済物浦条約

花房公使の報告を受けた日本政府は7月31日,緊急閣議を開き対策を協議したが、伊藤博文は外遊中だったので山県の強行意見が支配し、従来からの通商関係の諸問題を一気に解決しようとした。また、この機会に朝鮮領土の一部の分割も目論んでいた。しかし、実際には軍乱の真相がはっきりとせず、現状の状況もさだかではなかったので、花房公使に臨機に要求内容を変えてもよい権限をさずけ、花房を全権委員に任命した。金剛・日進・比叡・清輝の軍艦4隻,軍輸送船三隻、陸軍部隊をひきいて,8月12日に朝鮮の済物浦に到着した。日本国内では、交渉決裂の場合を予想して、山県陸軍卿は予備軍の召集を第六管に命じ、下関に輸送船四隻を待機させた。花房公使は16日、二個中隊の兵をソウルに入京させ、8月20日の国王との謁見には全部隊を入京させ王宮前の広場に駐屯させた。それを背後に国王と謁見して、回答期間を3日と限って七項目の要求を提示した。軍事的要求はいつものことだが、大院君はこの日本側の要求を公使に返却を命じた。清国は当時,領選使・問議官として清国に派遣されていた金允植・魚允中の意見を聞き,閔氏政権の意向をかなえる名目で,8月7日に北洋艦隊長官丁汝昌の率いる軍艦3隻を派遣し,20日には北洋陸軍を増派していた。大院君は軍隊の動員をはじめ清国に請い清国の大軍も入京させて日本を牽制させた。清国の介入は事前に予測させたことであったが、いま清国の大兵を前に、日本側があくまで強行にして過大な要求に固執することは、清国との全面戦争の覚悟が無くては不可能であった。日本は清国と全面戦争をするだけの軍事的準備はととのっておらず、国内の政治的情勢も民権運動が激しく、政府の強硬処置を批判し、それに反対する世論も有力であった。それにアメリカも軍艦を仁川に入港させて日本の動きを牽制していた。このような状況のもとでは、結局のところ日本側も全面的に要求をおしとおすことができず、事実上清国側の調停に依頼するほかなくなり、馬建忠により大院君が清国へ拉致という事態をへて、8月30日に済物浦条約に調印して、事態を収拾するほかなかった。済物浦条約では、日本政府は当初の要求を実現できなかったものの、公使館襲撃・殺害犯人の処罰,日本人遺族への5万円給与,日本への損害賠償50万円,駐兵権,揚花津などの開市などであった。

この日本軍を駐留させる権利は朝鮮の軍事的制圧に重要な手がかりをつかんだ。日清戦争での日本軍の出兵は、済物浦条約のこの規定をよりどころにしておこなわれたのである。

日本はまだ戦争準備ができていなかったので回避する消極策をとったが,その代わりこれを契機にして対清戦争への戦争準備は大々的におこなわれることになる。