c5525jpさん>して、国民党の指導者はそれを知らなかったと?

国民党の指導者はそれを知らずに、満州と中国は別、だから革命が必要だと論じたと?

国民党の指導者より貴殿は支那の歴史に詳しいと?

国民党の指導者はそれを知らずに、満州と中国は別、だから革命が必要だと論じたと?

国民党の指導者より貴殿は支那の歴史に詳しいと?


なんか言っている意味がよく分からん、ワシの勝負の鋭い感性から察すれば国民党の術中に嵌った質問じゃと思う。


アタマ・タランチノさん>なんというか^^;

支那本部」十八省に、清朝時代の外藩(蒙古、新疆、西蔵、青海)と満洲を足して「支那全土」。「支那全土」には、統計などで関東州、香港、澳門を含むことがある。満洲の日本領事館は「在中華民国帝国領事館」。外務省記録では、満洲と蒙古を国ごとにファイルする時は、「支那」にファイリング。満洲と東部内蒙古に関する交渉相手国は「支那共和国(中華民国)」。支那共和国(中華民国)は、清の承継国家。

以上は、戦前期日本の認識(基本の「キ」)。つまり日本は、満洲も「支那」の一部だと認め、中華民国と交渉していた。こんな程度の枠組とその意味すら知らないで、ひたすら点ほどの事実のみに拘泥するととんだ電波を発信することになるという良い見本ですね。……あぁ、陸軍省新聞班が、熱河侵攻を正当化するのに「熱河は支那ではない」なんて言っていましたっけ。あれに近いものがあるか。

外蒙古独立の話も変なこと書いているし。


下らん話には付き合いきれん

さすが「なるほど」です。

ワシには関係アラヘン、かってに自分の立場で「どうぞ」という感じですよ!


この頃の中国では奉天吉林黒龍江三省を東北三省または東三省と呼び、日本側はこの地域を満州と呼んでいたのです。この東三省に熱河・察哈爾省(チヤハル)を加え東北五省と呼んでいた。後の満州事変で日本は東北四省、つまり奉天吉林黒龍江・熱河と内蒙古省の東部を満州国として独立させたのです。

なお、明治40年に日露両国は秘密協定を結び、満州・朝鮮・外蒙古におけるそれぞれの勢力範囲、利益範囲を相互に承認して、中国の領土である満州に勝手に分割線を引き、北満州南満州に分け、南満州を日本の利益範囲とした。

これはケシカランと明治42年にワシにも仲間に入れてと米国はダダをコネた。

そこで、日露は次の年に満州における現状が他国に脅かされた場合両国は必要な手段を取るというさらなる秘密協約を結んでお互い確認し合った。

辛亥革命が起こると、さらにさらに日露間で秘密協定を結び、中国の辺境地方をそれぞれの特殊権益範囲に分割し、内蒙古の西半分をロシアに、東半分を日本のものにするとともに、お互いの特殊権益についてけしてジャマしないことを相互に約束した。

だから、清国滅亡時にロシアは外蒙古を独立させたのです。

これ以後、日本は内蒙古南満州をつなぐ地域を満蒙と称し、満蒙を日本の利益範囲としたのです。


c5525jpさん>日本がどういう認識でいようと、国民党の指導者は「満州と中国は別」として認識していた事実は不変でしょ。


世の中「普遍」というものはないんだよ!


それが嫌なら、タイムマシーンでも作って国民党の指導者を教育しにいきなさい。

日本は世界の中心ですか?


ワシは国民党の指導者と違いウソは言わんよ!


日本が決めたらそれが不変の真実となるとでも?

誇大妄想はやめた方がいい。



なお、徳川時代の日本は不完全ながら支那満州は別だと認識していたそうだ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━

日本人は徳川時代までは不完全ながら自分の眼で支那を見、また満州を見たのであります。日本人自身の考へで独立に支那及び満州を観察したのであります。『韃靼漂流記』だとか、間宮林蔵の『東韃紀行』だとかを見て見ましても、徳川時代の日本人は満州支那と別個の地域であることを不完全ながら認識してゐたことが認めらるるのであります。然るに御一新以後になりますと、日本人は最早自分の眼で物事を見ることができなくなつたのであります。西洋人の眼を通し、西洋人の書物を通じてでなければ物事を考へまた観察することができなくなつたのであります。学問も翻訳学問、追随学問となり、外交も翻訳外交、追随外交となつたのであります。西洋人が満州支那帝国の一部、支那の完全な領土だといへば、日本人も西洋人の口真似して、鸚鵡返へしに満州支那帝国の一部、支那の完全な領土といふことになつたのであります。これが第二の由来であります。


矢野仁一著『満州国歴史』、13−4頁より。


アタマ・タランチノさん>そうそう、日露協約というものもありましたね。日本では、日露戦争は流行るけれども、戦後の日露協調時代はなぜか流行らない。なぜでしょうね。

さて、日露協約ですが、そこでは「満洲」や「蒙古」という言葉が地域概念として出てきます。

しかし、満洲と蒙古というのは、もともと土地の名前ではないんです。人の集団を指す名称だったんですね。けれど、19世紀のヨーロッパで地域概念という新しい意味が付与された。「マンチュリア」「モンゴリア」です。で、これが東洋にもたらされて、今日の我々が知る、地域概念としての「満洲」「蒙古」が生まれた。

だから、近代以前に「満洲」「蒙古」といえば、今日いうところの「満洲族」「モンゴル族」という意味なんです。「満洲族」や「モンゴル族」が「漢(漢族)」と違うのは当り前でしょ(笑)。この事情は20世紀に入っても大して変わらず、だから清末から民国初期の人たちがいう「排満」の「満」もつまり「満州族」のことで、要するに清朝を指した。

ええと、19世紀末から、中国では「黄種」意識の高まりが起るんです。はじめは圧迫する白種と劣敗の位置に立たされた黄種ということだったらしいのですが、やがて革命派によって、「黄」には、祖として黄帝を持つ漢族という意味が与えられた。そして、モンゴル族満洲族は「シベリア人種」で異種異属だとされることになる。

もちろん知識人は黄帝神話なんて信じなかったでしょうけれど、ナショナリズムを煽動する効果はあったらしい。ところが後にこれが、満州族に対する人種差別という問題を孕む。そこで今度は、それまでの「排満」を克服する必要が生じ、「五族共和」とか出てくる。もっとも、それとて漢族への同化的傾向を有するものだったのですが。

……とまぁ、こんな事情がありますから、「満洲」とか「蒙古」という言葉が出てくるときには、それが地域概念としての語なのか、それとも従来の民族としての概念を持つものなのか、きちんと区別する必要があるんです。

日露間で権益の切り取りを約した際の「満洲」「蒙古」は地域概念。革命派のいう「満洲」は一般に民族もしくは人種としての概念。これをごっちゃにしてはいけないのですけれどね。当の中国人が、どのような意味を込めて「満洲」と言ったのかという問題を無視し、ひたすら地域概念であるかのように言い換えるのは、詐欺も同然ですね。



gdhb7215さん>なかなか面白い議論だったのでROMしていたが、暇つぶしに横レスします。

 そもそもロシアが満州に進出したのは、清国の都合でもある。清国は日清戦争の下関談判の進行中、露国公使カシニーと秘密の交渉をもって三国干渉を誘致して、日本に遼東半島を放棄させた。この後、1896年のニコライ2世戴冠式に出席した李鴻章に、ロシア蔵相ウィッテが会談を持った。そしてロシアは清国の有事の際に軍事的支援を約束し、清国はその代償としてシベリア鉄道吉林省黒龍江省を通ってウラジオストックまで延長させることを承認した。(この密約は一般に知られていなかったが、1910年(明治43年)2月駐英清国公使がロンドンデーリーテレグラフ紙に公表し、1921年(大正10年)ワシントン会議において正式に中国政府全権より発表された。)
 そしてこの鉄道(東支鉄道)は、1898年起工、1902年営業を開始した。日露戦争の前の満州はこんな状況だった。

>明治40年に日露両国は秘密協定を結び・・それぞれの勢力・・
>中国の領土である満州に勝手に分割線を引き、北満州と南満
>州に分け、南満州を日本の利益範囲とした。

 日露の境界線を確定したのは、1905年(明治38年)のポーツマス条約だ。これにより長春から旅順までの鉄道(支線含む)その他の権利をロシアから譲渡された。その後北京において政府全権の袁世凱、瞿鴻城と会談し、同年12月日露満州善後協定及付属条約を調印し、この権利譲渡は清国によって確認された。



>明治42年にワシにも仲間に入れてと米国はダダをコネた。

 たしかにアメリカは、この地域に熱心だった。
 アメリカは1909年(明治42年)11月6日、イギリスに対し公式に申し入れをした。第一に満州鉄道の国際管理の提案、第二に別路線(錦愛鉄道)の建設。しかしイギリスはこの申し入れを拒否した。アメリカはこの後に日、ロ、仏、独に同様の申し入れをするがいずれも拒否されている。
 するとアメリカは1910年に、イギリス、フランス、ドイツと4国借款団を組織し、1911年4月15日清国政府との間に協定を立ち上げることに成功。(同年10月の武昌蜂起による混乱で、お流れになった)
 その後4カ国借款団は、日露を加えて6カ国になり、その後国内事情からアメリカが撤退したり変動があった。というわけでこの時期の満州アメリカにかき回された感がある。しかし当時の実力者袁世凱一流の「夷を持って夷を制する」手法に、アメリカが利用されたともいえる。