日露戦争後の中国の行政区分について説明すると、大体次のようになる。

内蒙古三省、東北四省、華北六省、華中六省、華南六省、西辺三省です。

中国では奉天吉林黒龍江三省を東北三省または東三省と呼び、日本側はこの地区を満州と呼んでいたのです。この東三省に熱河とチヤハルを加えて東北五省と呼んだ。後の満州事変で日本は東北四省(奉天吉林黒龍江・熱河)と内蒙古の東部を満州として独立させた。

なお、清国時代の「奉天省奉天」は、中華民国になって「遼寧省瀋陽」と変わり、満州国になると「奉天省奉天」になった。


清朝瀋陽東方にいた女直族を統一して建国した後金にはじまり、その子ホンタイジンが内蒙古支配下において、国号を大清に女直を満州に改めた。これをついだ順治帝が明の将軍たちと連合して、関内に入り、明朝を倒して北京を首都とした。(1644年)満州はもともと女直族の居住する地域で、11〜14世紀ごろの元代から明初までは三つの大部族集団にわかれていた。
明は巧妙な分離政策でこれらの集団を小部族に分裂させ、それぞれ衛、所をおいて、その部酋には都督、指揮使などの名義だけの官職をさずけ、それに応じて賜与や貿易上の特典をあたえた。
もともと明末から満州南部には漢人の農業移民がかなり進出していたが、この措置は中国内地における人口増加の圧力とあいまって、漢人満州移民を急速に増加させた。
その結果、清朝の故郷である満州の地で漢人勢力がまし、旗地の存続もあやしくなりそうな雲ゆきとなったので、
政府は種六の制限をもうけ、ことに一八世紀なかばになると、漢人の移住をゆるさないで、いわゆる満州の封禁をおこなった。
しかし封禁政策もあまり効果をあげず、漢人山東半島から海をこえて、満州満州へとわたっていった。
元朝は中国の支配をつづけることができなくなると、故郷であるモンゴリアヘのがれたが、清朝がたおれたとき、満州へかえれなかったのは、ひとつには満州がもはや実質上満州人のものでなかったからである。


清朝時代、日清戦争が勃発し、清は敗北し帝政ロシアは三国干渉によって、満州(東三省)と蒙古に進出した。

清朝は祖先の地である満州漢人の入植を禁じる封禁政策をとったが、だが、ロシアの南下政策が顕著になってきた1860年に全面解禁し、山東省などから多数の漢族が入植した。