そこで、ただちに、王妃に対する襲撃をその深夜決行することとなったのである。ソウルの日本軍指揮官楠瀬大佐は、当時帰国のためすでに済物浦にあった。彼には、ただちにソウルに戻るよう打電された。彼は、夜陰に乗じて部隊とともに王宮におもむき、襲撃のあいだずっと宮門を固めて、男女を問わず一人たりとも王宮から出ることを許してはならない、と命令された。三浦は、職業的暴漢である日本人「壮士」数名を呼び寄せて彼らにその計画を打ち明け、彼らがその友人たちを集めてきて、この計画の遂行に助力するよう言いつけた。私は、ふたたび、ここで公式報告を引用する。すなわち、「三浦梧楼ハ〔彼らに〕当国二十年来ノ禍根ヲ絶ツハ実二些拳ニアリトノ決意ヲ示シ、入関ノ際王后陛下ヲ殺害スべキ旨ヲ教唆シ」(前掲「予審終結決定書」)たのであった。日本警察もまたこの拳に協力するよう指令されたし、大院君一味の朝鮮人たちも、集まって助力するよう使者をさし向けて呼び寄せられた。日本警察は、私服を着て刀剣を僻するよう命令されたと言われている。日本人壮士安達謙造と国友重章の二人は、仲間の暴漢二十四人を集め、そのうちの約半数に対しては、王宮内部の行動集団として、王妃を見つけてこれを殺害するよう、特別の命令が与えられた。そして、殺害後に発表されるはずの、宣言文の草案も、事前に作成されていたのである。
八日の午前三時ごろ、大院君は、岡本の率いる日本人の一隊とともに、その私邸を出発した。やがて、岡本は、自分の率いた者すべてを、皇太子邸の正門外に整列させて、「狐」王妃を指す−を臨機応変に処置すべきことを告げた。この一行は、西大門に向かって進み、訓練隊と合流のうえ、日本軍の到着を待った。彼らは訓練隊を先頭にして行進したが、訓練隊、警官そして暴漢どもを指揮する日本人将校たちがその中心集団を形成していた。営門(光化刊)が日本軍の手中にあったので、彼らが宮門に到着した時、王宮内に侵入するのになんらの困難もなかった。正規軍の大部分は、命令によって、宮門の外側に整列していた。しかしそのうちの若干名は、暴徒とともに王宮の庭内に侵入し、他は王宮の周囲で、なんびとも逃げ出すことのないよう取り囲んでいた。一群の人たちの襲撃が行なわれ、宮内府付近の城壁が崩れ落ちた。なんらかの謀叛行為が進行しているという噂が王宮内に伝わったが、しかし、特別な監視を続ける苦労を惜しまないというような者は一人もいなかった。王宮警備担当者のなかに二人の外国人がいた。すなわちロシア人のサバチソ氏とアメリカ人ダイ将軍の二人である。この二人はしかし、とくにこの事件で名声が高まるようなことにはならなかった。ダイ将軍は非常に魅力的な老紳士で、リンゴの栽培に精通していた。彼の果樹園の産物は、その隣人たちの賞賛のまとではあったが、しかし、彼を雇った王宮を護衛することについては、あまり役に立たなかった。私は、この騒動の最中に彼が何をしていたかをはっきりと知ることはできないが、彼は一室に閉じこもって何もしなかったのではないかと思う。サバチン氏は、暴徒によって一隅に押しやられ、もし妨害すれば殺害すると脅迫されたという。この両人の弁明はともかく、彼らが、その夜の騒動にもかかわらず、かすり傷一つ負うこともなく、また彼らを護衛として雇った一人の婦人のために、ただの一撃だにふるうこともなく、生きのびたという呪うべき事実が確かに残っているのである。
 日本軍が内部の城壁を崩し、一味がどっと宮門から侵入したのを合図に、王宮内全体はたちまち上を下への混乱となった。勇敢な朝鮮人護衛若干名が彼らに抵抗したが、そのうちの数名が射殺されると、他は退却した。王宮内の宮殿(後宮)の部屋は、ふつう一階建てで、数段の石造階段を上がって入るようになっており、彫刻を施した戸と油紙を貼った窓がついていた。日本人たちはまっすぐに宮殿に進んでその前庭に押し入り、軍隊は入口に並び、壮士たちが戸をこわして宮室内に侵入した。数人の暴徒が、国王をつかまえ、王妃と離婚して緑を絶つという内容の書面を、その面前に差し出した。しかし、国王は、あらゆる脅迫にもかかわらずその署名を拒絶した。他の暴徒たちは王妃の部屋に侵入した。宮内大臣李耕稙は彼らを阻止しようとしたが、たちどころに殺害された。壮士たちは、ふるえながら逃げまわる官女たちをつかまえ、頭髪をつかんで振りまわし、殴打して、王妃の所在を言えと強要した。彼女らは、うめき泣きながら、自分たちは知らないと言いはった。そこで彼らは、数名の官女の頭髪を引っはりながら隣室に押し入った。先頭に立った岡本が、その部屋の一隅に自分の頭髪をしっかりかかえながらうずくまっている一人の小柄な婦人を見つけ、王妃ではないかと尋ねた。その婦人は、それを否認し、いきなり彼らを押しのけ、叫びながら廊下へと走り出た。当時、そこにいあわせた彼女の子息は、彼の名を呼ぶ彼女の声を三度聞いたが、しかし、その次の呼び声の出る前に、日本人たちは彼女をつかまえて斬り倒したのであった。彼らは、王妃の侍臣数名を引きずり入れて死体をみせ、それが王妃であることを確認させたが、そのあとそのうちの三人を剣で刺し殺した。
 暴徒たちはガソリンを持ってきていた。彼らは、あるいはまだ完全に死亡していないかも知れない王妃を、寝具でくるんで、ほど近い鹿園中の繁みに移した。彼らは、そこで王妃の死体にガソリンをかけ、周囲に薪を積み重ねて火をつけた。彼らが、燃えさかる炎に向かってどんどんガソリンをかけて燃やしたので、ついには何もかも燃えつきて、少しばかりの骨だけが残った。この死体に火をつける直前、大院君は、意気揚々とした日本軍に護衛されて王宮に入った。彼はただちに政権を掌握し、国王は宮中に幽閉された。大院君一派は内閣組織のため呼び集められ、王妃一派とみなされた官僚たちはみな逮捕さるべきであることが命令されたのであった。(ロンドンのデーリー新聞社の朝鮮特派員による)

感想

 三浦公使の命をうけた在ソウルの日本守備隊・日本人官吏・巡査、それに岡本柳之助ら数十名は、10月7日夜、大院君を邸宅から引きだし、守備隊第一中隊ならびに日本軍の指導をうけた朝鮮兵にまもられて、10月8日未明に王宮へのりこみ、抜刀して王妃の寝室に乱入、王妃とおぼしき婦人を多数殺害し、そのうちの一名が王妃であることを確かめ、生ながら門前の松林で焼きすてたことは、貴殿の大好きな公文書である「日本外交文書」の「王城事変」及びソウル内田領事より、西園寺外務大臣臨時代理宛の「10月8日朝鮮王城事変ノ詳細報告ノ件」よってよくつたえておる。

それにしても、このような世界のどのような国と国とのあいだにも例を見ない野蛮そのものの行為を、日本政府を代表する公使が直接計画し、指揮して「是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナッタ。モウ安心ダ」と語った三浦梧楼領事の内田定槌の証言から当時の日本人の政治感覚・文化程度、並びに知能の程度がよく分かるような気がする。