武士

志士を自称する倒幕派の連中には、現状から這い上がろうと名分として、尊王を掲げ、ひたすら駈け回る下級武士が多く、そのほとんどは討幕の道具とて利用された。
下級武士出身の西郷、大久保らは、動乱という事態に身を置時、勝たなければ我が身が消えるとすれば,打ち手の質にこだわってはいられない。もし、西郷という男が上級の士分層の者であったなら、こういう手を打っただろうか。明治維新とは、下級の士分層の者であったからこそ,下劣な手段に抵抗を感じなかったといえるのではないか。

明治元年から十五年までの間、士族は全人口の五%強,すなわち,世帯数で四十万、人口百九十万人以内であった。彼らは維新の一大変革により、過去の社会的特権や伝統的職分を剥奪されたが、それでも、武士は以前と同様、一つの階級として存在しつづけた。
明治初期において、この一面危険な存在であり、他面有能な潜在勢力でもあった武士階級を新政府の強力な推進力ために取り込んで行く。行政,教育,警察,軍隊など、武士が既にもっていた能力や素養を活用することは容易であった。政府では転落した武士階級から,大量の人材を登用した。例えば、五ヶ条の御誓文が発布されてから約十年間、中央政府の役職員の七八.三%は士族であった。地方の官職についた者も、全体の七〇%以上は旧武士が占めている。これら武士出身の官吏が、旧藩政府に仕えて十分な経験を積んでいたということは見逃すべからざる大切な点である。
警察官は殆んどが士族で 幹部の大部分は旧体制下の与力同心などからそのまま転身した旧下級武士であった。
一八八二年、東京帝国大学の全教官六七名のうち四八名は旧武士から抜擢された。官公立学校においては一八八二年、行政職,教育職の総数四三.四六七人中三二.四八八人、つまり七二%は旧士族が占めていた。(帝国統計年鑑)
以上の統計をあげて明治の近代化に貢献した。武武士階級は,明治における変革のための、人材を供給しうる社会的階層であった。
政府のあいつぐ布告は,社会における武士の地位を根柢からくつがへすに役立ったかも知れないが、それが武士階級の価値体系や思考方式に、根本的変化をもたらしたとは必ずしも言えない。ひとつの階級が崩壊した場合でも、共通の体験とひとつの世界観をもった世代が、取って代るものである。