虚像と実像の間

民衆には不思議な気まぐれがある!歴史家の手からでなく、詩人の手から自分の歴史を受取りたいと言うのだ。むきだしの諸事実の忠実な報告ではなく、本源的な詩――そこから諸事実が生じた――の中にふたたび溶かされた諸事実を浴するのだ。*1

歴史の虚像もまた、歴史的所産には違いない。人々はいぜん虚像に執着する。実像本位に歴史を語ってもなかなか一般は、そこから歴史を受け入れてくれない。そもそも日本の歴史は虚像にみちている。人々は虚像を信じ、それを実像としてたいせつに守っていきたいという声もあるが、それではいつまでたってもその虚像の中にあり、世の中の実像がわからずじまいになる。現在も新たなる虚像を送り出され続けられている。戦前では、一口で言えばお上に欺かれていたというような、いかにも下々の身にふさわしい言い草を軽々しく口にするまえに、まず自ら虚像を信じただらしなさを思うべきで、虚像を生んだ現実と、虚像のもつ意味とをはっきり分けた理解を持ちたいものです。

*1:ルカーチ 歴史小説の古典的形式