松原久子氏の主張の要点

原久子氏の主張の要点

欧米諸国が外へ外へと出ていった時、日本は鎖国の中で何を蓄積していたのか。これについての認識が皆無であることが、欧米の日本に対する偏見の土台となっているのである。

そこで私はこの書において、鎖国以降の日本の歴史をたどってみたいと思う。
特に強調したいのは次の三点である。

第一点鎖国時代に作り上げられた日本社会の仕組みをよく知っていれば、日本が開国後、迅速かつ徹底的に近代化を実現できたことは全く驚くに足りないこと。

第二点鎖国時代の日本社会を正椎に考察すれば、今日の日本を理解することができること。というのは、今日、日本人を良きにつけ悪しきにつけ、動かしていることの多くは、鎖国時代と一直線で繋がっているからである。

第三点限られた資源の中で平和に暮らした鎖国時代の日本人の知恵は、二十一世紀の地球全体にとっても、大いに重要であること。鎖国時代、日本では、三千万もの人々が限られた面積の国土で生きなければならなかった。にもかかわらず二百年以もの間、驚くほど穏やかに、平和に仲良く暮らすことに成功したのである。極端な貧富の差もなく、人々は概ね豊かであった。今日、膨大な人口を抱える地球では、天然資源がいかに貴重であり、人間と環境の微妙なバランスはいかに簡単に崩されてしまうかという意識が芽生えてきている。だからこそ今、鎖国時代の日本について知る意味があるのである。

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日本人の絵は二次元を描写するのには優れておるが、三次元の描写は皆無に等しい。芭蕉などの俳句や万葉集でも経験世界の現象を客観的に観察記録するという日本人の気質は、明治以来の日本の近代化にきわめて有利に働いたのでしょう。明治維新以降、四民平等とはいっても、皇族・華族・士族らの地位を保ち、薩長の出身らの官吏で国の運営が始まります。法律では賎民がなくなったものの、新たに新平民という名のもとに、苦しまなければならなかった。明治・大正ならびに昭和前期の民衆は、日常生活のすみずみまで、警察に監視されていた。このことをもっとも典型的にあらわすのが、明治の警視総監川路利艮の言葉である。

「日本人民は不教の民であり、これに自由を許すべからず。その成丁にいたる間は、政府よろしく警察の予防を以て、この幼者を看護せざるをえず」

人権無視の風潮は、法律の制定によってにわかに変わるものではないことは事実であるが、それにしても庶民を軽視する気風は、維新前後において、大きな変化がおきたとは思えないのである。

また、危険がのむぎとに、天皇をますます神様に祭り上げてしまい、その絶対的な権威のかげにかくれようとしたことによって、元勲らは、かって天皇を過度期の便法とみていたが、反対に固定する方向に進んだ。

19世紀的な世界経済の行き詰まりは日本の幼弱な資本主義を煽って、対外的には露骨に武力手段に訴えるものとたらしめると同時に国内的には人権尊重のごときをいよいよもって止むをざる悪害としかみない警察政治を頼りとした。

その結果、近代技術文化の恩恵には存分に浴したいと心がけながら、意識一般、ことに政治意識の近代化だけは、自らに否定しつづける人間が帝国臣民の理想型ということになった。

これは世界史上、近代にいたってはじめて生み出された品種であり、しかも中世的精神の継承、受精においてのみ可能な交配種のひとつである。

明治維新以来の急速な資本主義化にもかかわらず、この資本主義の発展そのものが、幕将時代から受けついだ封建的機構を踏襲し、依然として人々の心をとらえていた無垢な思考を極力利用しながら推し進められてきたような事情にあるわが国としては、生産関係の新しさにたいする一般的意識形態の立遅れがきわめて著しい特色として溜められたのは、むしろ当然の成り行きであった。

しかも、わが国の工業化、別の言葉でいえば、明治政府の銃意努力した富国強兵政策の成功が、このような上に成しとげられたものであることを十分に承知していた政治の指導者たちは、かねがね天皇を頂点とする家族制度の利用をはじめとして、あらゆる面において国民の古風な意識形態を保存することに心がけ、社会の不安の激化に直面するごとに、こうした意識に訴えることによって、危機の緩和を策としていた。

この意味では、満洲事変以来無条件降伏に至るまでの全過程は、わが国が欧米先進国にならった工業の披術的な仝成果と、それにもかかわらず人為的に最大限保存することのできたあらゆる意識遺物との特性と結びつきを頼みとしながら、世界的な未曾有の危機を乗り切ろうとした、最後の、まさしく国運を賭した大冒険の記録であったということができるであろう。