2008-01-01から1年間の記事一覧

朝鮮の金と日本

幕末、欧米の商人が日本の金銀比価の開きを利用して、金を日本からもちだした。そのにがい経験を、今度はみずから朝鮮に通用し日本側の治外法権・日本語貨幣の流通・関税免除によって、朝鮮産出の金の日本への輸入も、このやり方を見習った。すなわち、朝鮮…

米の総輸入総輸出(明治期)

米の総輸入 米の総輸出 明治 元年(1868) 436千円 不明 千円 明治 2年(1869) 4,432千円 不明 千円 明治 3年(1870)14,598千円 不明 千円 明治 4年(1871) 1,260千円 不明 千円 明治 5年(1872) ―千円 不明…

金玉均に思うこと

朝鮮では日本と清国との間で、一族をめぐっての派閥争いで、民衆にたいしてはあまりにも横暴だった。これを追い払うために日本の力をしばらく利用しようと考えた青年たちが、中にはいただろうことも、想像にかたくはないのだ。しかし、青年たちが本当に韓国…

米と日本人と朝鮮

開港後の朝鮮からの米穀輸入金額は、韓国経済通史によれば、明治12年度輸入総額61万円で米穀は58.6%であるから36万円、明治13年度輸入総額125万円で米穀は58.1%であるから72万円になっております。ちなみに日本帝国統計年鑑よれば、明治12年度の輸入総額は…

李鴻章

李朝の実権を握っていた関妃政権に対する日本の影響力の拡大、朝鮮米の大量買付けとイギリス製綿製品の輸出を中心とする日本の経済進出に対して、清朝も、李鴻章を中心に、伝統的な冊封関係の枠を越えた積極的な干渉政策を進めることになるのです。しかし、…

幕府と輸入米

慶応3年9月、大阪に米騒動がおこり、江戸には「困窮人の集まり」と称する貧しい人々の運動が起こっていた。たまたまアメリカ公使ヴァン・ヴォールクソバーク一行が江戸市中にはいったとき「われわれが難渋するのは、夷人が渡来して諸物価が高値になったから…

日本人は米を食ってきた、というのは誤解

日本人は米を食ってきた、というのは誤解。 日本人はズット米を食ってきたように思われますが、米だけはありませんでした。雑穀を混ぜていました。江戸から明治、地方によっては昭和30年代まで、米だけというのは非常に豊かな人々。たとえ農民でも、白米とい…

米と日本人

下記の史料は1971年から20年かけては明治時代に育った水俣地方の人々から聞き取りしたもので、大勢の人々たちの協力よって完成したものです。水俣というところは、大正時代に会所が没産して水俣手永の資料も全部散逸した。これほどきれいに文献資料がないと…

井上良馨の報告書

当艦義、海路研究として朝鮮西海岸廻航中、本月20日同国京畿道サリー河砲台より暴発し、夫より戦争に及びし始末、別紙之通に御座候。則日誌、サリー河図面、及永宗城図面等相添、此段不取敢致御届候也。 明治八年九月廿九日 雲揚艦長 海軍少佐 井上良馨 九…

京城の乱の真相 2

・・国王は外国の事情に通ずる者を喜ばれたので、国王の周囲には或は支那派もあったけれども、此時は段々日本派の者が多くなり、洪英樋、徐光範、それに前に左透された朴泳孝等も頻りに出入するにいたった。そこへ竹添公使が帰任して盛んに排支の気勢に油を…

京城の乱の真相

京城の乱の真相・・・されど井上氏が朝鮮に対する好功心は猶止むこと仏国とキンを開きたるに乗じ、朝鮮の野心家を慫慂して内乱を起さしめ、大に其内政に干渉せんとす。朝鮮人金玉均は、又井上氏の計策に乗りて、却て之れを利用し、己の野心を追うせんと計り…

遺書の一節から

1946年シンガポールのチャンギー刑務所で戦犯として死刑になられた方が死の直前に書かれた遺書のほんの一節ですが、「私は死刑を宣告された。誰がこれを予測したであろう。・・・・日本は負けたのである。全世界の今憤怒と非難の真只中に負けたのである。日…

民族政治の基本問題

日本の民族指導及び統治の理念はこの英米蘭の人種的優越に基く搾取的植民政策と異り、八紘為字の大精神に基き原住民をして各能に応じ分に従ひその処を得しめ、進んで自然に中核たる日本の聖業を輔巽するやうに導き、かれらをして大東亜興隆の栄誉を相供に享…

台湾出兵2

明治政府が誕生して、記念すべき初の兵3000余での海外遠征軍なのに、在外公館に報せないというのはまだいいとして、国人にも公示せんで、夜盗のように船を仕立ててこっそりと出ていくなどとは、無名の師というものであって、近代国家としてありうべきでない…

台湾出兵

明治4年9月、日清両国は「いよいよ和誼を敦くし、天地と供に窮まりなるべし。又、両国に属したる邦土もおのおの礼を以って相まち、いささかも侵越することなく、永久安全を得せしむべし」と、子々孫々までの友好をうたい清国と条約を結びます。ところが、明…

日朝修好条規

開港したときの朝鮮は乏しい国家財政下で、閔氏一族の勢道政治を行っていたから、一族の浪費、租税などの国家収入の横領、中央から地方までいきわった汚職などの一方貧窮生活に苦しむ一般庶民からは、相変わらず厳しい税の取立てが行われたようです。そこに…

玉を奪ふ

明治政府は、明治十六年四月六日に天皇の称号を「皇帝」と表記するとした。次いで同二十年六月九日、宮内省は内閣記録局へ「天皇」の尊称は内事に用い「皇帝」は内外に通用させるとした。そして、君主の公式称号を皇帝称号から天皇称号に代えたのは、昭和十…

国威宣布ノ宸翰、慶応四年三月十四日

朕幼弱を以て猝かに大統を紹き爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪えざるなり窃に考るに中葉朝政衰へてより武家権を専らにし表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠け億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はざる様計りなし遂に億…

江華島事件の真相

[江華島事件の真相] 武士は主君に奉公し、その代償として領有権や俸禄を受ける。武士の奉公の最も重要なものは戦うことだから、武士の名誉も経済的利益も戦うことによってもたらされた。その意識は、明治に入っても急には変わらない。明治政府は戦功者に賞典…

陪臣浪人にても良策を申し候

幕末において不平等を問題視する批判を見出すことはないのに、後世のものだけが大いにこの問題を重要視して、当時の歴史を論じていることが可笑しいと言うておるんよ!幕府はもとより天皇とその宮廷、雄藩諸侯、また尊王攘夷たちの志志士たちが、どんなに幕…

松原久子氏の主張の要点

松原久子氏の主張の要点欧米諸国が外へ外へと出ていった時、日本は鎖国の中で何を蓄積していたのか。これについての認識が皆無であることが、欧米の日本に対する偏見の土台となっているのである。そこで私はこの書において、鎖国以降の日本の歴史をたどって…

支那事変の真相

昭和十二年七月七日, 盧溝橋事件が起こり支那事変の発端となった。日本はその後八年間、日支間の戦争を続けて、遂に敗戦降伏に終わる。初め天津における日本の支那駐屯軍梅津美治郎司令官のもとに、支那各地に居る参謀達を呼び集めて、北支に事変を起こすべ…

陛下、お尋ね申し上げます

「私が深く悲しみとする、おの不幸な戦争の直後、貴国がわが国の再建のために、温かい好意と援助の手をさしのべられたことに感謝の意を表します」1975の秋、ホワイトハウスでの晩餐会の席上で昭和天皇が述べられた言葉。 その帰国直後の記者会見で「私が深く…

日清戦争

我が国人は鉄砲玉一つ放ったら後から附いてくるのは確かだ。実際ズドーンと一発鳴った効果はテキメンですよ。開戦という既成事実は対外硬論を白い眼で見ていた者までをも挙国一致に動員してしまったからね!無邪気なる国人の好戦の心を挑発し扇動することは…

天皇の真意は

「・・・今度の敗戦については何としても陛下に御責任のあることなれば、・・・ 講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をとり被遊、御退位被遊が至当なりと思う。・・・・・」(木戸日記)昭和26年10月17日、木戸幸一(敗戦時内大臣)…

奥崎謙三

奥崎謙三という元日本兵が、終戦直前の南方戦線における軍内部の犯罪、隊長による部下射殺事件や戦地で追い詰められた日本軍が仲間の人肉を食べたという食人事件を徹底的に追求すべく、奥崎は、戦争などの非を認めずまったく謝罪しない昭和天皇に向かって、1…

償いは済んでいるか、否か

戦争責任の現代の問題点(償いは済んでいるか、否か)日本の戦後処理の特殊な三つの事情。 第一点 連合国にとる対日占領が事実上はアメリカの単独占領であり、そこにおいてはアメリカの国益が優先されたことである。対日占領政策の円滑で効率的な遂行という…

張作霜

田中義一首相は、日露戦争直後満州軍参謀として情報収集に任にあたっていました。奉天会戦のときにロシア側のスパイとして張作霜が憲兵隊に逮捕され殺されそうになりました。このとき、田中義一は児玉層参謀長に嘆願して張を助けます。張は田中義一の後ろ盾…

張作霜

田中義一首相は、日露戦争直後満州軍参謀として情報収集に任にあたっていました。奉天会戦のときにロシア側のスパイとして張作霜が憲兵隊に逮捕され殺されそうになりました。このとき、田中義一は児玉層参謀長に嘆願して張を助けます。張は田中義一の後ろ盾…

中村 粲の『大東亜戦争への道』

白を黒という正当防衛論が多いですね。中国が排日、侮日、日本の正当な権益を犯したから、日本は自衛のために立ち上がった、という。日本の敗戦前に、政府・軍部が中国でも朝鮮でも、どこでも出兵するときには、つねにこのように言った。現在でも、日本の侵…