台湾出兵

明治4年9月、日清両国は「いよいよ和誼を敦くし、天地と供に窮まりなるべし。又、両国に属したる邦土もおのおの礼を以って相まち、いささかも侵越することなく、永久安全を得せしむべし」と、子々孫々までの友好をうたい清国と条約を結びます。

ところが、明治7年に三年前の事件を口実に台湾出兵をします。清国としては条約を結んだばかりの友好国日本がまさかそんなことをという思いで、裏切られました。

当時の清国には日清修好条規に違反した不法行為であった日本の敵対的行動になす術がなかったのです。

日本軍の台湾占拠を自力では排除できないと分かったとき、総署大臣恭親王らは、皇帝に「彼〔日本〕の理が非なのを明知しつつ、しかもわが備えが虚しいのに苦しむ……、小国の反逆にすら防御の策がないのに苦しむ」と上奏して、こうなれば「ただ内外上下、局中局外心を一して・・自強の実をあげ」るほかはないと論じて、国力を増やすように踏み切るように皇帝の決断を促します。

 そして、日清会談の日本の要求を飲まざるをえないと覚悟した恭親王は、勅許を乞う上奏において、「本案は日本の盟約にそむく軍事行動に発したものだが、わが海防の武備が頼むむに足るものであったら、弁論の要もなく、決裂を虞れる事もなかったであろうに、今や彼の理由を明知し、わが備えの不足を悲しむ」と悲痛な文字を連ねた。

この日清会談の結果、清朝冊封関係を結んでいた琉球王国の人民が日本の属民であることを事実上清朝に承認させ、犠牲者への慰問金その他五十万両を支払わせた。日本政府は、これにより両属問題は解決したとみなした。

小国だと見くだしてきた新興日本にしてやられた口惜しさの念はひとしお強かったのであろう。この機に、清朝内に対日警戒論、海防論が高まり、日本にたいしての政策の一つの底流となったのです。

そもそも、清国とは二百余年もの長期にわたってわが国と条約関係がなかったにもかかわらず、一兵もわが国の領域を犯したことはなかったのに、いま始めて条約を結んだところ、たちまちわが国は軍事行動をしかけたが、これは許せない我が国の不信行為であるし、余は清国皇帝ならびに人民にたいしてまったく面目がたたない不義行為だと思うのである。