当時の様子を事件に関与していなかった内田定槌領事の証言から伺い知ることができるので、現代文で全文を再現してみます。

昭和14年1月、内田定槌氏述

在勤各地における主要事件の回顧

在職中、私の経験した事柄で、世間に余り知られず、又後世に歴史として残されないようなことがあるので、それ等について若干追憶を語って見ようと思う。

 私は明治22年に外務省に奉職し、翌二十三年には副領事として上海在勤を命ぜられた。当時は上海も未だ日本人の発展する地とはならず邦人商店の如きも僅に五指を屈するに過ぎなかつた。

 明治二十六年、領事として京城在勤を命ぜられ、同地在勤中日清戦争が起つたが、戦争終結後、いわゆる王妃殺害事件なるものが勃発した。

  一、京城在勤当時
      王妃殺害事件

 日本は朝鮮の内政改革が、まず第一に、解決・処理しなければならないほど大切なことと思い大鳥公使をして朝鮮政府に勧告せしめたが、同国政府は容易にそれを実行しょうとしない。それは当時勢力をほしいままにしていおった閔氏一派が内部から妨げておつたからであるが、他の大臣は大鳥公使の勧告を受け容れても、閔氏出身の大臣がどうしても承知しない。其の上、日清戦争前荒れ狂うっていた東学覚が地方では末だ勢いをたけましうしておつたりして、朝鮮の内政改革は到底日本の思う通りに行はれず、大鳥公使も大いに弱つていた。
ところが日本内地では、朝鮮の内政改革の行はれないのは、政府の方針が悪いからだと政府を攻撃し、大鳥公使をも非難する声があがって来た。時の外務大臣陸奥氏は大変憂いて、これはどうしても日本から第一流の人物を公使として朝鮮に送らなければならぬと云うことになり、内務大臣井上馨(当時伯爵)を特命全権公使として大鳥公使に替わらしめた。
 井上公使が着任して色々事情を研究した結果、朝鮮の政治は総て王妃が中心になって行はれて居るから王妃を抱込まなければならぬ、王妃が日本に味方をするようになれば自然内政改革も行はれるようになるだろうと云う考えから王妃の御機嫌を取ることに努め朴泳孝等の日本党を重用して改革を行はしめようとしたが矢張りうまく行かず、三浦子爵と替った。

私はそのころ領事館に住んでいたが、ある朝(事件の当日「筆者」)けたたましい銃声に破られた。窓を開けると未だ夜は明けきらぬ館内は警察署があったので「何事が起こったのか」と巡査に尋ねたが、「知らぬ」と言う。そこで、萩原警部を起こしに言ったが、その部屋にはいなかった。厩舎に行くと私の馬が見えないので、巡査に尋ねと、警部が乗って行きましたと言う。そのうちに銃声がやんだ。

近くに新納少佐という海軍の公使館付武官が居たので、そこへ行って尋ねてみたが、なんのことか和からぬと言う。また当時の外交官補日置益君も近くにいたが、やはり、ちっとも知らぬと言う。

そうしていると、血刀を掲げた連中が帰って来て新納少佐のところへ報告に行った。私もそこに行って話しを聞いたが、その連中は昨夜王城に侵入して王妃を殺したのだと言う。
どうして行ったのかと尋ねると、最初は大院君(国王の父で王妃とは犬猿の間柄であつた人)が朝鮮人を率いて王城に侵入し王妃を殺すはずだった。それについては前から種々策謀があった。例の岡本柳之助氏が参謀で大院君を引き出すのが一番よろしかろうということで、岡本が大院君に勧めに行った。このとき一緒に勧めに行ったのが領事官補の堀口九万一君。同君は朝鮮語が出来ないけれども漢文に通じ文章が達者なので筆談をした。その結果、大院君もそれでは君側の奸を倒すために起きたると承諾した。

最初の計画では夜半に日本の兵隊と警察官が大院君を先頭に立て、王城に入り朝鮮人が王妃を殺害する手はずであったが、いよいよ今夜決行すると言う時になって大院君が躊躇し出した。京城郊外の大院君の邸へ岡本や堀口が夜中に行って促そうとしたが、大院君は出てこなかかった。

ぐずぐずしていると、夜が明け始めたので、多勢の日本人の壮士なども一緒になって無理やりに大院君を引き出し真っ先に守り立てて王城に向かった。王城侵入のさいの護衛兵が発砲して抵抗したけれども日本兵がこれを追い払い場内に入った。


ところが王妃の室には宮女が沢山居るので、どれが王妃力分らない。それと云うのは王妃は決して外国人二顔を見せなかつた。だから日本人で王妃の顔を知っている者は一人も居なかった。けれども或る日本人はその場から逃げ出すある一人の婦人を他の女達が頻りに庇護する様子を見てそれが王妃二相違ないと断定し之を殺害した。その死骸は王城庭内の井戸へ投じたが、それでは直ぐ罪跡を発見されると気が付いたので、又それを引上げて王城内の松原で石油を掛けて焼いた。それでも未だ気がかりなので今度は池の中へ放り込んだが、なかなか沈まないので又其翌日かに地力ら取出して松原の中に埋めた。

そいう死骸の後始末については関係人から後で聞いたのだが、とにかく私は非常に困った。
公使に会って話し聞けばすべて分かるだろうと思って公使館へ出かけたが、公使は、一寸待ってくれと言うことで、すぐには合わない。公使は二階に居り、私は下の待合室で待っていると、二階でしきりに鐘の音がする。妙なことだと思っていると、20分ばからして二階へ通された。

すると公使は床の間に不動明王の像を飾ざして灯明を上げて拝んでいる。そこで私は「大変な騒ぎになりましたね」と言うと、公使は「いやこれで朝鮮もいよいよ日本のものになった。もう安心だ」と言う。それで私は「しかし、これは大変なことです。日本人が血刀を掲げて白昼公然と京城の街を歩っているのを朝鮮人はもとより外国人も見たに相違ないから日本人がこの事変に関係したことは隠すことは出来ません。日本の兵隊や警察官、公使館員、領事館員がこれに関係したことはどうにか隠したいと思うが、それについてはどういう方法を講じたら宜しいので」と言ったが、公使は「俺も今それを考えていたのだ」と言われた。

公使と話しているうちに、露国公使が血眼になってやって来たので私は席を外したが、露国公使が帰ったから再び二階に上がってみると、公使は非常にしょれてしまっている。そこで私は、日本人が関係したことだけは何としても隠蔽しなければなるまいと繰返し言って公使と別れたが、さてそれからどうしたら考えがつかぬ。

外務省へ知らせようと思っても電信は公使館の命令で差止められてしまっている。公使館以外の者は一切電報を打つことを指し止められてしまったので私ももちろん電信を出すことはできない。後で聞けば「昨夜王城に変あり王妃行衛を知らず」という電報を公使館から外務省に送ったそうだが、それきり止めてしまったので私はどうすることも出来なかった。

そのなかに堀口君や警部が帰って来たので堀口君に「君は大変なことをやったが、後はどうするつもりか、僕にはこの後始末はできない」と言ったら、何も答へないで黙っている。彼のもやはりどうしてよろしいか分からないのだ。そこで私は「僕の考えではこれはどうしても日本政府に始末を任すより他はない。しかし、それは日本の外務省が事実をよく知らねばならぬところが、外務省から何を言っても公使館からは返事もやらないような状態では外務省でも真相を掴み得まい。君は最初から事件の真相を知っているようだから、すっかりその始末を書きて本省に報告してくれ」といった。すると堀口君は達筆なので直ぐ長い報告書を書いて、特使であったか郵便であったかは、はっきり記憶しないが、とにかく本省に送った。

 是より先き、井上公使は熱心二朝鮮の内政改革をやる積りであったがうまく行かず業を煮して帰つたのだが、日本へ帰つてから時の内閣に朝鮮改革の必要を力説した。
是から朝鮮は日本が育て、やらなければならぬ、内政改革なども.日本の力でやらなければならぬ、朝鮮を戦場として日清両国が戦つたのだが、朝鮮はそれが為に非常に迷惑して居るのだから其の補償もしてやらなければならぬ。料亭で喧嘩をして襖を破ったり器物を壊せば幾らか弁償もしなければならぬのと同じやうに、朝鮮にも相当の金をやらなくてはならすと言つて、何百万円かの金額を明示して政府にそれを支出させる積りでその話をして居る間に、その話をしている間に、突然昨夜王城に変ありうんぬんの電報が来たのだ。しかしそれから引き続き詳報を何も送らなかったので、本省では顛末が分からなかったが、堀口君の報告書が行って初めて驚いてしまったらしい。それでその前後を講ずるために小林政務局長が朝鮮に主張を命じられたのだ。

私も申し訳ないから進退伺いを出そうと思うと小林局長に話したら、君は何も関係ないからそんなことをする必要はないというような訳で出さなかった。小林局長の考えでは、この事件は京城では処分できないから日本で処分するより他ないということになり、関係者は皆日本へ帰すことになった。公使館員も軍人も関係した者はみな召還し、民間人は在留禁止、退韓を命ずることになったが、その命令を出すのは領事たる私のが言いつかった。
そのときの在留禁止を命じたのは47人あったと思うが、それなどの人間をいちいち呼び出して命令を渡した。ところが皆大いに喜んでいた。

特に岡本柳之介などは、私はそのようなことをしたからどんな処分を受けるも仕方がないのに、在留禁止で済めば非常に有難いと言って喜び、その他の壮士らも有難く在留禁止命令を御受けした。安達謙蔵氏なども、やはりこの壮士らの首領株だったが、それなどの連中はみな公使館の人々、陸軍軍人などと一緒に京城を立って仁川から船に乗った。

船の名前は忘れたが、みな大にして手柄を立てて、勲章でも貰えるつもりだったような喜び勇んで内地へ向かった。ところが宇品へ着くや、皆縛られて牢に入れられ、広島地方裁判所で裁判をうけることになった。

広島で王妃殺害事件の公判が進行している間に、朝鮮国王は王宮を脱出して露国公使館に逃げ込んだ。それは露国公使館員が朝鮮宮内官と通謀してやった仕事であった。それからまた「アメリカ」の宣教師と朝鮮人が一緒になって日本党の人々を暗殺する陰謀を企てたが、それは朝鮮政府の当局で皆犯人を逮捕し処分してしまった。そういう事件が次から次に起こったので日本の方でも、露国人や米国人がそんな陰謀を企てる空気中においては日本人の犯罪に限り厳重に検挙する政策を執る必要はないというような議論が起こってきた。

それはまた一方、朝鮮当局のほうでも王妃殺害事件の審理をとげたるところ王妃殺害は朝鮮人のなんとかが決定し死刑に処せられたから、日本の裁判が本件を審理する必要はないという理由で被告人は一同無罪放免に決定した。しかし、当時、私は非常に苦しい立場にあった。それというのは、領事たる私は広島地方裁判所の嘱託により予審判事の職を勤めなければならなかった。本件の関係者は公使館員はじめ壮士の連中もみな私を知っている人々で、それなどの人々の犯行をいちいち調査しなければならぬのには、私も大変困った。

しかし領事館巡査の中で一番朝鮮語が上手で最初から事件に関係しておった渡辺鷹次朗巡査だけは内地へ帰さなかったので、広島裁判の依頼によって取調をするときには、その巡査に命じ王城内の実地を調べさせて報告もある。

要するに、表面は朝鮮人が王妃を殺したことになっているけれども、実際は右に述べたような次第であった。


以上なことであるが、事件を第三者の立場で見ることができた当時の内田定槌領事が当時の様子を語ったものが、だいたいの、この王妃虐殺事件の大筋であろうと思う。なお此の資料の形式から見ると署内資料として印刷にふされたものであり、当然公刊されることは考慮されていない。