甲申事件の真実

明治17年十二月四日、京城北部典洞に新設された郵政局の開局式が催された。朝鮮国が万国郵便連合に加入してできた郵政局の開局祝賀晩餐会であったので、京城駐在の米・英・清などの公使、領事らが出席し、当時の朝鮮政府の韓圭稜(前営使)、李祖淵(左営使)、閔泳翅(右使)、閔丙萌らの閔氏一族の要人も陪賓として招かれ出席した。洪英植をはじめ金玉均、朴泳孝、徐光範らの開化派も参加していた。日本の竹添公使は行くといっていて、当日になって急病と称して、代理に島村書記官が出席していた。


郵政局の門前にある道路の両側に待ち伏せしていたのは、支那服を着て装った士官学校留学生らと宗島和作、中村四郎兵衛、山辺金太郎、陸軍軍人(名前が不明)で、この局の右隣の草屋にダイナマイトを仕掛けておき、時刻を計って福島春樹が爆発させ、これに来客が発火に驚いて逃げ出すとことをかたっぱしから刺殺して、反対党を殲滅しようというものであった。ところが、ダイナマイトが爆発しなかったので、その草屋に火をはなった。


午後10時近く、郵政局の北隣家から火の手があがったので、来賓らは驚き、混乱した。まっさきに逃げたのは閔泳翅という役人で、宗島和作はこの男から借金があり、返済を迫られていたものだから、道路の真ん中で一刀あびせた。閔泳翅は重傷を受けて悲鳴をあげながら血みどろになって祝宴会場にもどりそのまま倒れた。


このため祝宴の出ていた来賓らは局にひきこもったので、局外で待ち伏せして路上で要人を殺害するという計画は失敗してしまった。この暗殺行動隊は計画を明らめて逃走して、政府要員らは無事帰宅した。


そこで、金玉均らは日本公使館にかけつけると、館内には武装した日本兵が集まっており、島村書記官からすぐに宮廷に行くように指示されたので、金玉均らは国王のいる宮廷昌徳宮に急行した。福島春樹はれいの不発爆弾を改めて昌徳宮に仕掛けていた。

ちょうどその爆弾は金玉均らが昌徳宮に入り国王の近くまで行ったとき爆発したので、彼らは清国軍が反乱を起し王宮に攻撃を仕掛けてくると、いつわりの報告して、日本公使と日本軍隊の保護を求めるようにした。


王と王妃を昌徳宮から守備に便利な景祐宮に移し、日本留学生から帰った壮士学生を中核として要所を固め、日本軍隊の一個中隊も景祐宮の門を固めていた。
政変の報せうけて、景祐宮に政府要人、閾台鏑、関泳穆、趨寧夏など、守旧派政権の大物がぞくぞく駆けつけてきた。かねがね暗殺しようとした要人が入ってくると、次々あちらこちらへ引張っていっては殺した。内宮で王妃のお気に入りの柳在賢も、国王の側に居ったのを外に引きだして殺した。これが5日未明のことであった。


五日の早朝には更迭発表され、李載元を左議政、開化派の洪英植を右議政とする、開化派を中心に大院君系の人士をふくめた新内閣を組織し、六日の早朝には、新開化派は政変後、電光石火のように新政府を組織し、新政綱を発表して改革事業にかろうとした。これが世にいう甲申政変である。


しかし、閔妃はひそかに前右議政 臥彰砦つうじて清軍の出動を要請した。また彼女は、狭い景祐宮から広い昌徳宮に帰ることを強請し、国王もそれにしたがったので、少人数では守備に不利な昌徳宮に本拠を移さざるをえなかった。


ソウル市内では、開化派が日本人と結託して国王、王妃を監禁して主要大臣らを殺しているという風聞がひろがり、反日感情が開化派にたいする敵意となってあらわれ、事態はますます不利になった。


十二月六日午後三時、清軍は二隊にわかれ、五〇〇名の一隊は呉兆有の指揮のもとに宣仁門から、八○○名のもう一隊は衰世凱の指揮のもとに敦化門から昌徳宮を攻撃し、一部の市民もこれに呼応する気勢であった。平素、清軍をけなして大言壮語していた竹添は青くなって、金玉均らの反対をおしきって撤兵しはじめた。


実は彼は、十一月二十五日に金玉均が政変計画を打ち明けて日本軍の支援を要請したとき、「たとえ支那の兵が千名であろうとも、わが一中隊の兵は先に北岳に拠れば二週間、もし南山に拠れば二ヵ月間は守備できるから、断じて憂うことはない」『軍串臼録』)と豪語していたのである。


申福模、尹景完らの指揮する開化派直系の約一〇〇名ばかりの軍隊は抗戦につとめたが、閲妃はすでに清軍陣営に脱出し、清軍が昌徳宮に侵入しはじめると、国王も閔妃のもとに行くことを固執した。洪英植、朴泳教と七名の士官学生は、死を覚悟して国王に随行し、他の同志たちは再起を誓って悲壮な借別の情をわかちあった。


国王に随行した洪英植ら一行はすべて清兵に殺され、金玉均、朴泳孝ら九名は日本に脱出し、そのうち徐光範、徐載弼、辺樹の三名はアメリカに亡命した。
金玉均ら一行は日本公使館員たちとともに仁川に脱出し、日本の千歳丸に乗船して辛くも日本へ脱出することができた。復活した閔妃政権は刺客を送って命をねらい、日本政府は彼らを招かざる客として、金玉均小笠原諸島、北海道など辺地に軟禁した。


一八九四年三月十日、朝鮮守旧派の後ろ楯として開化派に敵対していた季鴻章を説得するために上海に渡った金玉均は、刺客 洪鐘宇に射殺された。
清国軍艦で朝鮮に送られ、楊花津に渚いた彼の死体には、「大逆不道罪人」として、死体をさらに八つ裂きにする陵遅処斬が加えられた。


日本の大陸侵略はいつも民間の浪人たちが軍部のお先棒をかついで残虐非道なることを行う度に、その中で暮らす多く日本人が犠牲になったことを考えれば、この事件の歴史的評価も考え深いものがあろうと思うのである。