シソガポールの華僑の虐殺

シソガポール市の人口は七十五パーセソトが華僑だと言われており、大部分は気持ちょく日本軍を迎えて協力してくれたが、中には少数ながら共産系のテロ団が混っていた。それで、マレー半島進撃中には全く無かった日本軍へのテロが、シンガポールが陥落したとたんに散発した。日本兵が町を歩いていると二階の窓から狙撃されたのである。それで軍司令部から各師団に「華僑の抗日分子を摘発して厳重に処分せよ。」という命令が出た。厳重処分というのは、暗に処刑しろという意味である。
しかし町を占領したばかりの外国軍隊が、地下に潜っているゲリラを摘発するのは容易ではない。憲兵隊も日本軍自身の不法行為を取りしまるぐらいの兵力しか来ていないので、所在の歩兵小隊が補助憲兵を命ぜられてこれを摘発することになったが、現行犯を揃えたり、住民の密告によって急襲したりして少数のものを逮捕処刑して報告していたところ、軍参謀から数が少ないと電話でどやしつけられたという。例のT参謀らしい。
「五師団はすでに一二百人殺した。十八師団は五百人殺した。近衛師団は何をぐずぐずしている¥んだ。足らん足らん。全然足らん。」
 と大変な権幕であったという。今次大戦でドイツ軍がフランスのパリーを占領した時、「フランス人のゲリラがドイツ人一人を殺したら無差別にフランス人十人を殺す」と宣告したやり方をまねいたものであろう。
師団は威丈高な軍参謀の叱咤に追詰められていた。ジョホール水道渡河戦の失態以来、近衛師団は憶病者の烙印を押され、ことごとに勇猛心の不足を非難されていたので、強引な軍参謀の命令には、抵抗しょうもなかった。それで、師団から補助憲兵の歩兵小隊長に、
「とにかく軍への申し開きができるよう、何でもよいから数だけ殺してくれ。」
と奇怪な厳命が下されたのである。
止むなく補助憲兵の小隊は、ある町の石を包囲してすべての男子を駆り出し、一列になって検問所を通らせた。しかしそんな検問で抗日ゲリラが見分けられるはずがない。それで検問係の下士官は、それを人相によって右と左とに振り分けたという。左へ分けられた者が百人になると、それをトラックに積んでチャンギー要塞近くの海岸に運び、機銃で掃射して死体を海へ棄てた。そして、人数を何倍かに水増しして軍に報告し、やっと参謀の怒りを鎮めたというのだ。やらされた年若い小隊長は、やらされたことの辛さに、夜宿舎で声をあげて泣いていたという。昨夜泣きこんで来た華僑の主婦の亭主も、こうして無惨に殺されたに違いない。何という非道な話しであろうか。(総山孝雄氏の回想より)