満州は中国ではない論

明治37年から次の年にかけて、日本とロシアとが戦った戦争は、朝鮮半島と満州の支配をめぐるあらそいでした。1904年2月に日本海軍が旅順港のロシア艦隊を攻撃して戦争がはじまり、大勢の死傷者を出しながら旅順を占領します。日本は日本海の海戦でロ…

日露戦争後の中国の行政区分について説明すると、大体次のようになる。内蒙古三省、東北四省、華北六省、華中六省、華南六省、西辺三省です。中国では奉天・吉林・黒龍江三省を東北三省または東三省と呼び、日本側はこの地区を満州と呼んでいたのです。この…

c5525jpさん>>協定を締結したこと自体、元来外国だった証明だと私は主張しているのです。では、当時の国の概念とは人が思う故郷ではなく、国同士がその政府において、お互い認め合ってこそ、成り立つのではなでしょうか。 清朝の軍(北洋新軍)の全権が与…

さて、当時(昭和6年)中国の交渉の際、日本政府は満州についても「中国領土保全」のとりきめを守る立場を表明しています。昭和6年9月29日、在京中華民国公使が外務省に、満州における新政権問題にかんして、 「我国東三省地方に独立政府建設を企画する趣…

c5525jpさん> 歴史によって予め決定されているロシアの植民地としての朝鮮観は、フランスによって支持されていた。戦争直前の1903年に「日本の政治的経済的並びに社会的生活の諸現象」の研究に三年間を捧げたデュモラール教授は、ロシアによる朝鮮の奪…

自民党の歴史検討委員会の「大東亜戦争の総括」で「満州は中国のものではないと思う」議論がなされました。この論はかって「満蒙解決」論議のなかであったことは事実ですが、もちろんそれは「満州」支配を正当化するための議論で、「大東亜戦争の総括」が国…

c5525jpさん>ごちゃごちゃ言わんで、早いとこ満州と中国が一体だったという証明をしてくれよ。 1906年5月23日元老閣僚会議で伊藤博文は「満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である」はっきりと述べているよ。また、1915年1月…

c5525jpさん>して、国民党の指導者はそれを知らなかったと?国民党の指導者はそれを知らずに、満州と中国は別、だから革命が必要だと論じたと?国民党の指導者より貴殿は支那の歴史に詳しいと?国民党の指導者はそれを知らずに、満州と中国は別、だから革命…

c4416jpさん> 唐紹儀はまた大胆な、歯に衣をきせない独特な語り口で、目下さかんに取沙汰されている噂にふれ、新しい同盟は、清室にたいする変則的行為が無効であることを明らかにし、優待条件による諸特権の回復を保証するよう主張した。彼はまたこの提案…

c4416jpさん>満州は、1911年締結の清帝退位協定が遵守されている間は中国と一体とみなすべきでしょうが、1924年に支那側が一方的にこの協定を蹂躙しておりますので中国の領土ではありません。 この協定を蹂躙した結果、蒙古の王族は支那から離反しま…