陪臣浪人にても良策を申し候

幕末において不平等を問題視する批判を見出すことはないのに、後世のものだけが大いにこの問題を重要視して、当時の歴史を論じていることが可笑しいと言うておるんよ!

幕府はもとより天皇とその宮廷、雄藩諸侯、また尊王攘夷たちの志志士たちが、どんなに幕府の攘夷にたいする軟溺を憤り神州を夷除ケに汚させるとさけんでも、国民の結集することができないかぎり、外国の圧力に抗することができなかったのでしょう。もっとも熱烈攘夷者の徳川斉昭などは、幕府にたいする批評家としてりっぱそうな口を利くけれども、いよいよペリーがやってくると、具体的対策についてさっぱり知識も芸もなく、あのあと自分が注意したとおりしておけば何とかなったのに、今となってしかたないと、ぐちをこぼすばかで、つまるところは、和の字は幕府当局の心中深く秘しておき、あくでも戦を呼号して人心をふるい立たせ、ペリーに対しては何の彼のと口実をもうけて問題の決着を遅延させ、その間に武備拡張せよという、まことたわいもない子供だましとしても通用しないようなことを、長々のべるだけであった。

それどころか、斉昭はその軍備拡張の強化のために幕府の最高顧問となり事実上の総裁となっても、その対策の原案が出ないから自分の考えも出ないというありさまであるし、幕府は幕府で老中に名案がないありさまであった。

武士の立場を放棄しなくてもせめて庶民に譲歩するところがなくては、とうてい民族の対外国力の結集はできない。

海防のためには庶民の武装を認めそれを組織することが必須であることは、すこしの見識のある者は誰でもみとめるところであり、当時もずいぶん多くの人々のよって唱えられていた。

しかし、それを行うということは、その農兵がいつ武力となり領主に反抗してくるかもわからない。それに農民の負担がとうてい耐えられない重荷であったのみならず、領主にとってもその農業がおろそかになることが心配であった。武士が軍務を独占するという従来の原則を守るものであったから、せめて幕府諸藩の武力を統一的に組織することが最低限の必要であることも、当時の人にもわかりきっていた。だが、幕府にそうする実力はなく、諸大名は自藩大一を考えすてるつもりは毛頭ないから、それはとうていできることではなかった。

幕府は日本の一大事であった問題の解決には、ただ「上下の差別なく陪臣浪人にても良策を申し候」と希望するのがせいいっぱいで、庶民である百姓町人学者の意見を聞くということさえ思い及ばなかった。

したがって接夷志士の結合はあっても、民族全体としての対外に対する結集はできす、幕府はもちろん無力であった。

接夷志士も幕府もともに夷除ケをなるべく皇国に近づけまいとするから、各国交際通商がどう行われているかを研究調査するなどということは仝然なく、法律学的経済学的な知識の上ではもちろんのこと、政治軍事上でもまったくの無準備で欧米資本に接した。せめてオランダのカピタンが幕府にペリー来航を予見したときにでも、幕府がそれを厳秘にするのではなく、そのことを公示してひろく対策を研究させておけば、あんなぶざまなことにはならなかったかもしれない。しかし事実はその反対に進行し、いよいよとなって幕府もその軟弱を攻撃するも、ペリーやハリスが二言目にはもちだす戦争の脅迫に対処する自信もなく、しかもそうなってもなお、なるべく体制を守ろうとすることを第一に考えていたから、結局は不利な不平等条約をおしつけられてしまった。

最初の通商条約からし治外法権が規定され、居留地が設定され、関税自主権はうばわれ、最恵国待遇の特典を無条件にどこの国にも与えた。しかもこれらの特権を外国に与えるについて、幕府当局は何らの疑問も不安もいだかなかった。日本にいる外国人のおかした罪はその国の領事が裁くという治外法権の規定でも、幕府がわでそうした方が面倒がなくてよかろうと思ったほどだし、居留地が設定することなどは、幕府の方から言い出したことであった。