さて、当時(昭和6年)中国の交渉の際、日本政府は満州についても「中国領土保全」のとりきめを守る立場を表明しています。

昭和6年9月29日、在京中華民国公使が外務省に、満州における新政権問題にかんして、
「我国東三省地方に独立政府建設を企画する趣なる処斯の如き中華民国領土を破壊する挙動」はゆるせないとして、日本政府の責任を問い回答を求める口上書を提出した。

上記たいして、昭和6年10月1日、日本外務省は中華民国にわたした口上書は、「満州に於ける中国人の政権樹立の策動に対し帝國文武官が何等の奨励または支持を与ふることを厳禁すると共に一切適法の手段を尽して本邦人を此の種の策動に関与することを取締り居る次第」と弁明している。

昭和6年11月1日、幣原外相の宣統帝擁立に関する訓令では、満州に独立国を形成することは、中国の領土保全をとりきめたワシントン9カ国条約違反の問題をひきおこすとのべ、満州が中国領であるとする立場をいっそうはっきりさせている。(日本外交文書より)


以上のように、当初日本政府は満州についても「中国の領土保全」のとりきめを守る立場を表明しており、満州が「中国のものではない」などという立場に立っていなかった。



c5525jpさん>このことは特に満州について云えることである。満州においては、この原則の適用を巡って多大の紛議が捲起され、その遵守を確保しようとする我々の努力は、後に特に重要となり、強化されるに至ったものである。歴史的に云って満州はシナの一部ではなかった。清朝時代を通じてシナ本土の満州に対する関係は幾分間接的のものであった。十九世紀の終り頃、満州の大部分は、シナ及び露双方にとって半ば開拓された辺境地域を意味していたジョージ・ケナン著『アメリカ外交50年』(岩波書店、1952年10月)、52頁より。


という具合に、「歴史的に別の地域」と記述されるのですよ。




「歴史的に云って満州はシナの一部ではなかった」文は過去の文体で、この文を含めた文脈で表している事柄の時点では、含んでいると見なければならない。

つまり、これを引用した歴史者が「歴史的に云って満州はシナの一部ではなかった」の一文をみつけ、全体の文脈の意味とは違うにも関わらずこれを利用して自分の主張の裏付けにしたものです。