初代内閣総理大臣は多淫多情二代目は殺人鬼

内閣総理大臣第一号になった伊藤博文には、女好きで有名だった。待合升田屋の浜子をはじめ、武田屋のお虎、向島の百合、岐阜の金華、神戸と常磐屋のお国、赤坂屋浜子というぐあいに。明治、大正、昭和前期のオピニオンリーダーで、雑誌「日本人」などを主宰三宅雪嶺は「伊藤公の蔭には必ず女がてった」といっている。
伊藤はそうした遊びを比較的あけっぴろげにやっていたのであろう。多淫多情の結果というよりは、ほんの煙草の一服ていどの気楽な遊びのつもりであったのでしょう。
幕末志士たちが横行した京洛は、島原・祇園という遊郭を控えた土地だった。志士たちも暗殺し暗殺される生活であり、明日の生命もわからぬ生活であったから、生きがいを今日一日にかけ、その一日の生活が奔放的な生活になっていたのであろう。時には、有志の士と語りあったりするが、やはり、酒と女とバカ騒ぎが多かったようですね。
人を殺せば、自分もまたいつ殺されねばならない、そうした生命の危機感が、彼らをして、いっそう狂気の騒ぎへいざなっていくのであろう。
志士たちの中には、暗殺により自らまいた種をみずから刈らねばならない近い将来を恐れていたかも知れません。
伊藤も志士であったことえを考えれば、十分納得できるのではないでしょうか。

さて、本筋にはいります。
伊藤の後をついで二代目の首相の座についた黒田清隆だ。
彼が北海道開拓長官だったころ、北海道の官営工場をメチャ安い条件でという条件で、安田定則ら同郷の部下をつうじて、同じく同郷の五代友厚らに払い下げようとしました。官有物の払い下げをめぐって一大政治スキャンダルが巻きおこっりました。新聞が黒田のもくろみをスッパぬき、各紙がいっせいにこれを大々的に報じました。「薩摩閥の官財癒着」はマスコミの格好の攻撃対象となり、たちまち国民の怒りに火がつきました。

彼は30歳の時、妻を惨殺した事件がありました。黒田はもともと酒乱であって酔う途とほどく乱暴を働いたが、この時も泥酔状態だった。この事件は闇から闇にほうむられ、黒田はまったく罪に問われることがなかった。これを断定してしまうのはいささか問題があるが、ほとんど公然の秘密としてこの事件は世間一般に周知されていた。
深夜、酩酊して麻布笄町(現港区立高陵中学あたり)の屋敷に戻った清隆は、妻の清から当時清隆が懇意にしていた芝神明の芸者との仲を恨んだ小言を散々聞かされた。そして、しばらくは小言を黙って聞いていたがいつまでたっても尽きない小言に逆上した清隆は、居間から日本刀を取り出すと袈裟懸けに妻を切り倒してしまった(別説には殴り殺したとも、蹴殺したともいわれる)。事の重大さから酔いも一遍に醒めてすぐに我に返った清隆は、妻の亡骸を抱いて号泣した。そして物音に驚いて起き出した家人も凄惨な光景をみて肝をつぶしたが、その中の家令が事の重大さを察して大警視川路利良に急報し、川路はすぐさま黒田邸にかけつけた。

かけつけた川路大警視は同じ薩摩閥の要人の窮境を救うために、清隆を慰撫すると融通のきく医者に病死の診断をさせ、また家人には厳重な緘口令をしき、清隆自身のアリバイ工作までして事件のもみ消しを図った。しかし、人の口に戸は立てられず、数日後には広く世間に噂されるようになってしまい顕官の横暴だと黒田批判が強まった。

この薩摩閥の巨魁を救ったのはやはり川路大警視であった。川路は世間の定説を無視出来なくなり、遂に青山に眠る黒田夫人の墓を発掘し、棺の蓋を少しだけ開けると「これは、病死である。」と断言してまた元どおりに埋めてしまった。これにより世間の風評も収まり事件は解決した。そして世間の目を逸らすように警察は府内で大々的に野鳥の捕獲に乗り出し、事件を一層遠い物とした。

しかし、それから2週間後紀尾井坂で島田一郎に大久保利通が暗殺された。島田一郎が持っていた斬奸状には、黒田清隆の妻殺しの一件が大久保利通断罪の一事由として掲げられていた。

斬奸状の中に「黒田清隆酩酊の余り、暴怒に乗じて其妻を殺す。たまたま川路利良に有りと。亦して政府これを不問に置き、川路また知らずと為して止む。あぁ、人を殴殺しるは罪大刑に当る」とあった。

川路利良というのは大警視であるが、黒田が酔って帰宅したら妻が川路とふたりきりでいたので不貞を働いたとして殺してしまったということである。
しかし、すべてが、ウヤムヤになってしまった。

今の感覚でいえば、政府高官ともなれば悪いことのやりたい放題、女好きが首相となったり、ましてや、殺人者が首相となることができる、よき明治時代といえるのかな。
さぞかし、墓の中で西郷は涙をながして悲しんでいることだろうな。

当時の時代背景を考えれば、すべて理解できないことないが、人により絶対許せないことと思う人たくさんいると思う。やはり、歴史を読むときは、人間的本能を重視してみなかれば、よくわからないことだらけになるなではないかと思う。

しかし、幕末の志士たち、ならびに、維新政府の首脳たちには、民人の生活を考えながら物事を考えたフシがみあたらないですね。

普通は時代背景を考えれば当然といえるが、木戸あたりがすこしその辺を考えていたような感じかなあぁ・・・。

民人の生活を本気で考えていた人々は必ずたくさんいたと思うが歴史の流れにより無視されたのであろう。