c5525jpさん>ごちゃごちゃ言わんで、早いとこ満州と中国が一体だったという証明をしてくれよ。


1906年5月23日元老閣僚会議で伊藤博文

満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である」

はっきりと述べているよ。

また、1915年1月18日,日本は21カ条を提示し、中国に対し満州・東部内蒙古において日本に特殊の権益を与えることに同意を武力で強制している。満州が中国でなければそんなことはしないからね!

しかし、日本の敵国はドイツであって中国ではないし、中国と日本は交戦して敗戦したわけじゃないのに中国にたいして21カ条を暴力で要求するとは、まさに火事場泥棒的根性で不遜きわまる態度だね。

そして、日中関係はしだいに険悪化したたが、石炭や鉄などの重工業の原料が豊富にとれる上、日本で生産された綿糸や綿布を輸出する大切な市場となったため、日本はたくさんの資本をつぎこみました。

日本はそうした権利や利益を守るために満州を日本の支配下に置いたのです。国内では5.15事件が起こり、犬養首相が殺害された。農村の惨状を政界の堕落によるものと喝破した青年将校たちの決起である。

しかし、政・財界の腐敗はつづき、農民は困窮をきわめていた。そこで軍による国家改造もくろみ、2.26事件であわよくば政権を獲得せんとしたが成功せず、次第に軍への不平もたかまってきたので、そのボロ隠しで国内の関心を外に向けようと企てた大博打がシナ事変で、さらにその上塗りが大東亜戦争であったのでしょう。

日清や日露戦では、まだ戦争の目的が明快にあったとすれば、シナ事変あたりから何のために中国と戦うのか、誰もがよくわからなかったのでしょう。

戦う目的がはっきりしないこんな不純な動機ではじめた戦争に勝つはずはない。



c5525jpさん>清=中国の土着政権なのかね?

革命の対象になった異民族政権だと、胡漢民らが述べていましたよね。




中国は他民族国家です。圧倒的多数は漢民族で、政権を握っていた満州族少数民族だった。

そこで、自分たち満州族が少数派民族であることを自覚して、清朝は、積極的に漢民族と融和して国内を円滑に統治することに心がけた。

だが満州族清朝は腐敗し、外国にたいして抵抗する力がなかった。そこで、若者らは自分たちの国を救う唯一の方法は清朝を倒し、新しい近代国家に変革するためには、満州族清朝を打倒して漢民族による新しい国家を興すしかないと悟った。
そこで「滅満興漢」(満州族清朝を打倒して漢民族による新しい国家を興す)が革命のあい言葉となり、革命の情熱の根源となっていたのです。



アタマ・タランチノさん>革命派が使った「滅満」「排満」の「満」は、どうあがいたって漢族に同化しない「満州族」という意味。他民族を抑圧する「満州族」という意味。論点のすり替えはいけないよ。

第二に、交通の制限や出入禁止という政策は、近代以前では珍しくもない。清では満洲に限らず、蒙古も出入りが禁じられていた。……結局、これだって破られるのだけれどもね。だいたい、あれだけ広い版図において支配形態が一様でなかったという事実を、こと満洲に限ってのみ、日本の満洲領有に都合よく解釈しているに過ぎないんでしょう?

第三に、これが一番不可思議なんだけれど、「満洲中華民国にあらず」説を唱える人たちは、中華民国が清の承継国家であるという現実をなぜか軽んじているんだよね。

確かに昔は、王朝が交替したからといって、必ずしも版図のすべてを受け継いだわけではない。たとえば明王朝ができても、モンゴル高原に下がった元は依然存在していた。

ところが、そんな東アジアにも、グロティウス以来の国際秩序が浸透してきた。清と、シベリアに進出してきたロシアとの交渉過程を見れば、それは容易に察することができるでしょう。ヨーロッパは、今日の我々が知る近代的な国際秩序に従うことを要求し、清はそれを受け入れるようになる。イメージしにくかったら、幕末から明治にかけての日本がそれをいち早く取り込み、朝鮮や清との関係もそれに基づく関係に切り替えたことを思い起こしても良い。

さて近代の国際関係では、「政府の形態が変っても国家は変更しない」という原則が一般に認められている。とはいっても、それまで引きずってきた東アジアの伝統的な世界秩序にそぐわないからモンゴルやチベットのような問題も出てくるのだけれども、では満洲はどうだったか?と、ここで考える。

どうだったもなにも、清では、満洲と中国本土が直轄で、それを包むように東の朝貢諸国があり、また西北には、より直接的な支配を受ける文化圏があった。前者はやがて独立して行くが、後者は、その独立の是非を問う形で紛争も起こる。

そうした関係を承継したのが、中華民国だ。だからロシアはボグド・ハーンの外蒙古に関する協定を中華民国と交わしたのだし、日本は満洲の権益について中華民国を相手に交渉した。中華民国がそれらの交渉に応じたのも、清の承継国家であることを自分で承知していたからだよ。「政府の形態が変っても国家は変更しない」んだよ。(百歩譲るとしても、だいたい当時の北京政府からして、正体は清の北洋派じゃないか)。

北伐の終点が北京だったからどうのという人もいるようだけれど、たぶん辛亥革命から張学良の易幟にいたる過程を知らないか、あるいは故意に無視しているかのどちらかでしょう。あるいはもしかしたら、北伐の敵が誰で、北京にどういう意味があったのかすら知らないのかもしれない。



gdhb7215さん>辛亥革命を主導した国民政府の要人が、満蒙を他民族が住む、歴史も共有しない特殊なエリアだと認識していたとしても、国民政府が正式な清国(当然、満蒙を含む)の継承政権である事実には影響を与えない。満蒙に関する清国の結んだ条約も、権利義務も継承するのだ。
 
 ロシア連邦にも21もの共和国があり、全て他民族の国で、歴史を共有しているわけではないとロシア人も認識していて、それでも国益のためにチェチェン共和国のように内戦になっても分離独立を許さない。そのロシア連邦が、ソ連が崩壊した後、その国際上の権利義務を継承する正式な国家だというのと同じ。

 ただ中国本土の人間が、満蒙を蔑視して、行政にも格差を付けて低く扱った節はあります。また、そのことを、日本の右翼どもが、ことさら大きく取り上げて大陸への進出の思想的根拠にした。
 そういう下地が、この地域にあったということです。

アタマ・タランチノさん>これは概ね同感です。奉天派の金融政策なんか、開発を呼び起こしはしたが、ものすごいインフレを引き起こしている。経緯は違いますが、新疆も大混乱を来たし、盛世才の独裁とソ連邦による進出へと行き着く。青海では、回民軍閥が大きな力を持った。内蒙古にしても、一部王公は国民政府に対する大きな不信を抱いた。国民政府の周縁部に対するコントロールは、上手く行われたとは決していえない。

それから、何度か書いたのですが、漢化……漢民族への同化を前提とする考えに縛られていましたね。孫文ら革命派にしてもそう。そして、周縁部の民族を軽視するというか、伝統や習慣を無視するやり方を進めてしまう。そして反感をかう。すると列国は、そこにつけ込む。