中国人強制連行

富士市に中国人強制連行事件の現場があったことを知ったのは、十年ほど前である。戦争末期に計画された陸軍飛行場建設のために連行された中国人は五百四名。半年ほどの間に約一割が死亡した。しかし『富士市史』では、飛行場についてかなりのスペースをさきながら、中国人のことは「一部の捕虜等が使用された」とあるのみ。
 歴史教育にたずさわる者として事実を知りたいと思い、暇みて関係者を尋ね聞き取りをし、資料を捜して東京などへも行った。それら資料・証言から明らかになった実態は、まさに強制連行・強制労働そのものであった。
 ある中国人は、天津市街を通行中、突然憲兵にら致され収容所に入れられた。同じょうにして収容された人の多くは、農民・商人など民間人であったらしい。
日本へ連行されてからの飛行場での作業は、朝六時から夕方六時までほとんど休みなしの重労働。食事は満足に与えられず、空腹に耐えかねた中国人はバッタ、ネズミ、カエル、ヘビなど手当たりしだいに食べ、生命をつないだという。肺炎や大腸炎と報告された死者の大半が栄養失調による衰弱死と推定される。「反抗」事件も起こり、警察の拷問で虐殺されたらしい者も何名かいる。
 敗戦から三年して、中国人を使役した熊谷組は、死者を葬った共同墓地の一画に慰霊碑を建立した。正面に「中華民国人興亜建設隊故役者之碑」、側面に死者を刻んである。最近この碑をめぐって論争が起こった。碑文は殉難の事実を偽っているとして、日中友好団体の地元支部が碑の改削計画をたてたためである。結局は歴史的遣物として現状のまま残すことに落ち着いたが、それで問題が終わったのではない。中国人強制連行事件の真実とその意味をどのように語り伝えていくかは、私たちにとっていぜんとして重い課題なのである。(朝日新聞昭和62年2月21日投稿、富士市 加藤義夫 高校教諭)

参考資料

三井三池炭鉱に強制連行記念碑/加害企業が建立費用

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj1997/sinboj1997/sinboj97-3/sinboj970311/sinboj97031171.htm

三井三池炭鉱での朝鮮人強制連行の歴史を伝える記念碑が、朝鮮人収容所があった福岡県大牟田市の馬渡りに建立された。県朝鮮人強制連行真相日朝合同調査団などの努力の結果、当事者の三井石炭鉱業も強制連行の史実を認める形で碑建立の費用を負担した。

三井鉱山馬渡社宅

http://www.miike-coalmine.net/shataku/umawatari.html

第二次世界大戦中、大牟田の三池炭鉱に朝鮮から数千名の朝鮮人が強制連行され過酷な労働を強いられた。そのうち約200余名の朝鮮人が「馬渡社宅」に収容されていた。「馬渡社宅51棟」の押入れに彼らの望郷の念が込められた壁書が1989年に訪れた強制連行の歴史を学ぶグループにより発見された。
 戦時中とはいえ朝鮮人に多大な犠牲をもたらし、さらに犠牲者の痛みを思うとき、ふたたびこのような行為をくり返してはならない。そこで、この地に「壁書」を復元することによって戦争の悲惨、平和の尊さを次の世代に語り継ぐため、この記念碑を建立するものである。 1997年2月 大牟田市」 (記念碑建立文より)


 感想

戦時の生産のただ中でも、他から転換されてきた日本人坑夫の勤労意欲は、朝鮮人や中国人のそれに劣っていたと評されているが、三井三池では、1944年、45年に中国人と捕虜が動員された後、作業人員に対する出炭量がこれまでの二倍になっている。戦時下の石炭産業は、朝鮮人や中国人や捕虜の苛酷な強制労働によって支えられていたのだろうと思うと涙がこぼるる。