黒田清隆の妻殺し

黒田清隆の妻殺し
のちの第2代総理大臣で、当時大久保利通に次ぐ薩摩閥の重鎮であった黒田清隆が陸軍中将を兼務した参議開拓長官だった頃の1878年明治11年)3月28日、深夜に夫人の「清(きよ)」が逝去しました。葬儀は翌々日の30日に各大臣、皇族の代理なども参列して厳かに行なわれます。しかし、この荘厳な葬儀が終わるとすぐに清夫人は病死ではなく、夫の清隆に殺害されたという流言が飛び始めたそうです。この噂は以前から素面のときは豪快で闊達、しかし情にもろく温厚な一面も持つ清隆が、実は酒乱の癖があることからおこったといわれています。

3月28日の深夜、酩酊して麻布笄町(現港区立高陵中学あたり)の屋敷に戻った清隆は、妻の清から当時清隆が懇意にしていた芝神明の芸者との仲を恨んだ小言を散々聞かされます。そして、しばらくは小言を黙って聞いていたがいつまでたっても尽きない小言に逆上した清隆は、居間から日本刀を取り出すと袈裟懸けに妻を切り倒してしまった(別説には殴り殺したとも、蹴殺したともいわれています)。事の重大さから酔いも一遍に醒めてすぐに我に返った清隆は、妻の亡骸を抱いて号泣したそうです。そして物音に驚いて起き出した家人も凄惨な光景をみて肝をつぶしましたが、その中の家令が事の重大さを察して大警視川路利良に急報し、川路はすぐさま黒田邸にかけつけました。

かけつけた川路大警視は同じ薩摩閥の要人の窮境を救うために、清隆を慰撫すると融通のきく医者に病死の診断をさせ、また家人には厳重な緘口令をしき、清隆自身のアリバイ工作までして事件のもみ消しを図ったそうです。しかし、人の口に戸は立てられず、数日後には広く世間に噂されるようになってしまい顕官の横暴だと黒田批判が強まります。

この時思いがけない助けが入った。三田慶応義塾が発行する新聞「民間雑誌」明治11年4月4日号で、文中では匿名の一医生として福沢諭吉が「婦人養生の事」と題する記事を発表し内容は、日本の婦女子は屋外で活動する機会が少ないため身体の虚弱を招くと言う物で、さらに文中では、黒田夫人もこれが元で病死に至ったと断定し、更に事件当日急行した麻布の医師杉田玄端の子息である武氏の所見まで掲載しています。何故これほどまでして福沢諭吉黒田清隆をかばったのかについては、確かな理由があったようです。

明治3年函館で榎本武揚が降伏した折、清隆は頭を丸めてまでして榎本の助命を嘆願しました。これは一般的には、榎本武揚率いる旧幕府軍の立て籠もる五稜郭を攻撃した際、榎本は日本の将来の為に黒田に「海律全書」を送り、この貴重な書物の紛失を避けたことで黒田は恩義を感じていたとされています。この返礼に黒田は、榎本に清酒5樽、鮪5本を送ったそうで、その時の使者であった箱館病院長であり適塾では福沢諭吉と同門であった高松凌雲の仲介により榎本は降伏し、五稜郭は開城されます。その後、黒田と榎本は厚い友情に結ばれた為とされますが、現実にはその裏に福沢諭吉から黒田清隆への強い嘆願があったためとされています。つまり榎本助命で清隆から受けた「借り」を福沢諭吉はこの件で返そうとしたと言う見方も出来ます。

しかし福沢の援護もむなしく、世評は相変わらず黒田批判一色でした。そしてそれまで言論統制によって沈黙を強いられていた新聞各紙を他所に風刺雑誌の「団団珍聞」4月13日号がポンチ絵で事件を風刺しました。政府はすぐにこの雑誌を発禁処分としますが、もはや世間では清隆の妻殺害は定説となってしまいました。

最後にこの薩摩閥の巨魁を救ったのはやはり川路大警視であったそうです。川路は世間の定説を無視出来なくなり、遂に青山に眠る黒田夫人の墓を発掘し、棺の蓋を少しだけ開けると「これは、病死である。」と断言してまた元どおりに埋めてしまいました。これにより世間の風評も収まり事件は解決しました。そして世間の目を逸らすように警察は府内で大々的に野鳥の捕獲に乗り出し、事件を一層遠い物としました。

しかし、それから2週間後の明治11年5月14日、紀尾井坂で大久保利通が暗殺されるという大事件が起こります。そして犯行後に自首してきた犯人達が持っていた斬奸状には、黒田清隆の妻殺しの一件が大久保利通断罪の一事由として掲げられていたそうです。


下記は「痛快無比ニッポン超人図鑑」前坂俊之 新人物文庫(2010年)による。

大蔵大臣の酒スキャンダルでは、昭和二十三年(一九四八)十二月、吉田首相時代に「トラ大臣」と異名をとった泉山千六蔵相が、酔っ払って国会内をふらふらと千鳥足で一升瓶を持って歩き回って、女性議員に抱きつきキスをしたセクハラ事件を起こしてクビになった。明治政府のスキャンダルでは、もっとでかい事件がある。
明治二十一年(1888)に第二代首相になった黒田清隆は『少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士を招いた北海道開拓使長官を務め、また参議でもあった。
その黒田の酒乱ぶりは有名で、明治十年、親友の西郷隆盛が非業の霧を遂げて以来、特に酒量が増えた。その黒田が酒にのまれて妻殺し(?)のスキャンダルを起こしたのは、開拓便長官時代のこと。
黒田は酒が入ると、突然人が変わったように乱暴狼籍をはたらき、からんだり、どなったり、刀をふり回すくせがあった。毎晩のように飲み歩いて、帰って来ない。
新橋あたりに何人もなじみの芸者があって、入りぴたりで酒と女に狂っていた。
夫人は旧幕府旗本の中山勝重の娘お清で、十五歳で黒田家に嫁いできたが、病弱で二人の子供は夭折した。二十歳のお清はこの時、三人目を妊娠中でお腹が大きくなっていた。このため、黒田の遊びは一層激しくなっていた。
事件が起きたのは明治11年三月二十八日。東京・芝神明の待合から泥酔して麻布の自宅に帰った黒田は、夫人がすぐに出迎えなかったことや、嫉妬がましいことをいったとかで癇癪をおこし、いきなり床の間にあった日本刀を抜いて夫人を斬り殺した、というウワサが流れた。
この夜、周辺の人々から女性の悲鳴を聞いた、血染めの着物が焼き捨てられた、などのうわさが大きくなった。「蹴り殺した」とも巷間伝えられたが、この一件は闇から間へ葬りされようとした。政府はこの事件の新聞掲載を禁止したが、官武外骨の『団団珍聞』や各新聞が黒田とは特定しなかったものの、「某参議の家庭素乱」、「国法ついに大臣に及ばず」と書き立てた。
政府も黙殺できず、大臣会議を開いて協議して、最も親しい友人の大久保利通が責任をもって処置すると言明した。
指示された川路大警視は「病死か変死かは、遺体を検分すればわかる」と翌日墓地に行き、夫人の墓からお棺を掘り出して、死体をさっと検分し「皆よくみろ、他殺の形跡はないではないか」と、すぐに元の通りに埋めめ戻してしまった。
この二ヵ月後に大久保は暗殺されたが、その斬好状にはこの事件をもみ消した点もあげられていた。
また、別の証言もある。千坂高雅の証言で、明治四十三年十月十九日の『報知新聞』に掲載された。
「おれの娘が、お清の妹と親友で、その晩に泣き込んで来た。黒田が女房を殺したという。すぐ黒田邸へかけつけると、蹴殺したものには間違いがない。黒田の帰ったのを見てお清がうるさく云うから、黒田は酒気に任して何だと怒鳴ったかと思うと、ドタンパタンと音がして、女房はキヤーと言って倒れた。起こして見ると、血を吐いて死んでいた。おれが行って見ると、黒田は真っ青になっていて、女房は蒲団の上で血を吐いて死んでいる。
医者を呼んで吐血して死んだという鑑定にさして診断書も書かした。そして、すぐそれを埋葬してしまった。大久保内務卿はその時留守であったが、騒ぎを開いて帰ってきた」
「内閣会議を岩倉具視公の屋敷で開いた。議長は三条(実美)公さ。伊藤(博文)も死骸を発掘して真相を糾せという。司法卿・大木喬任は発掘すると政府の威信に関するという。大久保はただ黙っている。最後に、ようやくロを開いて、『世間では大変やかましいそうだが、女房を殺した形跡はない、どういう証拠からお調べなさる。私は全然、不同意である。黒田とは同郷で親友ですから、自分の身に引き受けて、保証いたします。大久保をお信じ下さるなら黒田をもお信じくだれ』と、ピーンと一言やった。
猛り立っていた参議連中も、この一言で黙ってしまった。議論屋の伊藤もすっかり黙ってしまった。三条公は『内務卿のお言葉に御疑惑はありませんか』と言われたが、『皆が疑惑はありません』と頭を下げた。自然と世の中の議論が鎮圧されてしまった」(佐々木克編『大久保利通講談社学術文庫、65−69P)
この黒田清隆夫人の死に関する話は、『報知新聞』に十月二十七日掲載された大久保利通の連載「十四人を知るの明」の記事のあとで、「記者の筆記に誤りがあった」という理由で、全部取り消されている。

黒田清隆夫人(殺害)事件の証言――佐々木克大久保利通』、講談社学術文庫、2004年

初出は『報知新聞』の記者・松原致遠が『報知新聞』紙上に、一九一〇(明治四十三)年十月一日から、翌年一月十二日から三月二十五日の中断を挟んで、三月二十六日から再開、四月十七日まで掲載した全九十六回にわたるものである。その後、新潮社から一九一二(明治四十五)年に松原致遠編『大久保利通』が出たが、新聞紙上の内容と一部異なり、また十五日分の談話が削除されていたという。それから本書は稀本とされたが、大久保没後百年を記念して鹿児島県から復刻され、削除されたものから十一日分を補遺として加えた。で、本書は残り分も掲載したいわば完全版として出版された。そのため、「松原致遠編」ではなく、「佐々木克監修」となってるようだ。

本書は、大久保利通を巡る家族や部下、同僚らのインタビュー集である。子煩悩でニコニコして煙草と漬物が大好きという大久保、威厳に満ちて無口でニコリともしない大久保、議論好きでざっくばらんな木戸孝允とは異なり、「それだけか」「もっと良い考えはないか」、「それでよし」と決断力・判断力に富んで下僚から恐れられながらも信頼された大久保(このため、木戸は自分たちの意見をそのまま取り入れてくれないと不満を持たれて孤立する)、ハゲ隠しに余念がなく隠しきらないと人には会わない大久保など、さまざまな人々による維新の指導者の側面のエピソード集である(Wikipedia大久保利通の項の注のないエピソードはほとんど本書からとられている)。

そのような中で歴史ファンとして面白みを感じる部分は、征韓論を巡る周囲の解釈もあるだが、やはり黒田清隆夫人(殺害)事件の二つの証言だろう。

まず第一は千坂高雅のもの。千坂は、元米沢藩家老で、戊辰戦争時に奥羽列藩同盟軍の米沢藩総督となり、廃藩置県後、養蚕製糸調査のため英・伊に留学、帰国後は内務省に出仕して大久保内務卿の側近として仕えた。その後、石川、岡山の県令を歴任して、貴族院議員となった。

その千坂によれば、千坂の娘は黒田の妻の妹と友人で、互いの家に行き来があった。事件当日の夜半、黒田の妻の妹が千坂の家にやってきて「黒田が女房を殺した」といった、という。その妹から千坂が聞いた話によると、黒田はヒドイ放蕩家で、妻が身重になったことでその遊びも烈しくなった。事件の晩、黒田が帰ってきて寝ていたところを妻がうるさく言う。黒田は叱りつけたが、それでも止まらない。そこで黒田は酒気に任せて「何だと怒鳴ったかと思うと、ドタンバタンと音がして、女房はキャッと言って倒れた」。黒田が起こしてみると、血を吐いて死んでいた、ということらしい。そこで千坂が黒田邸に駆けつけると、黒田は真っ青になっていて、妻は布団の上で血を吐いて死んでいる。千坂によれば「まったく蹴殺したものには間違いがない」。それから吉井友実ら友人がかけつけ、とにかく始末をしなければならないというので、医者を呼んで吐血して死んだという鑑定にさして診断書も書かせて、すぐにそれを埋葬してしまった。大久保はその時留守であったが、騒ぎを聞いて帰ってきた(六十五〜六十七頁)。

事件当時の話は、以上のとおりで、後は岩倉具視邸での参議たちの会議で伊藤博文らが墓を暴いてたしかめろ、と主張して黒田を非難したが、大久保が黒田を信じると「ビーンと一言やった」ために皆が黙って議論が鎮圧された、というもの。

一般によく聞かれるのは、「斬殺」であり、「蹴殺」ではない。そこが千坂証言の面白いところである。後に川路利良が墓を掘りおこして確認して、問題なしと言明したことでこの事件は解決したという。「斬殺」なら見た目で分かるから、というものだが、蹴り殺したなら一概には分からないだろう。一九一〇(明治四十三)年十月十九日という時点での証言としては面白い面があると思われる。

しかし、この証言は記者によって同年十月二十七日の記事で、筆記に誤りがあったという理由で全て取り消されている。これは後に述べる小牧昌業証言との食い違い、また「筆記の誤り」という理由があるが、千坂証言自体に少々怪しいところがある。

まず小牧証言から。小牧は薩摩藩出身。開拓使書記官長、内閣書記官長、奈良県知事、帝国博物館館長などを歴任し、貴族院議員となった。

小牧によれば、黒田夫人の死因は肺病であり、急に悪くなって血を吐いて死んだ。西南戦争中の九月上旬に黒田から夫人が肺病だと医者からいわれて困ったという話を聞いたから、明治十一年三月に亡くなったので少なくとも七ヶ月患っていたことになる。主治医は戸塚文海で、死ぬ少し前から始終床にいたらしく、開拓使書記官長であった小牧は公務で何度も黒田邸を訪ねたが、いつも妻君がお茶などを出してくれていたのが、死ぬ少し前から姿を見せなくなっていた。当日は開拓使の出張所に九時頃、夫人の死が知らされ、小牧が悔みに向かうと戸塚文海と入れ違いだった。戸塚は「こう急とは思わなかった」といっていたが、小牧は朝に死んだと聞いており、夜半に蹴殺すということはなかっただろうという。また、妊娠していたという話も数年前に流産したことの記憶違いであろうとし、この事件は急死であったため、出入りの者が二、三日前まで普通にいたのに喀血して死ぬわけがないと想像したくらいに始まったであろう。また大久保はちゃんと調べさせて、証拠を示して弁護したのだから、黒田をかばって「曲庇」したようなことはない、という。(八十〜二頁)。

現在では、この説が普通に受け取られて、黒田の「容疑」をことさら追求されることはないだろう。

では、千坂証言は何なのだろうか。「斬殺」というところを「蹴殺」としたところが面白く、また近親者から証言を聞いていち早く駆けつけたという点で小牧よりも近い情報を得ている。しかし、夫人の妹はどうやら「蹴殺」したところをみたわけではなく、怒鳴ったら「ドタンバタン」と音がして夫人が血を吐いて死んでいたようだ。その辺の「真相」は曖昧だが、この千坂という人物にはかなり問題があるようだ。

本書においても千坂はかなり怪しい。この事件に関する証言の前に大久保がお気に入りの役人が賄賂を受け取っていたことを知るとすぐに免職したという話がある(六十二〜三頁)。この記事では、その人物は「松田道之」としている。しかし、後日、同様に大久保の下僚であった前島密によって「伊地知貞馨」であると訂正される。もっとも、これは前島が千坂に確認して記者が聴き間違えたんだろう、といっていたといい、記者は自分の聞き間違いを認めた。千坂のこの証言は、大久保の非藩閥人事を褒めるところで、松田は鳥取出身と出身地まで述べている。ちなみに伊地知は薩摩藩出身である。本当に記者の聞き間違いか怪しい。

また千坂といえば、後年への影響でいえば自身の先祖・千坂高房が赤穂事件に関わったと広言し、これが小説に使われて、重要な役回りを演じているが、実は事件の前に高房は死んでいた。吉良を助けにいこうとする上杉綱憲を制止する千坂兵部はいなかったらしい。このように千坂はかなり危なっかしい、もしくはサービス精神の旺盛な人物であったらしい。おそらく松田の件と黒田事件の二件が後で間違いを指摘されるという事態に記者は千坂はあまり信用できないと考えたのではなかろうか。

黒田事件は大久保利通への斬奸状の各論部分で「黒田清隆、酔酊の余り、暴怒に乗じ、其妻を殴殺す」とあったとされ、大久保暗殺の一つの理由として挙げられることがある。しかし、これは明治四十三年の『自由党史』に引用されている斬奸状である。岩波文庫の凡例によれば、この黒田事件に関する個所(上巻、二三七頁)は元の史料にはなく、『自由党史』にある字句の部分にあたる。つまり元史料の「法律を私する」の上にその例として、黒田事件を『自由党史』編纂者が加えたか、史料が流布している間に誰かが書き加えたものを編纂者が採用したのかもしれない。ということは自由党の側では重要事件であったかもしれないが、大久保殺害の島田一良らがそれを重視していたかは微妙なところ、といったところか。

この『自由党史』と千坂証言の面白さは、前者が「殴殺」、後者が「蹴殺」という様に、「斬殺」ではない、ということ。川路大警視が墓を掘り返して確認したといっても真相はわかるものではない、と言外に主張しているところである。

この「真相」は多分分からないままだろう。しかし、黒田というと後に明治十四年の政変の引き金となった官有物払い下げ事件の主要人物で、ずいぶんとワキの甘さでメディアに可愛がられた人物である。また酔っ払って北海道の漁民を撃ち殺したり、明治天皇に「甚ダ可厭」(『保古飛呂比』明治十四年十月二十日)と評されたり、二度目の妻に姦通されたり(これはホントかどうか未確認)と散々であった。鋭かった明治ゼロ年代の黒田は、この事件以降はいなくなり、三宅雪嶺曰く後半生は「無用」とされるような、それを暗示させる事件ではあった。