朝臣と藩士の間

戊辰戦役後、政治実権を把握していくのが、各藩から召されて、朝廷の直接の朝臣となった徴士と呼ばれる人々であった。彼らは、依然として出身藩の藩主との君臣関係に結ばれながら、藩を超えた朝廷のたる臣として活動するという複雑な状況に置かれていた。

慶応4年(1871年)2月木戸孝允は「版籍(土地と民人)の奉還」を建言する。すなわち、今日の状況をそのまま放置すれば、各藩は「兵力之強弱のみを各自相窺」ような状態になり、「朝廷自ら薩長に傾き、薩長は又其兵隊に傾き、諸藩又概かくのごとき類」である。
「真に尾大の幣」を逸れることができず、「真権の帰着する所」も明らかにならない。そのためには、徳川家の辞官・納地と同様、「3百諸侯をして其土地人民を還納せしむべし」と。

版籍奉還について島津久光は冶平の道に非ずと考えて、政府の施政に反対し、特に大久保・西郷の専横に満腔の忿懣をもっていた。(久光公密事稿・大久保利通文書)

ここで、木戸が危惧しているのは、朝廷が結果的に薩摩・長州に振りまわされること、しかも、その薩長自体が、自藩の「兵隊」の動向に左右されるであろうということである。この「兵隊」動向への懸念は、維新を推進した人々の共通して持ち続ける思考であった。

戊辰戦後の勝利に意気あがる諸藩兵は、続々藩地に帰えった。膨張した軍事力を抱えた各藩は、再び割拠の体制にもどろうとしていた。しかし、それらは諸侯の権力の増大を意味しているのではなく、権力は凱旋兵(下級武士)にあり、その指導幹部にあった。(木戸孝允文書)この趨勢の力はすでに旧来の藩主・家老たちの到底制御しえぬものとなっていた。
藩の実権は、戊辰従軍層の下級武士に移り、藩主、重臣層の権威は大きく失われた。
しかし、戦費の重圧は藩財政を破綻させて、藩体制の解体を促進させた。

板垣の指導する土州藩庁は、戊辰戦後、軍備拡張に努めた。それは薩長の専横を抑え他日事あるに備えるためであった。四国13藩の連盟を提唱し、琴平に諸藩重臣を集め、いわゆる金陵会議を開いたのも、このような諸藩割拠の風潮を表現する動きであった。(板垣退助君伝・谷千城伝)

薩摩藩は藩主の権限は強力であり、とくに国父島津久光は、大久保もその一員であった藩士たちの尊王攘夷派の誠忠組が文久2年の春、久光の意向を無視して行動しようとしたとき、これを徹底的に弾圧するなど、その苛烈な指導力を発揮した。
薩摩藩の大久保らは、そうした久光の意向や性向を熟慮のうえ、尊王倒幕の運動は、久光の把握する藩権力を通して遂行すべく、攘夷倒幕派の巧みな操作を通して、長州藩の倒幕運動に接近してきたという事情があった。

一方、長州藩は、吉田松陰門下で、尊王攘夷の思想に感応し、一介の庶民として直接に「天朝に御奉公」することが大事だという考え方を持っていたので、封建的な心情にながされることがなかったが、長州藩は、高杉など過激な攘夷派書生にいわば「乗っ取られて」、正面から倒幕運動を推進した。薩摩藩出身の大久保や西郷たちにが意識しなければならない事情(君臣関係)は、単に薩摩藩のみならず、各藩の多くの人心の根流にあった。