明治37年から次の年にかけて、日本とロシアとが戦った戦争は、朝鮮半島満州の支配をめぐるあらそいでした。1904年2月に日本海軍が旅順港のロシア艦隊を攻撃して戦争がはじまり、大勢の死傷者を出しながら旅順を占領します。日本は日本海の海戦でロシアの艦隊をやぶるなど、戦いを有利に進めますが、戦いがはげしくなるにつれて日本、ロシアともに戦争を続ける国力がなくなっていきます。またロシアでは1905年1月に革命がおこって戦争を続けることができなくなり、両国はアメリカとフランスのすすめで停戦、講和会議を開きます。この講和条約によって露国から譲渡されたもの、すなわち遼東半島租借地と鉄道以外には、何もなかった。そこで、国内では、この講和の条件が不満だとして大きな反対運動がおこりました。満州は純然たる清国領土の一部であって決して我が国の属国ではなかったのですが、石炭や鉄などの重工業の原料が豊富にとれる上、日本で生産された綿糸や綿布を輸出する大切な市場となったため、日露戦争の後、日本はたくさんの資本をつぎこみました。

また、ロシアも清国滅亡のときに外蒙古を独立させ、1907年日露両国は秘密協定を結び、満州・朝鮮・外蒙古におけるそれぞれの勢力範囲、利益範囲を相互に承認して、中国の領土である満州に勝手に分割線を引き、北満州南満州に分け、南満州を日本の利益範囲とした。

日露は1912年に満州における現状が他国に脅かされた場合両国は必要な手段を取るというさらなる秘密協約を結んでお互い確認し合ったのです。

さらに
辛亥革命が起こると、1912年、日露間で秘密協定を結び、中国の辺境地方をそれぞれの特殊権益範囲に分割し、内蒙古の西半分をロシアに、東半分を日本のものにするとともに、お互いの特殊権益についてけしてジャマしないことを相互に約束した。

これ以後、日本は内蒙古南満州をつなぐ地域を満蒙と称し、満蒙を日本の利益範囲としたのです。

日本はそうした権利や利益を守るために満州を植民地にしようと、満州事変を起こしたのです。