王妃殺害事件の資料

下記はF・A・マッケンジー「朝鮮の悲劇」の序の全文です。彼はカナダ人、ロンドン・デーリーミラーの記者として1904年と1906年の2回韓国を訪れている。この本は1908年(韓国併合の2年前)に出版されたものである。ジャーナリストの目で見た韓国併合に至る朝鮮を記述しています。

私は、ここに、一国興亡の物語を述べることとする。私の話は、ごくわずかな導入部分を除いては、たかだか三十年足らずの期間にわたるものであって、それもその大部分は、イギリスのエドワード王(1901〜10在位)即位以後に起こったことがらについて述べることとなる。近代朝鮮の、短くかつ悲劇的な歴史は、重大な国際的進展と連結されていた。朝鮮の近代こそは、やがては二〇世紀の主要な世界的葛藤を招来するような、推移をひき起こさせるきっかけを与えることとなった。つまり、起ち上がった中国と野心に満ちた日本との間の生存競争、という葛藤へのそれを。そしてまた、それは、日本天皇のロシアに対する宣戦布告の理由ともなったのである。それは、正義と平和と公正についての、日本の公言の真実性をためす試金石を、今日、われわれに担供するものである。
 偏見のない観察者なら誰でも、朝鮮が、その古びた国家統治の腐敗と懦弱のおかげで、ついには自らの独立を喪失するに至ったということを、否定することはできない。だが同時にまた、この半島に対する日本の政策が、老獪な宮廷派の陰謀と頑迷とによって、多くの困難をなめたということも、同じように真実である。しかし、こういうあらゆる障害を十分科酌した場合でも、この朝鮮の国土の日本政府占領後に示されたその諸行動を目撃したわれわれは、悲痛な失望の感を表明するほかはない。事態は今や、その事実に対するイギリス国民の義務の問題にまで立ち至っているという段階に達している。私一個人としては、われわれは、われわれ自身およびわれわれの同盟国日本に対して、次のことを果たす義務があると確信する。すなわち、弱小国に対する厳粛なる条約義務の破棄に基づく、そして、憎むべき蛮行、無益の殺傷、信頼してよりかかっている無防備な農民の私的財産権の大規模な収奪、等々により築き上げられた帝国主義的膨張政策というものは、われわれの本性に背を向けるものであり、かつまた、最近われわれがとくに捧げている尊敬と善意をその当該国からはぎ取ってしまうことになりかねない、こういうことを明らかに知らせるということを。
 この書物で取り扱った諸事件の多くは、私自身の視界内に入って来たことがらである。いくつかの章、とくに1907年の義兵闘争についての諸情景の描写は、まったく私の直接的な個人的物語である。可能なかぎり、私は、私自身の説明と結論を、他の目撃者の証言によって立証するようにつとめた。最近の義兵闘争については、読者は、主として私の個人的な観察を頼りにするほかはないだろう。なぜかといえば、私が義兵地帯を実際に旅行したその時点においては、闘争展開中のこの地域を旅行した唯一の白人は私以外にはないからである。 私は、本書中に記述してある諸事象に関して有力な役割を果たして下さった多くの方がたから、親切と寛大な助力と助言とを悉くしていることを記しておきたい。
F・A・マッケンジー
時代背景
閔妃は、大院君から政権を奪い、国王の親政とした。朝鮮第26代の高宗、李大王は、政治的発言力はまったくなく実権は閔氏を中心とする一門が掌握し、強力な鎖国攘夷政策をすてて、1876年(明治9)、江華条約を結んだ。開国後は、内に守旧、外に事大を基本政策として開化派と対立した。1882年、反日的反閔氏的軍人の反乱(壬午軍乱)がおこり、閔氏を中心とする高官を襲撃した。閔妃は変装して危うく地方に脱出した。花房公使らも日本に脱出した。大院君は政権を得たが清軍によって天津に拉致された。斉物浦条約が結ばれ、日本は50万円の賠償金と公使館への日本軍駐留を認めさせた。1884年日本の支援よる金玉均らのクーデター起こしたが、清国軍の介入を招いて失敗した。清国は朝鮮に対する干渉を深め、釜山開港以降、日本と朝鮮との貿易は徐々に拡大していたが、甲申政変後、清国は朝鮮に対する干渉を強め清国の商人は朝鮮における日本の商人の商権を脅かし始めた。こうして、日清の対立が激化し、1894年の日清戦争へと進んでいった。日本戦争に先立ち日本は朝鮮王宮を占領して大院君を担ぎ出し執政に任じて閔妃の追放(甲午政変)をはかり親日政権を作った。閔妃日清戦争により政権を奪われたが、日清戦争後の三国干渉で復活すると、ロシアの勢力をひきいれて反日親露政策をとろうとした。日本がわはこれに対抗して、李大王の父、大院君を支持し、また1895年には親日派の朴泳孝を内閣に推すが、朴泳孝はまもなく失脚し、開妃派はしだいに勢力をまして、日本の勢力を政府内から駆逐してゆく。日本がすすめて採用させた内政改革案も廃文とされ、閔妃の主宰する宮廷が、政治の前面に返り咲いた。日本がつくった軍隊である訓練隊も、廃止されようとしている。このままでは日本は韓国から追い出され、日清戦争で獲得したはかりの利権も、そのいっさいが失われるのではないかと考えた。日本公使三浦梧楼は、大院君をかつぎ、日本浪人と朝鮮軍の訓練隊(日本人が教官)を宮中に乱入させ、閔妃を殺させた(乙未事変)。三浦は朝鮮軍内部における訓練隊と侍衛隊との衝突事件のように宣伝したが、真相をかくせなかった。日本政府は三浦や浪人を本国に召還し、形式的な裁判を行い三浦らは証拠不十分として無罪にした。高宗はロシア公使館に保護を求めて移り、日露戦争まで10年間、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立がつづいた。
感想
「偏見のない観察者なら誰でも、朝鮮が、その古びた国家統治の腐敗と懦弱のおかげで、ついには自らの独立を喪失するに至ったということを、否定することはできない。だが同時にまた、この半島に対する日本の政策が、老獪な宮廷派の陰謀と頑迷とによって、多くの困難をなめたということも、同じように真実である。しかし、こういうあらゆる障害を十分科酌した場合でも、この朝鮮の国土の日本政府占領後に示されたその諸行動を目撃したわれわれは、悲痛な失望の感を表明するほかはない。」ということか
参謀本部アリフタン中佐は当時の状況を次のように報告書しています。
ソウルにあっては、日本人が自らの包囲網で国王をがんじがらめにしているので、彼は日本人の操り人形となった。全閣僚と大院君老は彼らに買収された。公然たる日本人の敵、ならびに活動的で聡明な女性である王妃は、日本人の圧迫に一人耐えて国王を支えていたが、彼らによって惨殺された。国王はスパイ網にぐるりを取り巻かれており、彼との接触が許されるのは、日本人に心服した者だけに限られる。国璽は早くも1895年10月に国王から取り上げられた。朝鮮の最重要事は、国王の与り知らぬところで、全てが専ら日本人によって決定された。日本人の側は国王の行動に逐一目を光らせて、かわいそうな王に対して更に強烈な精神的重圧を加え続けるので、彼は実際に催眠術にかけられたような状態で、日本人に対し公然と反抗し、彼らの磐石のような抱擁を振りほどくのに十分な勇気を自らのうちに見出せないが、運命が彼に負うことを命じた自らの臣民に対する高邁な義務への自費の念から、彼の心中では痛ましい闘争が展開されていた。けれども、日本人はこれに気付いていない。彼らは、当初は軍事的な勝利、次いで政治的勝利の美酒に酔い痴れていた。彼らは弦の緊張をますます強めており、一国に侵入して、その国の側には何らの落度もないのにこれを占領してしまった。ある二級大国の側から国家元首に対して加えられるこの未曾有の脅迫は、全世界が注視する中で行なわれているのだ。
全ての国家の外交代表らは、まるで申し合わせたかのように、局外者として冷淡な傍観者を決め込み、この異常事態の調停にすら乗り出そうとはしないのである。どうやら、いずれの列強も自国の利益が犯されたとは感じていないようで、問題に機が熟するのを待つ以外になかった。
 事実、新暦二月二日、国王は最後の絶望的手段に訴える。彼は自分の宮殿を去って、皇太子とともに密かにわが公使館へ移り住み、その当時、警備に当たっていたわが軍の水兵たちの庇護下に入ったのである。恥知らずにして人道にもとる日本人のしつこさにも終わりが訪れ、彼らにとっては寝耳に水の国王の行動によって、朝鮮において持続的かつ執拗に進めてきた彼らの事業の全成果が、突如として、取り返しがつかないまでに喪われてしまった。日本の政策の破綻についてはこの位にして、日本人が朝鮮で実践してきた手練手管を更に幾つか披露しておこう。
ほんの僅かでも可能性が現われると、彼らは所構わず朝鮮人役人の更迭を画策して、後任には自分に心服する者を任命する。日本人は朝鮮全土へ、彼らに有利な世論の醸成を任務とする自らの諜報員を大量に送り込んでいる。これら日本人諜報員は、豆や家畜の買い付けを装ったり、小間物の行商として朝鮮入りし、遂には、朝鮮人に変装して潜入する者もいるが、朝鮮人の側からは常に全面的な不信と軽蔑の目が向けられている。
六〇名からなる日本人測量技師が、朝鮮を仔細に測量するため元山から四方八方へ、主として北部へ向けて送り出されている。彼らもやはり至る所で、しつこく官舎の割り当てを要求したり、婦女の凌辱などで、いずれに際しても莫大な金を朝鮮人へ支払いはするものの、民衆の敵意を買ってきた。
日本人の押付ける改革が民衆の間に呼び起こした極度の憤激、ならびにその実施に際して予期された由由しい混乱を慮った日本人は、言語道断な厚か宜しきで、断髪令は偏にロシアからの強硬な要求の結果として出された、という噂を自らの諜報員を使って広め始めた。好機到来とあらば、日本人は掠奪も敢えて辞さず、例えば元山では、シェヴェリョフの倉庫がこの種の不運に見舞われたことがある。この出来事が当時は、損害に対する巨額の賠償金をわが方から請求して、調子に乗った日本人の処罰を求める契機とはならなかったのを、今なお深く遺憾とするものである。周知のように、シェヴェリョフの倉庫は中国人の貨物のみを保管していたため、われわれと日本人の関係を荒立てないためにも、中国人の肩を持つことは不要と考えたのである。最近二年間における朝鮮での日本人の活動、ならびに彼らに対する朝鮮民衆のムードは、以上の通りである。(朝鮮旅行記 P321〜P323 1895年12月および1896年の1月の朝鮮旅行 参謀本部アリフタン中佐)
F・A・マッケンジーは次のように語っています。
三浦は十日後に召還されたのであった。国王自身は、王宮内に幽閉されており、大院君一派がこれをとり囲んでいた。王妃殺害騒動のあった日、ロシア公使とアレン博士が国王に拝謁したが、そのとき、彼らは、完全に虚脱状態におちいっている国王をみた。王宮の侍臣、官吏、軍人たちは、沈没する船から逃げ出す鼠のように、いつのまにか急にいなくなった。しかも彼らは、彼らが王宮派であると認められる証拠となるようなものは、何一つ残さないで処分してしまった。外国政府代表たちは、一体となって、大院君承認を拒絶し、国王との直接交渉を強く主張した。気の毒にも国王は、毒殺を恐れて、缶入りのコンデンス・ミルクか、あるいは殻のまま料理した雑卵のほかは、何もお口にされなかった。医師として朝鮮で顕著な貢献をしたエイブソン(Aveson)博士やその他のアメリカ人宣教師たちは、毎夜王宮に行って留まった。それは、外国人目撃者たちのいることにより、謀叛人たちを牽制することができるであろうと考えたからであった。それと同時に、宣教師や公使館の夫人たちは、食事に対する国王の苦境をきいて、自分たちで特別に料理した食事を、エール錠をかけた錫製の箱に入れて、定期的に国王のもとに届けした。(朝鮮の悲劇 P69〜P70)
殺害事件の二日後に国王に拝謁したソウル在住のニューヨーク・ヘラルド紙通信員コックリル大佐は、その時の印象を、次のように記している。
数段の階段を上り、ベランダを横切って、われわれは一つの小さな部屋に入り、そして左に折れた。そしてその戸口のところに、簡素な朝鮮風に装飾されたもっと小さな一つの小部屋のあるのを見た。不幸な国王は、すでに皇太子となっているその弱々しい息子を側にして、内股で、青ざめて立っておられた。国王は背丈小さくやせていて血の気のない様子であった。この数日間のできごとによってその蒼白さはいっそう加わり、神経質そうに痛々しく見えた。通訳に当たっていたジョーンズH.J.Jones師の方を向いて、国王は、われわれと握手してもよいかとたずねられた。国王はわれわれみなの一人ひとりと心をこめた握手を交わし、それから側にいるにやにやして愚鈍な息子の手に訪問者各人の手を移した。この時、ロシア公使は、国王に大きな錫の箱をさし出したが、それには、公使の説明によると、自分の食卓から持って来た若干の果物と食物が入っていたのである。絶えず毒殺の危険にさらされていた国王は、お手ずからその箱を受け取られた。その箱の鍵が国王に手渡された。
国王は、新任の軍部大臣の権限下に立っておられたが、ウエーベル公使に目で嘆願をし、また手ぶりで忠実なダイを自分から引き離さないで欲しいとの意志を表示された。国王の全身は、あたかもセント・ヴィツス舞踏病に苦しんでいるかのように、ぴくぴくひきつり、その日は悲しげに嘆願していた」(ニューヨーク・ヘラルド紙1895年9月12日)
さらに次のような一文を書いている。
誇るに足る急速な進歩をとげて来た日本帝国のような文明国の外交が、四分の一世紀も後退してしまっているということを、伊藤公はよく知らないのであろうか?もしも公がそれを知らないのであるとするならば、公は私の考えているような指導者ではない。朝鮮の半野蛮的状態は、その慈悲深い隣人に、恐ろしいことだが、当分は忘れることのできないような、血の教訓を行なう機会を与えたのではないか。日本に対して誠実に好意をもっている人間の一人として、私は、日本の残虐さを宣言するだけにとどまらず、日本の利害がかかっているようなその不正とその無感覚を公にするような事実を、ここに記さなければならないことを悲しむ。三浦子爵が日本政府によってその位階を進められることのないよう、あるいはまた彼のすぐれた外交的明敏に対する記念の勲章が贈られるというようなことのないよう、切に望まれる。彼の位階は、セント・.バーソロミューの虐殺を計画した人間、そしてスコットランド女王の夫君を爆殺したやつのそれと同じである。三浦子爵は、広島で、今や偶像にまでなっているということを、私は知っている。彼は、高官の訪問をうけ、釈放されたその夕方には一大宴会を催した。

カネイェフ大佐
東洋的な観念によれば、故王妃は優れた教育を受けており、朝鮮のみならず、恐らくは東洋全体を見渡しても当代随一の漢字通と見なされていた。それに加えて、彼女はヨーロッパの文明と改革を、日本人の仲介を経ずに朝鮮へ導入することに、たいそう意欲的であった。決断力もあり、聡明でもあった王妃が、朝鮮の勝手気儀な統治を望んでいた日本人たちを快く思い得なかったのは当然である。そして、日本人は極めて陰険な悪事すら、怯むことなく敢行したわけだが、われわれのソウル滞在中は、その詳細がまだ最終的には解明されなかった二つのことだけは確かである。即ち、虐殺は1895年11月25日から26日にかけての深夜に、完全に日本人のみが、以下のような状況の下で実行したのである。午前三時、王宮を日本軍が包囲し始めた。日本軍の一部隊は北西門に配備され、北東門に集結したのは、日本人によって教育された朝鮮兵約三〇〇人である。宮中にはダイ将軍がいて、王宮防衛のための措置を講じょうと試みたが、宿直室には将校が見当たらず、王宮守備隊も一部は解散してしまっていた。連隊長の発した解散命令を、北東門を固める朝鮮兵は実行しないはかりか、却って、彼は指揮官ではない、ここで命令できるのは日本人教官だけだ、と言った声すらも聞かれる始末だった。宮中では、日本軍と朝鮮軍の兵士によって王宮が包囲されたことが明らかとなるや否や、国王は前の農商務相李範晋に米国とロシアの公使館へ駆け込み、救援を求めるよう命令した。西壁に登った李範晋は、その前面が兵士で充満していたので、ここから気付かれずに下りるのは不可能と断じた。そこで彼は、城壁の南東隅にある塔によじ登った。この場所には、僅かに二人の日本兵が守備についているに過ぎなかった。李範晋は、彼らが遠ざかる頃合いを見計らって壁から飛下り、片足を挫いてしまったにもかかわらず、駆け出して逃げていった。米国公使館近くに差しかかった時、彼は最初の銃声を聞いた。破れた召使いの衣服を纏った李範晋がロシア帝国公使館に駆け込むや、彼は僅かな語彙を駆使して次のように訴えた。日本人が宮中において、恐らくは王妃の殺害を目指して、虐殺を重ねており、国王はロシアと米国の代表が救援に駆付けてくれることを切望している、と。
ところで午前四時過ぎ、最初の銃声を合図に数名の日本人が、差掛け梯子を伝って王宮の壁を北側からよじ登った。南壁をよじ登った老たちが銃撃で歩哨を追い散らして、正門を開けたので、正門の外に待機していた朝鮮兵が怒涛のごとく乱入した。一万、北門を押し破って侵入した日本軍や朝鮮軍の兵士らは、差掛け梯子を用いて北の小門を乗越え、銃撃によって宮中の衛兵を追い散らした後に、門を開放して、王宮の北の部分を占拠した。王宮の中央部は日本人将校指揮下の朝鮮兵部隊が陣取り、国王の居間では、庭園に出る扉と宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに、日本兵が二名ずつ立哨していた。王妃の離れが所在する中庭は、平服に軍刀を帯びた日本人で充満していた。彼らの何人かは、抜き身の刀を手にしていた。この群団の指揮者もやはり、長い短剣を帯びる日本人だった。彼らは戚声を上げつつ中庭を走り回って、王妃の所在を聞き出せると判断される人々を捕まえては打擲するも、誰一人として彼らの求める情報を与えた者はいなかった。王妃が女官の間に身を隠しているに違いないと考えた日本人たちは、か弱い宮廷婦人を手当たり次第に殺しだした。官内大臣が日本人らに向かって飛出し、彼らと王妃の間に立ちはだかって、諸手を挙げて慈悲を請うたが、日本人らは軍刀を振りおろして、彼の両手を切り落とした。彼は血を流しながら崩れ落ちた。日本人らは婦人たちに襲いかかり、王妃の引渡しを要求するのだった。王妃と全ての女官たちは口裏を合わせて、王妃がここには居ないと答えていた。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって彼女が廊下へ逃げだすと、l人の日本人が脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえるや床に投げ出して、彼女の胸に足を載せて三回はど踏みつけたあげく、刺し殺した。しばらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林へ運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。1895年11月26日の流血劇は、こうして幕を閉じた。恥じ知らずという点では、歴史上に前例のない出来事が起きたのである。異国の人々が平時に、かの国の軍隊の庇護下に、はたまたその指揮下に、そして、恐らくは外交使節さえも関与の上で王宮内へ大挙して閲入し、王妃を殺害して、その遺骸を焼き払い、卑劣なる殺人や暴行の限りを尽くしたあげくの果てには、この上なく恥じ知らずな遣り口で、衆目の注視する中で遂行されたことを(彼らが犯罪の実行直後にほとんどいつも行なっていたように)敢えて否定したような事例が、かつてあったであろうか。
日本人らが自らの虐殺を実行していた頃、南門からは日本軍兵士とともに大院君が、そして彼とほぼ同時に日本の三浦公使も王宮に入った。彼らは直ちに王の許に赴き、王妃からその称号を剥脱し、平民の身分に降格させることを宣する布告に署名するよう迫った。激怒した国王は両手を差出して、自らの指を示しながら次のように言った。「これらの指を切り落とし給え。そして、もし指どもが望むならば、諸君が余に要求することについて署名させ給え。だがそれまでは、余の手は決して、そのようなことを為きぬであろう」
 忌まわしい王妃殺害からしばらくして当初の大混乱が鎮まった頃、ロシアと米国の代表、国王の臥問や側近たちが王宮に到着した。その日のうちに全ての外国代表が参集して会議が開かれ、その席で日本公使には、日本軍兵士が王妃を殺害し、また一部の部隊は11月25日から26日にかけて、大院君を郊外の住居からソウルの王宮まで護衛したとする告発に対する釈明が求められた。とどのつまりは、日本政府がロシア政府へソウルで起きた騒動については深い遺憾の意を表明し、わが国の駐ソウル代理公使と共同歩調をとるべく訓令された全権代表を調査のためソウルへ派遣した、というのがその結末だった。
注、私はこれらの諸事件を目撃したわけではないが、それらは後続の諸事件とも非常に密接に結びついており、人々の記憶にも生々しく生き続けており、また1896年1月30日の政変に僅かに先立って発生していることから、話の完全さを期するためにこれらを紹介するのもそれなりに有意義と考える。
上記は1895年から1996年に朝鮮旅行したカネイェフ大佐とその助手ミハイロフ中尉らの手記です。
感想
「話の完全さを期するため」とあるから事実その通りだと思う。この事件は日清戦争のおわった直後に、当時の韓国駐在、三浦梧楼公使と、熊本県人を主体とする民間壮士たちの手で行なわれたものだが、堂々と公使が指揮をとって王妃を殺してしまったのだから、いくらナショナリズムの19世紀といえど、同時の日本の指導者の意識の文明度が分かる。かって、占領下の日本に連合国軍最高司令官として君臨したマッカーサー元帥は、米国に帰ってすぐ、日本人のことを「12歳の少年のよう」と語って、日本国民を憤慨させたことがあったが、冷静に考えて見てば、マッカーサー元帥が言うたことは真実かも知れん。