公議政体

西郷たちによる主戦派のクーデターは成功したが、足並みは早くも乱れはじめていた。慶喜は暴発を避けるために、軍勢を大阪に入ってしまった。土佐藩は西郷の強引な手法には批判的で、朝廷から伏見の巡邏の命を下されたが、土佐藩広島藩は出兵を拒否した。さらに薩摩藩の主戦派主導による政変については、諸藩の間では批判がたいへん強かった。こうした批判を無視できなくなった。主戦派の岩倉も腰砕けになり、慶喜の新政府入りを容認するに至り、24日には慶喜の上洛が認められ、28日には慶喜の上洛後の議定就任が内定してした。三条も慶喜にたいして妥協的であった。このような状態の中で、薩摩藩の内部でも強行路線をひた走ってきた西郷らの主戦派への反発もあり、薩摩藩の体勢も公議政体論に傾いている。長州藩の木戸も「御国(長州藩)の弊は尾大の形」だから挙兵倒幕には慎重な態度をとるべきだと述べている。主戦派の西郷らは、倒幕の密勅を作り、薩摩の藩論を倒幕に傾け、さらにクーデターも起こして新政府をつくったが、大政奉還派や革命内部からも倒幕反対の慎重派によって後退させられた。この手詰まりから武力討幕派を救ったのは西郷の謀略であった。西郷は、かねてから江戸で戦争挑発の策動をはじめていた。西郷は益満休之助と伊牟田尚平のふたりを江戸に送りこんだでいた。慶応3年12月23日、その伊牟田尚平が江戸城に放火した。この徳川家の江戸城に放火して炎上させる破壊工作と市中取締に対して薩摩浪士たちの攻撃により、薩摩屋敷で戦いが起こった。西郷から急使が来て、その時の模様を、谷は次のように記している。西郷は京都でこの知らせを聞いたとき土佐の谷干城に、「これで開戦の口実ができもうした。急ぎ貴藩の乾〔板垣退助〕さんに知らせて下さらんか」と谷は「隈山詒謀録」に回想している。これにより薩摩藩の藩論も慎重論から倒幕に一気にまとまったのである。倒幕に反対していた薩摩藩士たちも、以後沈黙せざるを得なかった。西郷はこれを追い風に、鳥羽伏見の戦いに臨む。つまり、西郷はたんなる宮廷クーデターにとどまらず、倒幕戦争、すなわち内乱にまで突入させたのである。つまり西郷の謀略がなければ、旧幕府派との戦争は回避され、江戸侵攻も行われず、江戸の住民の50万人が逃げ出す混乱もなかった。近代化された海軍も温存されて、列強国がつけいる隙はなくなり、イギリス指導の薩長とちがい、広く列強との対等な国として運営ができた。諸藩が競った近代化政策より、日本中大いに近代化が進み、アメリカの資本より鉄道ができれば、思想的にも近代国の思想を吸収する場が自然に多くなり、維新政府が推進した臣民思想政策よりも近代化が進む。政体については、大政奉還と公議政体樹立を決意した慶喜は、顧問の西周憲法草案をつくらせています。その憲法草案は、慶喜の独裁を狙っておらず、アメリカ合衆国の連邦制のような三権分立と幅広い地方自治をうたっており、その将来には、各地方の国柄を活かした豊かな近代国家の姿も垣間見ることができる。
このとき、公議政体が樹立されていれば、天皇親政は行われず、象徴的な天皇の伝統は継承され、維新政府のように天皇の御名を利用して巧妙に政治責任を回避し、国民の権利を制限した上で近代化を強力に推し進めたようなこともなかった。つまり近代化に伴う自由民権の運動が大衆の政治的意識の革新をうながし始め民主的な自覚が芽生えると薩長政財閥を強化するために、国内的には人権尊重のごときは悪害と見て、警察力で弾圧した。だから、その国内的矛盾を常に国外に国民を向けさせねばならなかった。薩長政府の領土膨張政策はこのような要因があったからからだ。すでに近代化の芽は幕末から生じていたから、公議政体下でも緩急の差はあれ、近代化は進んだのである。

大政奉還と一体になる徳川の政権構想についての考察。
大政奉還  慶応3年10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜天皇(朝廷)に政権返上をねがいでて、翌日天皇の許しをえた。江戸時代を通じて将軍は国の統治権をもち独裁的に政治をうごかしてきたが、討幕運動が進展するなかで幕府は政治の大権を朝廷にかえすことで討幕運動の出鼻をくじこうとした。大政とは国の政治をさす。
この年7月赤松小三郎の意見書で、公武合体論に立ち、内閣制・二院制というべきものを主張した。天子のもとに国政全般を統括する行政府の長置き、財政・軍事・外交・刑法・租税のそれぞれを司る宰相とする天朝のもとでの内閣制である。議政局は上下二局に分け、上局は諸侯・旗本から、下局は各藩から門閥貴賎にかかわらず人材を選挙で公平に選ぶ。議政局は立法に任にあたり、国事のすべては上下二局で決議した上で天朝へ建白し、その許可のもとで国中に命じるというものである。
9月には洋学者津田真道の「日本国総制度」の構想が幕府に提出された。津田案は、徳川氏に全国を管轄する総統府の長として軍事権をも把握させ、立法府は総政府と法制上下両院が分掌し、この両院を置くという徳川慶喜を中心とする全国政権構想であった。
また、松平乗謨が10月18日に提出した意見書で、その大要はつぎの通りである。
1. 全国および州郡に上下の議事院をつくる。全国の上院は、諸大名から10名入選し、下院の30名は、大小名より無差別に選ぶ。州郡の上院(10名9は大小名より出し、下院(30名)は藩士をふくめ広く人選する。人選は選挙による。
2. 国政はすべて上下院の議を経る。その決定事項には「主上」も異論をはさみえない。
3. 全国守護の兵を置く。そのため新しく海陸を設け、各地の要所に配置する。全国守護兵としての海陸軍仕官は、大小名・藩士から広く人選し、強勇で志ある者を選び、費用は諸大名・諸寺院の高三分の二をの納入させ、さらに商税等をふくめ広く一般から取り立てる。
上記の案は、朝廷と中央政府との関係があきらかでないが、要は各藩の私権を中央政府に納めて、軍事力もそこに集中し、国政はすべて議事院という議会の議を経て行う、というものである。
大政奉還の前日、つまり、10月13日、洋学者西周は、二条城に召し出され、慶喜に国家三権の分立やイギリスの議院の制度などを西に問い、西はそれらのあらましを述べた。そして、それを手記して翌日慶喜に提出した。
西の立案した構想は、「大君」制で、大君に慶喜がなり、大阪を拠点として、議会制の形をとりながら政治の実権は大君の慶喜に集中する。軍事的には当面は各藩がそれぞれもっているが、将来はすべて大君が把握する。一方、京都の天皇は政治にまったく無権利の状態におかれる。政治的にも経済的にも十分配慮されたものであった。

日本が西欧列強の植民地にならなかったのは

幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、さらにはフランスと修好通商条約を結びます。日本における外国の活動は、この修好通商条約できめられたフレームワークのなかでおこなわれたので、日本が西欧列強の植民地にならなかったのです。
一般的には外国側に領事裁判権の待遇がみとめられていますが、しかし、治外法権というのは外国人が好き勝手にできるのではなく、外国政府の法律や行政権は、すべての外国人にかんして日本国内で十分な効力をもっており、日本の法律に十分にとって代わり、平和の維持と犯罪の抑圧のために適切な措置を講ずるということになっています。つまり、治外法権というのは、日本の法律から免じられているということだけで、政治的・経済的に不利益をしいられたかというと、かならずしもそうではないです。幕末において不平等を問題視する批判を見出すことはない。そもそも、これらの特権を外国に与えるについて、幕府当局は何らの疑問も不安もいだかなかった。日本にいる外国人のおかした罪はその国の領事が裁くという治外法権の規定でも、幕府がわでそうした方が面倒がなくてよかろうと思ったほどだし、居留地が設定することなどは、幕府の方から言い出したことであった。それなのに、後世のものだけが大いにこの問題を重要視して、当時の歴史を論じていることがよくわからん。

ペリー来航のとき、異国船を一目見ようと海岸に押し寄せ、海辺は人であふれんばかりだったという。幕府によって、不備はあるにしても、当時、外国との折衝は上出来だったと思う。戦争に敗れて講和条約という形で国を開き、巨額の賠償を支払わされ、領土を奪われ、武力で驚かされ植民地のような条項を、飲まされたりするケースがほとんどです。そのなかにあって、平和的な交渉によって不平等が少ない条約を結びます。

尾崎咢堂

尾崎咢堂

ひとらーをくびり殺せる夢を見ぬ殺すを嫌ふ我性(わがさが)に似ず

善悪を問はで勝負を問ふ国とつひに結びぬ同盟の約

懲(こ)りずまに又も踊りぬヒトラーが吹く笛の音(ね)に心狂ひて

国民の落行(おちゆ)く先の思はれて冬の長夜もねざめがちなり

敗れなばヒ氏とム氏とは自殺せん我大君はいかがしたまふ

五ケ年に三百万の人命をたちてかち得しものは何物

共栄と口(くち)には云へどわが国の今行く道は共倒(ともだふれ)の道

反軍と世にすてらるる思想こそ国民救ふ基(もとゐ)とは知れ

重臣の数はもろ手に余れども国に殉ずる人一人なし

併合条約


朝鮮における立法権は勅令・緊急勅令を発する天皇にあることはいうまでもないが、立法事項に関して「併合処理方案」中の「立法事項二関スル緊急勅令案」が「朝鮮ニ施行スベキ法令二関スル件」として、「併合条約」と同時に発表されます。これによると朝鮮における法令は、朝鮮人民の意思如何を問わないのはもちろん日本議会の協賛を経ることなく、勅裁による朝鮮総督の命令をもって代えると規定され、総督府官制の規定とともに総督は朝鮮における立法・司法・行政の三権を一手に把握し、朝鮮人にたいする生殺与奪の権限を行使していました。


日韓併合以前の日本の総監を置いた時代に日本政府が出資した東拓という国策会社を作ります。東拓は貧乏していた朝鮮の農民から、土地を買いあさり、ただ同然に安く手に入れ土地を買い占めてしまいます。それに日韓併合により土地調査事業では、国有地に編入してまったり、新しい税制では農民は税金を現金で納めなくてはならなくなって、貧乏して金に困っている農民の土地とか、部落の共有地などをどんどん買い集め、豊かな平野部のほとんど東拓の農地になってしまい朝鮮人はその下で小作人となって働くことになります。
そうして朝鮮農民から手に入れた土地を、日本から押し寄せてきた食いはぐれの日本の移民に、政府の政策として安く譲ったからたちまち日本人の大地主が生まれたのです。日本の大地主は春に肥料代とか現金を貸し、収穫後に小作料と肥料代、モミ代、貸し付金の高利の利子を取られ、生活が苦しいので小作人は借金で生きて行くようになったのです。もし自分の山とか畑があると取り上げられるし、住んでいる家も没収して競売してしまうので、農民が土地を失うのは早い。あっという間に農民の財産は失ってしまったのです。
土地を失った農民は飢えて死ぬか、他郷へ流れて行くかしか方法はなくなり、日本の内地に行けば飯が食えると聞けば行く、満州に広い土地があると聞けば行く、流民とならざるをえなかった。
寺内正毅は1910年の日韓併合の後、1916年まで朝鮮総督を務めた方で、下記のように「領土を侵略することはやすいが人の心を奪うことはできない」とポロポロ涙をこぼして訴えられています。当時の朝鮮総督でさえ日本が領土を侵略していたという意識がありあり込められた涙であろうと思う。
日本人の支配する中で朝鮮人は、人間としての待遇を受けてはいなかったし、朝鮮人は日本の奴隷と同じであった。

参考
「対支二十一ヵ条の条約が締結された時わたしはまだ朝鮮にいた。ついに侵略の牙をむいた日本に対する支那人の憤激、日本人に対する憎悪、それによってまき起こった排日・排日貨の旋風は、京城あたりでも感知された。寺内総督はわたしに朝鮮に手近い地方の実状を見て来てくれとのことなので、わたしは支那へ潜行した。長春奉天で、日本製の帽子を地に投げつけたり踏みにじったりして、排日救国を怒号している、支那人の眼は、日本人に対する憎恵に燃えていた。帰って寺内さんに報告すると寺内さんは、
 「困ったことだ。とり返しのつかんことをやってしまった。この調子で進んだら、日本と支那はヨーロッパにおけるドイツとフランス以上の、永遠の敵となってしまう」
といってひどく心配された。何とかしなくてはならんと話し合って見てもどうするわけにも行かぬ。そうこうしているうちに、支那に対する問題は袁世凱帝制の場面に転回した。日本が帝制延期の勧告をしたのが大正四年十月二十八日で、この頃わたしは朝鮮引揚を決心、内々帰国の準備にとりかかっていた。
そしてわたしがいよいよ朝鮮を引揚げる翌五竺月までの間に、この間題は大体次のような経過をたどる。
大正四年 十月二十八日帝制延期勧告
大正四年十一月  一日勧告拒絶
大正四年十一月  五日帝制延期再度勧告
大正四年十二月  五日陳其英軍上海機器局占領
大正四年十二月 十二日衷世凱皇帝即位承認
大正四年十二月 十五日日本最後的勧告を発す
この間にわたしたちは、日本が支那に対して何かしら大変なことをたくらんでいるな、ということを感知した。ある日青森連隊長をしていた土井市之進という陸軍大佐が、朝鮮を通り抜けて支那へ行った。土井大佐は寺内さんとは親戚の仲である。それが京城を通りながら、寺内さんに挨拶もせずに行ってしまった。坂西大佐からこのことを聞いた寺内さんは、
「あいつら何かたいへんなことをやりおる」
といわれた。
日本が袁世凱の帝制を阻止した口実は国内に動乱が起こるということにあった。支那は動乱は起こらぬといった。事実支那側のいう通り何事もなかった。支那人は共和政治を好まぬ。ことに官吏・上層階級は帝制に深いあこがれを持っていた。袁の声望も盛んなもので、当然反対である南方革命派も手の出しようがなかった。起こらないのが当然なのである。それでは筋書通りに運ばない。そこで日本から行って騒動を起こさせたのである。いや、むしろ日本自身が起こしたという方が当たっているであろう。
土井大佐などはこの火付役の発頭人で、馬賊の大将パプチャブを引張り出しに行ったのである。朝鮮からはまさに対岸の火災で、この大火付の有様が手に取るごとく分かるのである。最初に起こった暴動は陳其芙軍の上海機器局占領である。これにはこういういきさつがあったのだ。
 日本は支那攪乱の手始めに、この陳其美に、上海にいる支那の軍艦を革命派の手に買いとらせるという約束で、たしか三百万円の金を陳其美に渡した。その軍艦は呉淞で受取るという約束になっていた。そこで海軍の予備軍人を大勢駆り集めて舞鶴から船を出した。その船が呉樅に行って見ると問題の軍艦が港から出て来た。こちらへ来るのかと思うと、さっさと針路を東北に転じて逃げてしまった。受取りに行った連中は納まらず、その腹癒せに呉淞に残っていた駆逐艦を分捕ろうとして襲撃したが失敗し、全部捕虜になってしまった。軍艦買収に失敗した陳は、兵を起こして機器局占領をやったりしたが、まもなく日本人の手で殺された。これはわたしが見たわけでもなく、調べたわけでもないからくわしいことは知らないけれど、あったことなのだ。
ある時寺内さんはポロポロ涙をこぼして、
 「大隈内閣のやることは一々東洋永遠の平和の打ちこわしだ。東洋平和を御軫念あらせられた先帝に対し、まことに申しわけがない。領土を侵略することはやすいが人の心を奪うことはできない」
といって嘆かれた。
このただならぬ風雲をよそにして、わたしは大正五年一月十六日、朝鮮を去り、内地へ引きあげて故山に帰臥し、二月には前記の銀行つぶしで上京し、それを果たしてふたたび郷里に帰った。よそ目にはいかにも閑日月を楽しんでいるように見えたであろうが、わたしの心は常に大陸の空に馳せて、事態の推移をじっと見守っていた。(西原亀三自伝)

最後の殿様

「最後の殿様―徳川義親自伝」より

 十一月に、貴族院では慰問団を北支と上海方面に派遣することになった。ぼくは尾張の人が多く出征しているので、志願して慰問団にいれてもらった。すると年少のぼくに団長になれという。考えてみると侯爵はぼくだけで、団員は伯爵樺山愛輔、子爵井上勝純、子爵三島通陽、男爵岡義寿。

(中略)

 ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかというようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。

 藤田くんは、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、十月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。

 中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、

「人を殺すのはこうするんじゃ」

と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。

 長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、

「長、その話だけはだれにもするなよ」

と厳重に口どめしたという。

(「最後の殿様」P170~P173)

旭日旗

旭日旗は日本が海外を侵攻したときに使われた象徴です。ところが日本政府はそれを合法という理論で濁しています。また、他の国を攻めたことを正当化する人々がいます。結局侵略という評価は現在そこに住んでいる人々がするもので、他人が判断するものではないと思います。
そもそも、朝鮮が日本の植民地になっていたことを知らない人はいないだだろう。両国の不幸はすべてこの朝鮮の植民地化からきている。しかし、この過去の朝鮮の歴史を日本人はあまり知らない。いや良く知らされていないと言った方がよかろう。

王妃殺害事件の資料

下記はF・A・マッケンジー「朝鮮の悲劇」の序の全文です。彼はカナダ人、ロンドン・デーリーミラーの記者として1904年と1906年の2回韓国を訪れている。この本は1908年(韓国併合の2年前)に出版されたものである。ジャーナリストの目で見た韓国併合に至る朝鮮を記述しています。

私は、ここに、一国興亡の物語を述べることとする。私の話は、ごくわずかな導入部分を除いては、たかだか三十年足らずの期間にわたるものであって、それもその大部分は、イギリスのエドワード王(1901〜10在位)即位以後に起こったことがらについて述べることとなる。近代朝鮮の、短くかつ悲劇的な歴史は、重大な国際的進展と連結されていた。朝鮮の近代こそは、やがては二〇世紀の主要な世界的葛藤を招来するような、推移をひき起こさせるきっかけを与えることとなった。つまり、起ち上がった中国と野心に満ちた日本との間の生存競争、という葛藤へのそれを。そしてまた、それは、日本天皇のロシアに対する宣戦布告の理由ともなったのである。それは、正義と平和と公正についての、日本の公言の真実性をためす試金石を、今日、われわれに担供するものである。
 偏見のない観察者なら誰でも、朝鮮が、その古びた国家統治の腐敗と懦弱のおかげで、ついには自らの独立を喪失するに至ったということを、否定することはできない。だが同時にまた、この半島に対する日本の政策が、老獪な宮廷派の陰謀と頑迷とによって、多くの困難をなめたということも、同じように真実である。しかし、こういうあらゆる障害を十分科酌した場合でも、この朝鮮の国土の日本政府占領後に示されたその諸行動を目撃したわれわれは、悲痛な失望の感を表明するほかはない。事態は今や、その事実に対するイギリス国民の義務の問題にまで立ち至っているという段階に達している。私一個人としては、われわれは、われわれ自身およびわれわれの同盟国日本に対して、次のことを果たす義務があると確信する。すなわち、弱小国に対する厳粛なる条約義務の破棄に基づく、そして、憎むべき蛮行、無益の殺傷、信頼してよりかかっている無防備な農民の私的財産権の大規模な収奪、等々により築き上げられた帝国主義的膨張政策というものは、われわれの本性に背を向けるものであり、かつまた、最近われわれがとくに捧げている尊敬と善意をその当該国からはぎ取ってしまうことになりかねない、こういうことを明らかに知らせるということを。
 この書物で取り扱った諸事件の多くは、私自身の視界内に入って来たことがらである。いくつかの章、とくに1907年の義兵闘争についての諸情景の描写は、まったく私の直接的な個人的物語である。可能なかぎり、私は、私自身の説明と結論を、他の目撃者の証言によって立証するようにつとめた。最近の義兵闘争については、読者は、主として私の個人的な観察を頼りにするほかはないだろう。なぜかといえば、私が義兵地帯を実際に旅行したその時点においては、闘争展開中のこの地域を旅行した唯一の白人は私以外にはないからである。 私は、本書中に記述してある諸事象に関して有力な役割を果たして下さった多くの方がたから、親切と寛大な助力と助言とを悉くしていることを記しておきたい。
F・A・マッケンジー
時代背景
閔妃は、大院君から政権を奪い、国王の親政とした。朝鮮第26代の高宗、李大王は、政治的発言力はまったくなく実権は閔氏を中心とする一門が掌握し、強力な鎖国攘夷政策をすてて、1876年(明治9)、江華条約を結んだ。開国後は、内に守旧、外に事大を基本政策として開化派と対立した。1882年、反日的反閔氏的軍人の反乱(壬午軍乱)がおこり、閔氏を中心とする高官を襲撃した。閔妃は変装して危うく地方に脱出した。花房公使らも日本に脱出した。大院君は政権を得たが清軍によって天津に拉致された。斉物浦条約が結ばれ、日本は50万円の賠償金と公使館への日本軍駐留を認めさせた。1884年日本の支援よる金玉均らのクーデター起こしたが、清国軍の介入を招いて失敗した。清国は朝鮮に対する干渉を深め、釜山開港以降、日本と朝鮮との貿易は徐々に拡大していたが、甲申政変後、清国は朝鮮に対する干渉を強め清国の商人は朝鮮における日本の商人の商権を脅かし始めた。こうして、日清の対立が激化し、1894年の日清戦争へと進んでいった。日本戦争に先立ち日本は朝鮮王宮を占領して大院君を担ぎ出し執政に任じて閔妃の追放(甲午政変)をはかり親日政権を作った。閔妃日清戦争により政権を奪われたが、日清戦争後の三国干渉で復活すると、ロシアの勢力をひきいれて反日親露政策をとろうとした。日本がわはこれに対抗して、李大王の父、大院君を支持し、また1895年には親日派の朴泳孝を内閣に推すが、朴泳孝はまもなく失脚し、開妃派はしだいに勢力をまして、日本の勢力を政府内から駆逐してゆく。日本がすすめて採用させた内政改革案も廃文とされ、閔妃の主宰する宮廷が、政治の前面に返り咲いた。日本がつくった軍隊である訓練隊も、廃止されようとしている。このままでは日本は韓国から追い出され、日清戦争で獲得したはかりの利権も、そのいっさいが失われるのではないかと考えた。日本公使三浦梧楼は、大院君をかつぎ、日本浪人と朝鮮軍の訓練隊(日本人が教官)を宮中に乱入させ、閔妃を殺させた(乙未事変)。三浦は朝鮮軍内部における訓練隊と侍衛隊との衝突事件のように宣伝したが、真相をかくせなかった。日本政府は三浦や浪人を本国に召還し、形式的な裁判を行い三浦らは証拠不十分として無罪にした。高宗はロシア公使館に保護を求めて移り、日露戦争まで10年間、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立がつづいた。
感想
「偏見のない観察者なら誰でも、朝鮮が、その古びた国家統治の腐敗と懦弱のおかげで、ついには自らの独立を喪失するに至ったということを、否定することはできない。だが同時にまた、この半島に対する日本の政策が、老獪な宮廷派の陰謀と頑迷とによって、多くの困難をなめたということも、同じように真実である。しかし、こういうあらゆる障害を十分科酌した場合でも、この朝鮮の国土の日本政府占領後に示されたその諸行動を目撃したわれわれは、悲痛な失望の感を表明するほかはない。」ということか
参謀本部アリフタン中佐は当時の状況を次のように報告書しています。
ソウルにあっては、日本人が自らの包囲網で国王をがんじがらめにしているので、彼は日本人の操り人形となった。全閣僚と大院君老は彼らに買収された。公然たる日本人の敵、ならびに活動的で聡明な女性である王妃は、日本人の圧迫に一人耐えて国王を支えていたが、彼らによって惨殺された。国王はスパイ網にぐるりを取り巻かれており、彼との接触が許されるのは、日本人に心服した者だけに限られる。国璽は早くも1895年10月に国王から取り上げられた。朝鮮の最重要事は、国王の与り知らぬところで、全てが専ら日本人によって決定された。日本人の側は国王の行動に逐一目を光らせて、かわいそうな王に対して更に強烈な精神的重圧を加え続けるので、彼は実際に催眠術にかけられたような状態で、日本人に対し公然と反抗し、彼らの磐石のような抱擁を振りほどくのに十分な勇気を自らのうちに見出せないが、運命が彼に負うことを命じた自らの臣民に対する高邁な義務への自費の念から、彼の心中では痛ましい闘争が展開されていた。けれども、日本人はこれに気付いていない。彼らは、当初は軍事的な勝利、次いで政治的勝利の美酒に酔い痴れていた。彼らは弦の緊張をますます強めており、一国に侵入して、その国の側には何らの落度もないのにこれを占領してしまった。ある二級大国の側から国家元首に対して加えられるこの未曾有の脅迫は、全世界が注視する中で行なわれているのだ。
全ての国家の外交代表らは、まるで申し合わせたかのように、局外者として冷淡な傍観者を決め込み、この異常事態の調停にすら乗り出そうとはしないのである。どうやら、いずれの列強も自国の利益が犯されたとは感じていないようで、問題に機が熟するのを待つ以外になかった。
 事実、新暦二月二日、国王は最後の絶望的手段に訴える。彼は自分の宮殿を去って、皇太子とともに密かにわが公使館へ移り住み、その当時、警備に当たっていたわが軍の水兵たちの庇護下に入ったのである。恥知らずにして人道にもとる日本人のしつこさにも終わりが訪れ、彼らにとっては寝耳に水の国王の行動によって、朝鮮において持続的かつ執拗に進めてきた彼らの事業の全成果が、突如として、取り返しがつかないまでに喪われてしまった。日本の政策の破綻についてはこの位にして、日本人が朝鮮で実践してきた手練手管を更に幾つか披露しておこう。
ほんの僅かでも可能性が現われると、彼らは所構わず朝鮮人役人の更迭を画策して、後任には自分に心服する者を任命する。日本人は朝鮮全土へ、彼らに有利な世論の醸成を任務とする自らの諜報員を大量に送り込んでいる。これら日本人諜報員は、豆や家畜の買い付けを装ったり、小間物の行商として朝鮮入りし、遂には、朝鮮人に変装して潜入する者もいるが、朝鮮人の側からは常に全面的な不信と軽蔑の目が向けられている。
六〇名からなる日本人測量技師が、朝鮮を仔細に測量するため元山から四方八方へ、主として北部へ向けて送り出されている。彼らもやはり至る所で、しつこく官舎の割り当てを要求したり、婦女の凌辱などで、いずれに際しても莫大な金を朝鮮人へ支払いはするものの、民衆の敵意を買ってきた。
日本人の押付ける改革が民衆の間に呼び起こした極度の憤激、ならびにその実施に際して予期された由由しい混乱を慮った日本人は、言語道断な厚か宜しきで、断髪令は偏にロシアからの強硬な要求の結果として出された、という噂を自らの諜報員を使って広め始めた。好機到来とあらば、日本人は掠奪も敢えて辞さず、例えば元山では、シェヴェリョフの倉庫がこの種の不運に見舞われたことがある。この出来事が当時は、損害に対する巨額の賠償金をわが方から請求して、調子に乗った日本人の処罰を求める契機とはならなかったのを、今なお深く遺憾とするものである。周知のように、シェヴェリョフの倉庫は中国人の貨物のみを保管していたため、われわれと日本人の関係を荒立てないためにも、中国人の肩を持つことは不要と考えたのである。最近二年間における朝鮮での日本人の活動、ならびに彼らに対する朝鮮民衆のムードは、以上の通りである。(朝鮮旅行記 P321〜P323 1895年12月および1896年の1月の朝鮮旅行 参謀本部アリフタン中佐)
F・A・マッケンジーは次のように語っています。
三浦は十日後に召還されたのであった。国王自身は、王宮内に幽閉されており、大院君一派がこれをとり囲んでいた。王妃殺害騒動のあった日、ロシア公使とアレン博士が国王に拝謁したが、そのとき、彼らは、完全に虚脱状態におちいっている国王をみた。王宮の侍臣、官吏、軍人たちは、沈没する船から逃げ出す鼠のように、いつのまにか急にいなくなった。しかも彼らは、彼らが王宮派であると認められる証拠となるようなものは、何一つ残さないで処分してしまった。外国政府代表たちは、一体となって、大院君承認を拒絶し、国王との直接交渉を強く主張した。気の毒にも国王は、毒殺を恐れて、缶入りのコンデンス・ミルクか、あるいは殻のまま料理した雑卵のほかは、何もお口にされなかった。医師として朝鮮で顕著な貢献をしたエイブソン(Aveson)博士やその他のアメリカ人宣教師たちは、毎夜王宮に行って留まった。それは、外国人目撃者たちのいることにより、謀叛人たちを牽制することができるであろうと考えたからであった。それと同時に、宣教師や公使館の夫人たちは、食事に対する国王の苦境をきいて、自分たちで特別に料理した食事を、エール錠をかけた錫製の箱に入れて、定期的に国王のもとに届けした。(朝鮮の悲劇 P69〜P70)
殺害事件の二日後に国王に拝謁したソウル在住のニューヨーク・ヘラルド紙通信員コックリル大佐は、その時の印象を、次のように記している。
数段の階段を上り、ベランダを横切って、われわれは一つの小さな部屋に入り、そして左に折れた。そしてその戸口のところに、簡素な朝鮮風に装飾されたもっと小さな一つの小部屋のあるのを見た。不幸な国王は、すでに皇太子となっているその弱々しい息子を側にして、内股で、青ざめて立っておられた。国王は背丈小さくやせていて血の気のない様子であった。この数日間のできごとによってその蒼白さはいっそう加わり、神経質そうに痛々しく見えた。通訳に当たっていたジョーンズH.J.Jones師の方を向いて、国王は、われわれと握手してもよいかとたずねられた。国王はわれわれみなの一人ひとりと心をこめた握手を交わし、それから側にいるにやにやして愚鈍な息子の手に訪問者各人の手を移した。この時、ロシア公使は、国王に大きな錫の箱をさし出したが、それには、公使の説明によると、自分の食卓から持って来た若干の果物と食物が入っていたのである。絶えず毒殺の危険にさらされていた国王は、お手ずからその箱を受け取られた。その箱の鍵が国王に手渡された。
国王は、新任の軍部大臣の権限下に立っておられたが、ウエーベル公使に目で嘆願をし、また手ぶりで忠実なダイを自分から引き離さないで欲しいとの意志を表示された。国王の全身は、あたかもセント・ヴィツス舞踏病に苦しんでいるかのように、ぴくぴくひきつり、その日は悲しげに嘆願していた」(ニューヨーク・ヘラルド紙1895年9月12日)
さらに次のような一文を書いている。
誇るに足る急速な進歩をとげて来た日本帝国のような文明国の外交が、四分の一世紀も後退してしまっているということを、伊藤公はよく知らないのであろうか?もしも公がそれを知らないのであるとするならば、公は私の考えているような指導者ではない。朝鮮の半野蛮的状態は、その慈悲深い隣人に、恐ろしいことだが、当分は忘れることのできないような、血の教訓を行なう機会を与えたのではないか。日本に対して誠実に好意をもっている人間の一人として、私は、日本の残虐さを宣言するだけにとどまらず、日本の利害がかかっているようなその不正とその無感覚を公にするような事実を、ここに記さなければならないことを悲しむ。三浦子爵が日本政府によってその位階を進められることのないよう、あるいはまた彼のすぐれた外交的明敏に対する記念の勲章が贈られるというようなことのないよう、切に望まれる。彼の位階は、セント・.バーソロミューの虐殺を計画した人間、そしてスコットランド女王の夫君を爆殺したやつのそれと同じである。三浦子爵は、広島で、今や偶像にまでなっているということを、私は知っている。彼は、高官の訪問をうけ、釈放されたその夕方には一大宴会を催した。

カネイェフ大佐
東洋的な観念によれば、故王妃は優れた教育を受けており、朝鮮のみならず、恐らくは東洋全体を見渡しても当代随一の漢字通と見なされていた。それに加えて、彼女はヨーロッパの文明と改革を、日本人の仲介を経ずに朝鮮へ導入することに、たいそう意欲的であった。決断力もあり、聡明でもあった王妃が、朝鮮の勝手気儀な統治を望んでいた日本人たちを快く思い得なかったのは当然である。そして、日本人は極めて陰険な悪事すら、怯むことなく敢行したわけだが、われわれのソウル滞在中は、その詳細がまだ最終的には解明されなかった二つのことだけは確かである。即ち、虐殺は1895年11月25日から26日にかけての深夜に、完全に日本人のみが、以下のような状況の下で実行したのである。午前三時、王宮を日本軍が包囲し始めた。日本軍の一部隊は北西門に配備され、北東門に集結したのは、日本人によって教育された朝鮮兵約三〇〇人である。宮中にはダイ将軍がいて、王宮防衛のための措置を講じょうと試みたが、宿直室には将校が見当たらず、王宮守備隊も一部は解散してしまっていた。連隊長の発した解散命令を、北東門を固める朝鮮兵は実行しないはかりか、却って、彼は指揮官ではない、ここで命令できるのは日本人教官だけだ、と言った声すらも聞かれる始末だった。宮中では、日本軍と朝鮮軍の兵士によって王宮が包囲されたことが明らかとなるや否や、国王は前の農商務相李範晋に米国とロシアの公使館へ駆け込み、救援を求めるよう命令した。西壁に登った李範晋は、その前面が兵士で充満していたので、ここから気付かれずに下りるのは不可能と断じた。そこで彼は、城壁の南東隅にある塔によじ登った。この場所には、僅かに二人の日本兵が守備についているに過ぎなかった。李範晋は、彼らが遠ざかる頃合いを見計らって壁から飛下り、片足を挫いてしまったにもかかわらず、駆け出して逃げていった。米国公使館近くに差しかかった時、彼は最初の銃声を聞いた。破れた召使いの衣服を纏った李範晋がロシア帝国公使館に駆け込むや、彼は僅かな語彙を駆使して次のように訴えた。日本人が宮中において、恐らくは王妃の殺害を目指して、虐殺を重ねており、国王はロシアと米国の代表が救援に駆付けてくれることを切望している、と。
ところで午前四時過ぎ、最初の銃声を合図に数名の日本人が、差掛け梯子を伝って王宮の壁を北側からよじ登った。南壁をよじ登った老たちが銃撃で歩哨を追い散らして、正門を開けたので、正門の外に待機していた朝鮮兵が怒涛のごとく乱入した。一万、北門を押し破って侵入した日本軍や朝鮮軍の兵士らは、差掛け梯子を用いて北の小門を乗越え、銃撃によって宮中の衛兵を追い散らした後に、門を開放して、王宮の北の部分を占拠した。王宮の中央部は日本人将校指揮下の朝鮮兵部隊が陣取り、国王の居間では、庭園に出る扉と宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに、日本兵が二名ずつ立哨していた。王妃の離れが所在する中庭は、平服に軍刀を帯びた日本人で充満していた。彼らの何人かは、抜き身の刀を手にしていた。この群団の指揮者もやはり、長い短剣を帯びる日本人だった。彼らは戚声を上げつつ中庭を走り回って、王妃の所在を聞き出せると判断される人々を捕まえては打擲するも、誰一人として彼らの求める情報を与えた者はいなかった。王妃が女官の間に身を隠しているに違いないと考えた日本人たちは、か弱い宮廷婦人を手当たり次第に殺しだした。官内大臣が日本人らに向かって飛出し、彼らと王妃の間に立ちはだかって、諸手を挙げて慈悲を請うたが、日本人らは軍刀を振りおろして、彼の両手を切り落とした。彼は血を流しながら崩れ落ちた。日本人らは婦人たちに襲いかかり、王妃の引渡しを要求するのだった。王妃と全ての女官たちは口裏を合わせて、王妃がここには居ないと答えていた。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって彼女が廊下へ逃げだすと、l人の日本人が脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえるや床に投げ出して、彼女の胸に足を載せて三回はど踏みつけたあげく、刺し殺した。しばらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林へ運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。1895年11月26日の流血劇は、こうして幕を閉じた。恥じ知らずという点では、歴史上に前例のない出来事が起きたのである。異国の人々が平時に、かの国の軍隊の庇護下に、はたまたその指揮下に、そして、恐らくは外交使節さえも関与の上で王宮内へ大挙して閲入し、王妃を殺害して、その遺骸を焼き払い、卑劣なる殺人や暴行の限りを尽くしたあげくの果てには、この上なく恥じ知らずな遣り口で、衆目の注視する中で遂行されたことを(彼らが犯罪の実行直後にほとんどいつも行なっていたように)敢えて否定したような事例が、かつてあったであろうか。
日本人らが自らの虐殺を実行していた頃、南門からは日本軍兵士とともに大院君が、そして彼とほぼ同時に日本の三浦公使も王宮に入った。彼らは直ちに王の許に赴き、王妃からその称号を剥脱し、平民の身分に降格させることを宣する布告に署名するよう迫った。激怒した国王は両手を差出して、自らの指を示しながら次のように言った。「これらの指を切り落とし給え。そして、もし指どもが望むならば、諸君が余に要求することについて署名させ給え。だがそれまでは、余の手は決して、そのようなことを為きぬであろう」
 忌まわしい王妃殺害からしばらくして当初の大混乱が鎮まった頃、ロシアと米国の代表、国王の臥問や側近たちが王宮に到着した。その日のうちに全ての外国代表が参集して会議が開かれ、その席で日本公使には、日本軍兵士が王妃を殺害し、また一部の部隊は11月25日から26日にかけて、大院君を郊外の住居からソウルの王宮まで護衛したとする告発に対する釈明が求められた。とどのつまりは、日本政府がロシア政府へソウルで起きた騒動については深い遺憾の意を表明し、わが国の駐ソウル代理公使と共同歩調をとるべく訓令された全権代表を調査のためソウルへ派遣した、というのがその結末だった。
注、私はこれらの諸事件を目撃したわけではないが、それらは後続の諸事件とも非常に密接に結びついており、人々の記憶にも生々しく生き続けており、また1896年1月30日の政変に僅かに先立って発生していることから、話の完全さを期するためにこれらを紹介するのもそれなりに有意義と考える。
上記は1895年から1996年に朝鮮旅行したカネイェフ大佐とその助手ミハイロフ中尉らの手記です。
感想
「話の完全さを期するため」とあるから事実その通りだと思う。この事件は日清戦争のおわった直後に、当時の韓国駐在、三浦梧楼公使と、熊本県人を主体とする民間壮士たちの手で行なわれたものだが、堂々と公使が指揮をとって王妃を殺してしまったのだから、いくらナショナリズムの19世紀といえど、同時の日本の指導者の意識の文明度が分かる。かって、占領下の日本に連合国軍最高司令官として君臨したマッカーサー元帥は、米国に帰ってすぐ、日本人のことを「12歳の少年のよう」と語って、日本国民を憤慨させたことがあったが、冷静に考えて見てば、マッカーサー元帥が言うたことは真実かも知れん。