明治維新と農民

明治維新は、廃薄置県をおこない、大名武士が土地を支配することをやめさせ、士族の軍事独占もやめさせた。そうして不十分ながら身分制を整理し、国民の職等の自由、移住の自由などをみとめてきた。明治五年には、庶民の土所有権をみとめ、したがってその売買や処分の権利をもみとめた。しかしこのとき、江戸時代の地主は、やはりそのまま地主としてその土地所有権をみとめられ、実際の耕作者に土地が与えられたのではなかった。もし本来大名武士らの土地にたいする特権をなくするという原則を徹底したものであれば、働たらかない地主の土地所有をみとめることはまちがいで、たとえばフランス革命や人民革命では、みな土地は働く農民のものとせられた。しかし日本では、封建時代の地主・小作がそのまま残されたてしもうた。この翌年の明治6年に地租改正がなされ、田畑の税を金銭で出すことにしたが、これにより、もとの年貢は土地の収穫高の豊凶に関係なく土地の売買価格の百分ノ三と一定せられ、金銭でおさめることにした。地価の百分ノ三という税率は、じつは政府がもとの年貢のとれ高より減らないように計算して決めたもので、農民の負担はこれですこしも減らなかった。ことに小作人が地主にしぼられることはぜんぜん昔とかわらなかった。政府は、小作料は地主がおさめる税のもとであるといって、その滞納を罰して地主が小作人をしぼるのを保護する政策を行った。警察や裁判所はつねに地主を保護し、治安警察法治安維持法などの法律で、小作人の団結や争議の自由をおきえつけたりしながら、地主はこれまで以上の高い現物の小作料を小作人から取り立てた。だから地租改正によって、政府は現金で前と同じ収入が得られたから都合よくなったが、農民のみじめな暮らしはすこしもよくならなかった。それどころか一方では、だれの所有とはっきりしていない、村や数村の人々が草を刈ったり雑木をとったりした山林原野(入会地)は誰の所有でもないといって、これを政府のものとすることが多かったため、農村の農民はひどくこまった。こうしてせっかく自分の土地をもった自作農も、その大部分は、税がはらえなかったりしたため、十年ぐらいでそれを手ばなして小作人になった。政府は農民をこんなに搾って、それで軍事の費用、薩長財閥を養う費用をつくったから農民の暮らしは困窮を極めた。