c4416jpさん>満州は、1911年締結の清帝退位協定が遵守されている間は中国と一体とみなすべきでしょうが、1924年に支那側が一方的にこの協定を蹂躙しておりますので中国の領土ではありません。


この協定を蹂躙した結果、蒙古の王族は支那から離反しましたね。その後、ソビエト権力が傀儡政権を樹立し、これが現在のモンゴル国に至っております。満州が中国領土だとするならモンゴル国もまたそうなります。

孫文は革命支部満州に作っておりません。

蒋介石は北伐の完成を北京占領後に宣言しました。すなわち、中国の統一完成の宣言です。当然、満州は対象外なのです。

1911年の武昌蜂起に始まった辛亥革命支那全土に波及し、翌1912(清の宣統3・明治45)年1月1日、孫文が臨時大総統(革命政府)に就任、「中華民国臨時政府」が成立したのです。しかし、成立したとは言え、清朝が崩壊した訳では無く、かといって、民国臨時政府も発足したとは言え全土を掌握する実力がある訳でも無く、情勢は混沌としたままだったのです。この様な中、清朝の軍(北洋新軍)の全権が与えられた総理大臣・袁世凱が内部対立や財政難に苦しんでいた革命派と取引し、清朝を排除して権力を奪おうとした。そこで、孫文清帝の退位と共和制の実現、首都の南京への移転などを条件として、袁世凱を臨時大総統とすることに同意した。そこで袁は北洋新軍将領をもって「ある条件(皇室優待条件」を提起して退位を迫った。2月12日、これをうけいれて宣統帝・溥儀 ── ラストエンペラーは「退位」し、ここに専制王朝体制は終焉したのです。(辛亥革命
そして、その後2年後の1914(大正3)年2月、中華民国大総統袁世凱は大総統令によって
「大清皇帝(溥儀)は本日を以て永久に皇帝の尊号を廃除し、中華民国の一国民として法律上一切の権利を同等に享有する」
によって、退位するときの約束を破り、孫文との約束を果たしたのです。

これすべて国の内政問題で、国内部の約束ごとまで干渉して、なにを証明したのかよくわからん。

なお、下記の主張を述べているだけだと思うが、「皆さんもご存じの歴史」のところを正確に治しておきました。

中華民国」は清朝の後継国家では無い

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/chuuka_minkoku1.html