甲申事変のその後

国王救出の要請をうけた清国軍が出動し、少数の日本軍を破り、開化派政権は文字どおり三日天下で倒れ、竹添公使は、金玉均らの亡命者とともに長崎に逃げ帰った。この間、混乱したソウルで、居住民約30名が殺された。日本政府は、井上馨を全権として、軍艦7隻を率いて、明治18年1月7日、ソウルで談判を開始し、他方で、万が一に備えて陸海軍を動員して下関に集結した。明治18年2月2日の伊藤宛井上の書簡によれば、井上は「竹添公使之所為、違法と否とは、今般事件之理論強弱も自ら相生じ候は必然」との弱みをもっていたために、かえって交渉には、「強情方法」を用いた。この結果1月9日漢城条約が結ばれ、朝鮮は日本に謝罪して損害賠償を支払いうほか、日本守備隊の宿舎を朝鮮の費用で建設することをみとめた。すなわち朝鮮内政に公然と武力をもって干渉した日本公使館の行動を強引に程認させたのである。これが甲申事変である。この事件により日本政府は清朝と戦争なしには、朝鮮の支配権を確保できないことを認識したのです。

そもそも、歴史的に中国と朝鮮は冊封関係で結ばれているのは、秦漢以来の東アジアの伝統的な国際関係で、それは宗属関係と言い、清国が日本の暴力的侵略的政策に抵抗し、朝鮮の自治に干渉するのは仕方がないのでしょう。

  日本政府にとって日清両軍の同時撤退は、朝鮮の独立体制を維持するための欠かせない条件とよく言うが、それは清国の軍事的干渉を排除する目的をもって、「独立」という言葉で正当化したでけで、現に、清国との戦争の詔勅で清国は朝鮮の「独立」をないがしろにしていると、清国を非難して、戦争の目的を内外に明らかにして、世界に宣言しているが、わずか15年後には誇らしく「独立」をうたった日本によって朝鮮は完全にその独立を奪ってしまった。

 開化派を支援して朝鮮に勢力をすすめようとした日本政府の意図が完全に挫折したばかりか、政変に関与は朝鮮政府をして、ますます対日不信を増大させ、清国の朝鮮への内政干渉を強化させる結果ともなり、さらには、日・清両国の相つぐ干渉に不満をつのらせ朝鮮王朝をして、ロシアと接近させることになり、「朝露密約」さえ結ばれるようになった。

国内においては、事変の真相を知らぬ一般世論は、清国軍が日本人を殺傷したことを非難し、知識人や民権派も、侵略の機運を煽ることになるのです。