征韓論

「旧来の陋習を破り」と開国を宣言した五カ条の御誓文の発布と同時に「万里の波擣を開拓し、国威を四方に宣布せん」という明治天皇詔勅も発表され、明治新政府の海外拡張方針が叙述に表している

幕府の危機の深刻化につれて、勝海舟などが反幕の空気を外に転ずるために計画しており、当事の桂小五郎すなわち新政府の木戸孝允も一枚加っていた。木戸は内乱が終って間もなく1868年12月に、士族たちの反政府熱をそらすために朝鮮侵略の計画を軍務官の大村益次郎らと協議していた。
彼の日記12月14日の条には「今朝かねて志す所の征韓の一条を大村益次郎を相計る。征と雖もみだりに征するにあらず、宇内の条理を推さんと欲するなり」という。この宇内の条理とは、朝鮮の鎖国を改めて開国させるということです。彼が大村にあてた手紙には、「ひとえに朝廷の力えを以って主として兵力を以って釜山の境を開かせられたく、これ元により金銀物産の利益は之有まじく、却て御損失とは存候えども、皇国の大方向を立て臆万の目を内外に一変し、海陸の諸技芸をして着実に走らしめる」のだといい、またその実行は干戈を交え候ときは必ず急迫に致さず凡そ年々の入費を定め、一地歩を占め候上とくと後来の掠了をたて、其力の続くべきものを以て倦怠なく尽力」する長期の侵略戦を考えている。三条・岩倉・木村・大木喬任・後藤象次郎ら当事在朝連と征韓の謀議にふけった。(木戸幸一の日記・伯爵後藤象次郎)
征韓論、つまり朝鮮を征するという議論は幕末において、欧米列強に対抗する外交政策として吉田松陰、橋本佐内、勝海舟らによって盛んに唱えられたのだ。幕末の勤皇の志士の攘夷思想を開国に切り替えたのは、日本を開国により軍事的国家を作る欧米列強に行われたものを同じように海外に日本も進出して国威を世界に示そうとしたのである。