三・一独立運動

独立運動の集団は北鎮の天道教会は鎮洞の南端セッケンマルの北鎮公立普通学校裏から出発した。

 「大正八年三月一日を期して全鮮一斉に独立運動に獣起するはずだったのが、何かの都合で四月中旬になった。その日は朝、雨が降り下校時には晴れた。私の家はセッケンマルの普通学校の前にあったので市東正作君、高橋満安君と三人が連れだって酒井英一商店の前まで来た時、約四百メートル南の真田薬店の前に約二百人の群集が幟を立て、手に手に太極旗を振りかざし、マンセー(万歳)、マンセーと大声で騒いでいるのが望見できた。たぶん朝鮮人の有カの葬式だろうと考え市東降一商店前まで来たところ、
日本人の大人たち多数に家の中へ引き込まれ「出てはいかん」と強く言い聞かされた。ちょうど父(高谷延四郎)もいたのでなぜだと訳を聞いたら、今大変な事が起きているので子供は絶対に表に出るなど、いつになく緊張しているし、大人たちはみな殺気だった顔になっていた。そのうちに布施商店前、市東忠次部商店前、市東隆一朗商店前を通過する時は殊更に声を大きくして大韓独立万歳、万歳と踊りながら過ぎていったが、別に日本人に危害を加えるような素振りは見せなかった。酒井英一商店を過ぎ、宮内自動車部(孟中自動車株式会社の前身)の前を過ぎ、中川歯科医院の前辺り(松尾旅館がその後同位置に建った)へ行ったと思われた時、警察署構内より空へ向け、威嚇のため拳銃二発が発射された。この音に驚いた群衆は蜘蛛の子を散らすように四散して逃げ出したが、すでに遅かった。いち早く守備隊は配備に付き退路を全部断った。
 あらかじめ不穏な行動に出るものと察知した警察は、鎮洞の要所、要所に緊急配備したので逃げられた者はほんのわずかでほとんどが捕まってしまった。さあ、それからが大変で、殴る蹴る修羅場、人事不省になった群衆は大八車に乗せられ、警察の構内に運ばれ留置された。当時、政令違反とか警察犯処罰令などという法令かおり、翌日より笞刑と称する処罰法部警察署の裏庭でこれが執行された(警察署の北隣は小学校であった)。学校の庭より警察の底部低いので、この光景が丸見えだったので教育上よろしくないとの説により中間の塀を高くしたが、犯人の絶叫はよく聞こえた。そしてこれらのシンパ (共鳴者、主義運動の支持者)も次から次へと挙げられた。夜に大の親日家となった崔澧業医師も一年くらいの刑に服した一人だった。金鮮に排日の気分が高まり武装蜂起の声を聞いたが、駐留する軍隊のおかげで北鎮近辺は安泰だった。同事件終息後、平壌からの守備隊は原隊へ復帰し、入れ替わりに姫路第一〇師回の歩兵第十連隊(岡山)から一個中隊二百人部北鎖へ派遣された。この中隊は前の一個小隊が使用した守備隊兵舎(木村写真館の南)を拡げて駐留した。この頃が、北鎮の一番賑やかな時代でもあった」

 当時、北鎖公立尋常小学校の生徒であった高谷正氏によれば、上記のような顛末だった。