日本総理大臣は殺人鬼

維新改革の潮流の中で明治維新の指導者へと飛躍していった大久保・西郷・木戸・岩倉とその徳川幕府側の悲劇的な運命をたどっていった多くの若者らがいた。どちらも若者であり国のためか、夢のため、それとも信念と確信もとか、それぞれの個々のあり方はその行動の軌跡から思いめぐらせることが、歴史を習う醍醐味ではないかと考えています。しかし、歴史的事実というものは、いかんせん体制派に有利に展開されるのも世の習い。すべての権力は過去を自己正当化のために歴史にしようとします。正当化に不都合な過去を文脈で隠したり、切り離したり、誇張したり、歴史に虚構に変えることは世の常です。
文章はどんなことでも、自分に都合よく書けて人をその気にさせることた易い事。
今の世の中のも、このような意味で同じようなものです。
ただし、国家の正当化に奉仕することもひとつのありかたかもしれないですね。しかし、私としては、このような歴史はなんの価値もみいだせない。
その正史は我々の生活の中に浸透して多くの歴史教科書により表れている。そこで思うのですが、正史のなかに埋没し忘れられたものに人に感じさせる思いがあるのではないかと考えます。その辺を歴史の中から汲み取ることができるようになれば、人の生きる道を示してくれると思う。そして、歴史に埋没された物事から多くのものについていつも読むことができるようになるのではないでしょうか。たとえば、村とは、国とは、権力とは、愛とは、兄弟とは、父母とは、学問とは、死とは、生とは、政治とは、責任とは、自尊とは、虚栄とは、働くとは、悪とは,善とは、戦争とは、テロなどです。

歴史を作っていった人々や歴史の中から忘れられた人々ひとりひとり、お墓がある人もない人も、その考え方や行動を自分のものとして体験でき、自分の心の中に、いつまでも生き続けられます。

「いま死んだどこへも行かぬ、ここにおる、たずねはするなよ、ものはいわぬぞ」(一休さん
これが歴史が好きな理由です。

資料を基にその解釈によって成り立つ歴史自体、解釈いう主観が存在しているわけですし、
人間の問題意識によって、どこに焦点を当てるか、どの角度で考えるかは、個人の自由ではないでしょうか。