人間の本来の姿

歴史の中で信じられない数の人びとが、信じられない理由で死に、殺されてきました。
この信じられないことが、まさに「当たり前」のこととして、日常的に世界的に繰り広げられていたという事実は、裏を返せば、いつまたそのようなことが「当たり前」のこととして現れてくるか分らない、ということを暗示しています。
すべての権力は過去を自己正当化のために歴史にしようとします。正当化に不都合な過去を文脈で隠したり、切り離したり、誇張したり、歴史に虚構に変えることは世の常です。
文章はどんなことでも、自分に都合よく書けて人をその気にさせることた易い事で、今の世の中のも、このような意味で同じようなものです。
ただし、国家の正当化に奉仕することもひとつのありかたかもしれないですね。しかし、私としては、このような歴史はなんの価値もみいだせない。
歴史の流れに埋没して、忘れられた人々にこそ、人の生き方に感ずることができます。

たとえば、渋沢栄一はわが国の近代資本主義を築き上げた人物であり実業界の育ての親。彼が1883年大阪紡績を操業し、事業は大成功をおさめ、明治産業発展のため貢献した、と辞書を調べれば書いてある。
しかし現実には、大阪紡績は、生産性を上げるために、先進国ではほとんどみられたくなりつつあった、昼夜に二交代による終夜業をとりいれた。
職工は、大部分が女性である。その女工が夜から朝まで働く。夜業は一週間から10日まで続いて、昼業と交代する。
「これまで日本の女の職業で、夜なべはあったが徹夜労働はなかった」と村上信彦が述べている。まさに連日の徹夜労働は、女性にとってあまりにも過酷な仕事であった。
1900年(明治33)のある紡績会社の女工に関する恐るべきデータがここにある。
女工は年間の年期契約で働く。親に支度金がわたされ、若い女工はその支度金にしぼられて数年間働かされることになる。
前年度より繰るし数1246人、正当解雇者815人逃走除名828人事故請願退職394人病院帰休者118人死亡者7人、当年度雇用数1538人、正当解雇というのは、無事に年期が明けたものである。
逃走除名者とは、仕事のつらさに耐えかねて逃亡した者の数である。
こうして一年間に、1347名もの女工が、会社から去っていく。したがって、新しく1500名余の女工を、雇いいれなければならなくなる。
つまり、明治・大正・昭和・現在いずれも国指導者の努力により発展したというよりも、見方をかえれば、弱者の血と汗で発展してきたということです。
もしもその痛みを多少とも感じ取ろうとするなら、少なくても、抑圧された者からの目から正史を見ようと努力しつづけなければならないと思う。
暴虐にさらされたすべての抑圧された者(死者)からの目に映ったものこそ、まぎれもない日本の正史であり、民人が体験せざるをえなかったものこそ、日本の歴史の正像であることを知るべきである。
つまり、歴史正史の人間の本来の姿は、あらゆる抵抗を黙殺され、平凡で平和な生活を営むことさえ拒否去れた人々から見なければ理解できない。

簡単にいえば、人の無知、無識、無精神は人間の本来の姿であり、国の政策はこれらの人々を利用したものであるともいえます。