支那事変の真相

昭和十二年七月七日,
盧溝橋事件が起こり支那事変の発端となった。日本はその後八年間、日支間の戦争を続けて、遂に敗戦降伏に終わる。

初め天津における日本の支那駐屯軍梅津美治郎司令官のもとに、支那各地に居る参謀達を呼び集めて、北支に事変を起こすべきか否かについて協議をした。その時起こすべきではないと言ったのが、参謀長の橋本郡大佐一人で、他の二十名の参謀達は皆起こすべきだと言う説であったという。相手は支那兵であり、日本軍は勝つに決まっている。勝てば論功行賞であると単純に考えた。ところが満州事変の発頭人の一人である石原莞爾氏は、その時参謀本部の作戦部長であった。この人の賛成がなければ、一兵たりとも戦争のために動かすことは出来ない地位にあったが、この人は初め北支に事変を起こすことには、絶対反対の意見であった。然し主戦派の者達は承知をしない。

「あなたは先年上層部の諒解を得ずに、勝手に満州事変を起こし、他日になって上層部に正当の事変と認めさせ、論功行賞まで受けたのではないか。あなたがこの際北支に事変を起こすことを飽くまで反対するならば、私達も先年のあなたのまねをして、勝手に戦争を始め、他日に至って上層部に正当の事変と認めさす方法をとります」と言って聞かぬので、石原氏は豹変して北支に事を起こすことに賛成し、それが他日の日本国の敗戦降伏につながる事変の端緒をなした。

なおこの石原氏は日本の敗戦降伏が近い頃、京都の師団長となって赴任した。京都府知事がその歓迎宴を開いた時、石原氏は大将銃殺論を力説して「日本国をこんなにしたのは、大将達の責任であるから、大将達全部を銃殺せよ」というのである。何しろ現役の師団長がこういうことを言うのでは、軍紀も軍律もあったものではない。皆々呆れ返って、座が白けたのを見て副官がとりなし「閣下は今夜酩酊していますから、そのおつもりで…」というと、石原氏はまた起ち「酩酊して言うのではない、大将達を銃殺すべしだ」と繰り返したという。

 満洲事変の論功行賞が、ここまで軍紀を弛めたのであった。