南京虐殺

南京と通州の悲劇
昭和十三年四月の初めであつた。
当時私は朝鮮羅南の山砲二五の連隊長をして居た。ある日三月の異動で、成興の歩兵七四の連隊長となった長勇大佐が私を訪ねてきた。師団司令部で行われる恒例の団隊長会議に列席するために羅南に来たからである。
長氏は嘗て参謀本部で同一の課に勤務したことがある、熟知の間柄である。氏は三月事件や十月事件の事実上中心人物であり、無類の乱暴者だとの異名が高かつた。その性格は外面の豪放なるに似ず、世上の毀誉に極めて敏感な頗る功名心の強い反面があつた。その最大の欠点は正邪を問はず苟くも自己が是と信じたことは如何なる悪辣なる手段を以てするも貫き通そうとする反省なき実行家であつた。
氏は私に対しては一歩を譲って居た。それは氏が若き日に女色に溺れ私に救はれたことがあつたのと、私が腕力に於てはるかに氏に勝って居たことがその主なる理由である。故に氏は私に対してはあまり氏独得の大言壮語は敢てしなかつた。
団隊長会議は三日間に亙って行はれた。此間氏は私の官舎に宿泊し、私は彼と起居を共にした。私はこの間驚くべき事実を彼の口から聞いたのである。それは世界を驚倒せしめた南京附近に於ける中国人大量虐殺の真相である。
彼は或る日私に語った。曰く
「南京攻略のときには自分は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であつた。上海附近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り、鎮江附近に進出すると、抗洲湾に上陸した柳川兵団の神速な進出に依って退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた。この多数の捕虜を如何に取り扱ふべきやは食糧の関係で、一番重大な問題となつた。
自分は事変当初通州に於て行はれた日本人虐殺に対する報復の時機が来たと喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電信に依り伝達した。
命令の原文は直ちに焼却した。
この命令の結果、大量の虐殺が行はれた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言ふ訳にはいかなかつた。
自分は之に依って通州の残虐に報復し得たのみならず、犠牲となつた無辜の霊を慰め得たと信ずる」
と。私は始め自分の耳を疑つた。そしてこの長氏の言葉を長氏一流の大言壮語と見てこれを信じないことにした。
終戦後私は種々な関係から、南京周辺に於ける日本軍の残虐行為の全貌を知ることを得た。そして如何にしてかかる大量の虐殺が行はれたかを検討して見た。その結論として私は嘗て朝鮮羅南に於ける長氏の言の真実なることを肯定せざるを得なかつた。
以上は田中隆吉元陸軍少将が述べているもので、30万近くの人々が犠牲になったと思う。

これを証明する証言

松井大将の専属副官だった角良春少佐で、『偕行』シリーズ(14)(昭和六十年三月号)で大要次のように証言している。
「十二月十八日朝、第六師団から軍の情報課に電話があった。
『下関に支部人約十二、三万人居るがどうしますか』
情報課長、長中佐は極めて簡単に『ヤッチマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い松井司令官に報告した。松井は直ちに長中佐を呼んで、強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事をした。
ところが約一時間ぐらい経って再び問い合せがあり、長は再び『ヤッチマエ』と命じた」

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。
とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。
命令が出てなかったらこっちはしませんよ。
角良晴少佐証言


(「最後の殿様」P170〜P173)
日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでい る。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれ こんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、
「人を殺すのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田く んにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
と厳重に口どめしたという。

王妃惨殺事件

1894年、日清戦争が勃発し、その開戦まえ、日本人はなんの理由もなしに中国の貨物船を撃沈させ、乗っていた1200名を無残にも殺傷するという蛮行をはたらいた。その後、あのむごたらしい旅順港の大虐殺がりひろげられたのだ。日本の蛮行はこれにとどまらなかった。
1895年10月8日午前四時過ぎ、日本人壮士たちは、宮殿の庭に押し入り、戸をこわして王妃の部屋に侵入した。宮内大臣李耕稙は彼らを阻止しようとしたが、たちどころに殺害された。彼らは、ふるえながら逃げまわる官女たちをつかまえ、頭髪をつかんで振りまわし、殴打して、王妃の所在を言えと強要した。彼女らは、うめき泣きながら、自分たちは知らないと言いはった。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって廊下へ逃げだすと、脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえるや床に投げ出して、彼女の胸に足を載せて三回はど踏みつけたあげく、めった切りにし、殺害した。それでも足らぬとばかりに、王妃を近くの林へ運び出し、死体に揮発油をかけて焼いてしまった。
1895年の流血劇は、こうして幕を閉じた。恥じ知らずという点では、歴史上に前例のない出来事が起きたのである。異国の人々が平時に、かの国の軍隊の庇護下に、はたまたその指揮下に、そして、一国の外交公使さえも関与の上で王宮内へ大挙して乱入し、王妃を殺害して、その遺骸を焼き払い、卑劣なる殺人や暴行の限りを尽くしたあげくの果てには、この上なく恥じ知らずな遣り口で、衆目の注視する中で遂行された事例が、かつてあったであろうか。この事件は日本の三浦公使の命をうけた在ソウルの日本守備隊・日本人官吏・巡査、それに岡本柳之助ら数十名が起こしたものだ。「是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナッタ。モウ安心ダ」と三浦梧楼領事が語ったと京城駐在一等領事内田定槌が証言している。
いくらナショナリズムの19世紀といえど、日本政府を代表する公使が直接計画し、指揮して起こしたものだが、当時の意識の文明度が分かる。かって、占領下の日本に連合国軍最高司令官として君臨したマッカーサー元帥は、米国に帰ってすぐ、日本人のことを「12歳の少年のよう」と語って、日本国民を憤慨させたことがあったが、冷静に考えて見てば、マッカーサー元帥が言うたことは真実かも知れん。

日本のいちばん長い日

「日本のいちばん長い日」の作中では、昭和天皇が降伏を決定した8月14日正午から、天皇自ら玉音放送で国民に終戦を知らせた8月15日正午まで、この24時間に起きた事件や人々の葛藤を描いている。しかし大事な事実が欠落している。実際は次の通りである。
8月14日早朝、米国磯は大量のパンフレットを東京に投下します。これには今までの経過が印刷されていて、日本国民は、政府が隠していたことを知ったのである。ポツダム宣言が外務省で短波受信された翌28日、戦争推進に都合の悪いものは削除されたり、改竄して各新聞紙上に発表されていた。
8月14日早朝のことを木戸は、次のように述べています。
「私の補佐官がパンフレットの一枚を拾ったと言って私のところに持って来た時、私は起こされたばかりで、朝食を済ましていなかった。このパンフレットは東京一帯にばらまかれ、その一部は宮城の中の庭にも落ちた。情勢は重大であった。軍人は降伏計画について何も知らなかった。彼等がそのパンフレットを見たら何が起こるか分らないと思った。この状況に驚いた私は宮城に急行し、天皇に拝謁を仰せつかった。8時30分頃であった。私は天皇に首相を謁見せられるよう奏請した……」
天皇は早速事態の急を知り、鈴木に伺候するよう命じた。首相は木戸が天皇に拝謁している間に、宮城に到着していた。木戸は鈴木に状況を説明し、最高戦争指導会議を開く準備があるかどうか尋ねた。
木戸は、「……首相は垂高戦争指導会議を開くことは不可能である。それは陸海軍の両方が降伏について考慮する時間をもっとくれと要求しているからであると答えた。ここで、私は首相に緊急処置を講じなければならないと言った。私は戦争を終結に導くため、閣僚と最高戦争指導会議の合同会議を開くことを提案した。その後、首相と私は天皇のところに行き、そのような会議を命令されるよう奏請した。首相と内大臣が一緒に天皇に拝謁を賜ったのは始めてであった。このようなことはこれまでになかった」と述べている。そして天皇は全閣僚、枢府議長および最高戦争指導会議の全員に午前10時半に参内するように命じた。それに先立ち10時20分天皇杉山元・畑俊六・永野修身の三元帥を召致し、「皇室の安泰は敵側に於て確約しあり…大丈夫なり」と述べ、回答受諾について「元帥も協力せよ」と命令した。天皇自身が召集する御前会議は午前11時50分頃から宮中の防空壕で開催され降伏が決定されます。
日本が8月14日の天皇の命令が行われるまで、戦争が終結しなかった理由は、戦争犯罪人の処罰も日本側で行うという、武装解除は日本側で自主的に行う、保障占領は行わないという条件を主張していたからです。一般的に「一撃を加えてより有利な条件を引き出す」ため「有利な条件」とは、このことです。この中で「戦争犯罪人の処罰も日本側で行う」ということが、天皇も最後の最後まで拘っていたからこそ、この日まで戦争の終結をみなかったのです。

参考
「なお木戸に突っ込んで、一体陛下の思召はどうかと聞いたところ、従来は、全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ、それをやるようなら最後迄戦うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇連が出てくるとの御意見であった。
そこで陛下の御気持を緩和するのに永くかかった次第であるが、最近御気持ちが変った。二つの問題もやむを得ぬとのお気持になられた。のみならず今度は、逆に早いほうが良いではないかとの御考えにさえなられた。
早くといっても時機があるが、結局は御決断を願う時機が近い内にあると思う、との木戸の話である。(高木惣吉『高木海軍少佐覚え書』

終戦に手間取るあいだにも国民の犠牲は増え続けていた。14日から15日早暁にかけてB29二五〇機が七都市を焼夷弾攻撃し、高崎、熊谷などが全焼して数千名が死傷します。
天皇や木戸らは、国民が真実を知ることにより「民心の悪化」を恐れ、アメリカではなく国民に対して「国体」の危機を感じとっていたのでしょう
ポツダム宣言では、連合国は日本人を民族として奴隷化したり、国家として破壊する意志はないことをうたっている。そして、言論、宗教、思想の自由を、人間の基本人権と同様に尊重させるようにする、と言明している。また日本を支配して来た無貴任な軍国主義が、完全に一掃せられる時は、日本に経済を支える工業を維持し、国民に平和な生産的な生活を営ませることを許可すると保証を与えています。ポツダム宣言は日本が降伏する上において国民にとってはもってこいの条件であったのです。ところが、国民にはポツダム宣言を改竄して知らしめています。ポツダム宣言が外務省で短波受信された翌28日、戦争推進に都合の悪いものは削除されたり、改竄して各新聞紙上に発表されます。ところがそれにもかかわらず加瀬俊一氏は当時の状況を、次のように書き記している。
「一般の感想は、予期よりも遥かに寛大な条件であるということだった。国民は戦争に疲労し、軍部に不満であったから、宣言を密かに支持し始めた。この宣言受諾によって、祖国が全滅から免れ、国民が軍部の圧政から解放され、直ちに平和と生活が回復されるのならば、このくらいの代価は己むを得ないではないか」 (加瀬俊一ミズリー号への道程)

アメリカからのポツダム宣言の原文を見る限り、復讐的なものから遥かに離れて日本が降伏する上において、決してそんなにきつい条件ではなかったのです。
日本が降伏を拒んだ理由はポツダム宣言十条にあります。ポツダム宣言十条「われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようと する意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人 に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的 傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想 の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない」のなかにあった「われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える」一文があったからです。もちろんこの十条も国民に対して改竄して知らしめています
どうせ処罰されるなら最後まで戦う、ということが本音で、「国体の護持」は降伏をしない名目であったのです。そして、戦争終結を望んでいた人々も「国体の護持」はそれを主張するための名目になったのである。
加瀬俊一は次のように述べている。「独断専行の軍部は依然として国家の運命を勝手に操っていた。彼らは闘争をあきらめるという考え方を一瞬たりとも抱こうとせず、そんな考えを頑強に拒んだ。しかし彼らの信念ととも、急速に崩れ去りつつあることは誰の目にも明らかだった。ドイツは脱落した。…・戦争継続がまったく無駄なことはもはや常識だった。にもかかわらず軍は継続を欲した。軍の立場はまさに絶望的だった。‥‥敗北が目前に迫りながら軍部指導者は狂気のように国民を最後の戦いに奮起するようあおり立てた。どうせ自ら滅びるならば、国民をもその道連れにしようとしたのだ」

参考
「かやうに意見が分裂してゐる間に、米国は飛行機から宣伝ビラを撒き始めた。 日本『ポツダム』宣言受諾の申し入れをなしつゝあることを、日本一般に知らせる『ビ ラ』である。 このビラが軍隊の一般の手に入ると『クーデター』の起るのは必然である。
そこで私は、何を置いても、廟議の決定を少しでも早くしなければならぬと決心し、 十四日午前八時半頃、鈴木総理を呼んで、早急にに合議を開くべき命じた。
陸軍は午后一時なら都合がいい、と云ふ、海軍は時刻は明瞭でなかった、遅れては ならぬので、こちらの方から時刻を指定して召集することと、し午前十時としたがいろ いろな都合で十一時ときめた。
陸海軍では、会議開催に先〔だ〕ち、元帥に合って欲しいと云ふから、私は皇族を除 く永野、杉山、畑の三元帥を呼んで意見を聞いた。 三人ともいろいろな理由を付けて、戦争継続を主張した。
私〔が〕今、もし受諾しなければ、日本は一旦受諾を申入れて又、これを否定する事 になり、国際信義を失ふ事になるではないか、と彼等を諭している中に会議の時刻が 迫ったので、そのまま別れた。
午前十一時、最高戦争指導合議と閣議との合同御前合議が開かれ、私はこの席 上、最後の引導を渡した訳であるーーー」『昭和天皇独白録』

昭和天皇の戦争責任

日本史(現代史)
著者:纐纈 厚、出版社:新日本出版社
 戦前のジャーナリズムには、天皇、革命、セックスという三つのタブーがあった。このうち、戦後に残ったものは天皇のみであった。
 たしかに、革命なんて今どきありふれた言葉になっていますね。もっとも、それは社会主義革命というものではなく、単なる変化をオーバーに言ったに過ぎないつかわれ方のようですが・・・。セックスなんて、どこまで隠されているのか、今やまったく分かりません。では、天皇タブーは続いているのか。
 毎週のように週刊誌では今も雅子さんバッシングが続いていますよね。病気になった雅子さんを、もっと温かく見守ってやったらいいと私なんか思うのですが、毎回毎回、容赦なく暴きたて、叩いています。あれって、女性天皇、女帝を認めないためのキャンペーンだという指摘がありますが、まさしく意図的なものですよね。皇室が自分の意のままに動かないときには断乎許さないぞという右翼の一潮流のキャンペーンなのでしょう。これも、やはり天皇タブーの変形の一つなのでしょう。
 このところ、昭和天皇の「聖断」によって軍部の独走を抑えて終戦にもちこむことが出来た。昭和天皇は平和を愛する平和主義者だったのだという論調がマスコミの一部にすっかり定着した感があります。しかし、それって本当でしょうか・・・。
 この本は天皇の「聖断」なるものが、まったくの虚構であることをしっかり暴き出しています。格別目新しい事実ではありませんが、昭和天皇を平和主義者とあがめる昨今の風潮に水を差すものであることは間違いありません。
 昭和天皇がしたことは、「聖断」でも英断でもなく、国体護持つまりは自己保身のために不決断を繰り返したということ。これが本書の結論です。この本を読むと納得します。
 アジア太平洋戦争は、天皇の戦争として開始された。天皇とその周辺によって、その最初から最後まで、統制された戦争であった。天皇の意思と命令によって開戦し、天皇の意思と命令によって「終戦」、つまり敗戦した。ただし、終戦決定過程における天皇の不決断は、大いなる戦争犠牲者をうみ出した。
 昭和天皇は敗戦後の回想において、東條英機の「憲兵政治」について、「軍務局や憲兵が東條の名において勝手なことをしたのではないか。東條はそんな人間とは思わぬ。彼ほど朕(ちん)の意見を直ちに実行に移したものはない」
 東條は数多くの高級軍事官僚のなかでも、天皇への忠誠心が際だって厚く、その東條に昭和天皇は最後まで深い信頼感を抱いていた。
 東條に日米開戦時の戦争指導内閣を担わせ、この忠実な軍事官僚であった東條を通じて政治指導および戦争指導を進めてきた昭和天皇は、最後まで東條に未練を残していた。昭和天皇は、原則的には明確な戦争維持論者であり、これまでと同様に東條内閣の下で進められることを期待していた。
 昭和天皇は、レイテ海戦における海軍特攻機の投入とその過大に伝えられた戦果について、「そのようにまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」と感想を述べた。
 昭和天皇は、特攻機による攻撃など、捨て身の戦法までつかって米軍に一撃を与え、少しでも有利な「終戦」工作条件づくりのなかで戦争終結にもちこもうとしていた。
 米軍が沖縄に上陸したあとの4月3日、昭和天皇は、参謀総長に対して、「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか。兵力が足らなければ逆上陸もやってはどうか」と、持久戦法ではなく、積極攻勢に出るよう要求した。
 昭和天皇終戦工作に関心をもち始めたのは、5月に入って、沖縄で日本軍の敗北が決定的となり、5月7日にドイツが連合軍に無条件降伏してからのことである。
 「聖断」のシナリオは、日本の国土と国民を戦争の被害から即時に救うために企図されたものではない。ただ、戦争における敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任を棚上げにするために着想された一種の政治的演出にすぎない。
 もし国民のためだったのなら、即時の戦争終結が実行されてよかった。日本政府は、国体護持の確証を得ようとして、その一点だけのために2ヶ月以上の時間を費やした。
 昭和天皇の「聖断」が8月13日ではなく、もっと早くされていたら、4月1日の沖縄への米軍上陸と沖縄戦はなく、「鉄の暴風」と呼ばれた壮絶な戦いのなかで15万人もの死者を出すことはなかったはず。昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと」と周囲からの終戦のすすめを一蹴してきたのだった。昭和天皇の戦争責任は重い。
 私は、今の平成天皇昭和天皇の戦争責任を十分に自覚しているのではないかと受けとめています。しかし、周囲がそのことを率直に認めさせないようです。

直隷決戦

旅順の占領は、日本軍の次の作戦をどこに指向するかの問題を提起します。伊藤首相は、清国が降伏しなければ、直隷決戦もやむをえないと決意しますが、しかし、他方では列強の動向から一、二カ月のうち終局に到ることを希望します。
実際、冬季であるうえ、兵站線の確保が容易でないので、大本営は、占領地でそのまま冬営することを命じます。
講和が切迫した問題になってきたとき、伊藤首相は12月4日の「威海衛を衝き、台湾を略すべき方略」という意見書を大営本部に提出します。
これによれば、伊藤は、第一に、直隷作戦に成功し、北京を攻略したならば、「清国は満廷震駭、暴民四方に起り、土崩瓦解ついに無政府となるべきは、即ち中外の声をもたらして唱道する所」である。それゆえ「列国はおのおのその商民を保護するうえにおいて、利害の関要もっとも痛切なるより、勢い合同干渉の策を施さざるをえざるの勢いに至らしむべきや必然」 であり、直隷作戦の実施は「みずから各国の干渉を招致する」ものである。第二に、冬の直隷作戦ほ「壮は壮なりと錐ども、談なんぞ容易ならん。天寒氷結にむかい潮海に在て運輸交通を便利にするは至難の業」である。伊藤首相は、講和に不利な直隷作戦にかえて、遼東半島における冬営持久と、陸軍の一部と艦隊による威海衛作戦および台湾作戦を提案します。ところが、山県司令官は、積極的な冬季作戦を主張し、直隷決戦を決行するためには、背後の安全を確保する必要があると理由をあげ、独断で海城攻略の作戦を下令します。伊藤首相は病気治療の名目で召還する勅命をもって、山県大将を帰国させ、監軍に任命されます。

帰国して監軍となり大本営の軍議に参画した山県は「この両城は数万の人命を犠牲に供し、百難を排斥し万難を冒破して陥落せしもの」とあります。
参謀本部『明治廿七八年日清戦史』に、第六旅団は十一月二十三日、鴨緑江を渡り安東県に駐屯し十二月一日にいたって、はじめて海城攻撃の命令をうける。三日に安東県を出発、寒風で凍てついた行 路を遠く西北に進み、十二日にはすでに清国兵の退却した析木城に入る。そして翌十三日ついに海城を攻撃、城内に突入する。このはじめての戦闘は、寒風の吹 きすさぶ雪のなかで戦われ足が凍って棒のごとく、その寒気のほどは敵弾が身辺をかすめるよりきびしい、と山形中尉は評している。その中尉は右耳と両足に全 治一か月の凍傷を負ったのである。さらに十九日、未曾有の缸瓦寨の激戦では厳冬の夜間とあって、雪中の原野に広く点在する負傷兵の収容は困難をきわめた。 必死なうめき声が収容を求めて遠く近くの寒空にこだまする光景は凄惨そのものであったという。創傷はただちに凍結し、重い凍傷に転化する。きびしい寒気が 犠牲を大きくしたのである。その後、海城の守備にあたるが有力な清軍の重包囲に陥り翌年二月二十七日にいたる七〇余日間、反復五度の執拗な攻撃に耐える 「海城難戦」を戦い清軍を撃退する。この間、寒威凛烈、往々凍死する者もあり凍傷で耳や鼻が水色に腫れあがり、手足の指先を切り落とす者あり、糧食は乏し く梅干の大小を争い粥の濃淡を論ずる状況にあったという。

「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)

 「私はあまり近衛という人を信用できんのでね」と苦笑しながら、米内はたびたびもらした。

 また、「このあいだ近衛が来てね、何とかしてもらわなければ、こんなことでは心配でならぬというから、すこしばかり、私の考えを話したところ、それを芦田均という代議士に伝えたというので、人には注意してものを言えと教えてくれた友人がある。近衛はもとからそうであったが、どうも口が軽くて、うかつに話もできない」とこぼしていた。

 なお近衛公が最後まで同情をもっていた真崎、荒木、小畑などの皇道派にたいしては、米内最高の腹心であった井上次官が蛇蝎のように嫌っていたので、ここでも近衛、米内の橋渡しに障害となるものがあった。

 ところがサディズムの傾向があった関白(近衛公爵)は、他人の苦痛などいっこうに感応がなくて、「二十三日(二十年四月)重臣会議の後、米内大臣に会っていろいろ話を聞き、日本を救うはこの人をおいて無しと感じ、心強く考えるとともに目頭の熱くなるのを覚えた」と原田熊雄に書き送って、米内との連絡に一臂の力をかすように頼んでいる。

 近衛公爵は、米内、有田八郎元外相らが、熱湯を呑まされた気持ちなどは、とっくに忘れ去っていた。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎文藝春秋新社)によると、昭和二十年五月一日、ヒトラーは自決してデーニッツが総統になったが、二日にはベルリンが陥落した。

 ドイツは昭和二十年五月八日、遂に連合国に対して無条件降伏をした。日本は一国で連合軍を引き受けなければならなくなった。米内光政海軍大臣は「もうこうなれば大局上海軍の面目なんか超越して考えねばならぬ」と側近に洩らしていた。

 昭和二十年五月三十日重臣会議が開かれ、米内海軍大臣も出席した。米内は重臣から何か権威ある発言でもありはしないかと、多大な期待をかけていた。

 だが、文官出身者は軍部出身者に気兼ねをし、軍部出身者は現役軍首脳の顔色を窺うだけで、時局打開の具体的意見は遂に聞くことができなかった。

 会議はすでに散会しようとする。たまりかねた米内海軍大臣は突如「総理をさしおいて僭越であるが、国家の前途につき重臣各位のご意見を承りたい」と発言した。

 帰り支度にざわめいていた席が一瞬水を打ったように静まり返って、緊張の色がありありと列席者の面上に漂った。だが、遂に所見を開陳する者なく、後味の悪い思いを残して、そろそろと会議場を出て行った。

 この米内の一言を聞いて、東條英機(陸士一七・陸大二七)は「米内は終戦を目論んでいるのではないか」と強く受け取り、帰りに阿南惟幾陸軍大臣を訪ねて、陸軍の肝を聞こうとしたが、阿南陸軍大臣は不在だった。

 翌五月三十一日、鈴木貫太郎首相は左近司政三国務相(海兵二七・海大一〇)、その他一、二の国務大臣を交えて陸海両大臣と懇談した。

 そのとき、米内海軍大臣は「戦局の前途は全く絶望である。一日も速に講和するようにせねばならぬ」と力説した。

 これに対し阿南陸軍大臣は「今講和問題を取り上げることになっては、今日まで戦争完遂の決意を促してきた国民の気分を百八十度転回させねばならない。そんなことは到底できない相談である。殊に陸軍の中堅層を制御することは至難である。だからこの際は徹底的抗戦の一路あるのみだ」と主張した。

 軍部両大臣の意見は完全に対立したまま散会した。

 昭和二十年六月、宮中で最高戦争指導会議が開かれたが、軍令部次長・大西瀧治郎中将(海兵四〇)は、会議の一員でもないのに、会議の部屋に軍刀を吊って突然入ってきた。

 その様子は「和平の話し合いなら、叩き斬ってやる」と言わんばかりの態度だった。特攻を指導した大西中将は、戦争継続を主張していた。

 すると会議に出席していた米内海相が「大西君、君の出る幕じゃない。すぐ出て行きたまえ」とたしなめた。大西中将は、出て行った。会議が終わったあと、大西中将は、米内海相から改めて叱責され、涙を流して軽率さを詫びた。

 昭和二十年七月二十六日、連合国側は、ポツダム対日宣言を発表した。八月六日、広島に原爆が投下された。八月九日、ソ連が参戦し満州に向ってソ連軍が進撃を開始した。また、この日、長崎にも原爆が投下された。八月十日、御前会議でポツダム宣言受諾が決められた。

 八月十日夜、サンフランシスコの日本向け短波放送は、日本政府がスイスを通じて「ポツダム宣言受諾の用意成れり」と申し入れて来たというニュースを繰り返し流し始めた。

 ポツダム宣言受諾通告の出ていることを知った大西中将は「あと二千万人の日本人を特攻で殺す覚悟なら、決して負けはしません。戦争を継続させてください」と豊田副武軍令部総長(海兵三三・海大一五首席)に訴えた。

明治憲法

明治22年春、憲法発布せらるゝ全国の民歓呼沸くが如し、先生嘆じて曰く、吾人賜ゝの憲法果して玉耶(たまか)将(は)た瓦耶(かわらか)、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと)くなるやと。憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯(た)だ苦笑する耳(のみ)  「幸徳秋水「兆民先生」

「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのま!〕」と わたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱいと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもつていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。(菅沼龍太郎訳ベルツの日記 明治9年10月25日)

東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ奉祝門・照明・行列の計画、だが滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ。
 二月十六日 日本憲法が発表された。もともと国民に委ねられた自由なるものはほんの僅かである。しかしながら不思議なことに、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって悲憤慷慨したあの新聞がすべて満足の意を表しているのだ」(本書より)

明治藩閥政治家の功罪を論じて「憲法が發布されて以來、日本は道徳的には段々と悪くなった。特に政治家の堕落、愛國心の減退は最も著しくある。法律と繁育とで日本を改築しようとした薩長の政治家等の浅薄き加減今に至りて嗤ふに堪へたりである。伊藤井上など人生の深き事には全然沒交涉なりし政治家等に由りて作られし新日本が、今日の如く浮虛輕薄の國に成りしは敢て怪むに足りない」(大正八年十二月十一日日記内村鑑三)
更に「日本今日の文明は実に危險極まる文明である。此は基礎のない西洋文明である。そして斯かる危險なる文明を植附けた者は薩長政治家達である。日本今日の行き詰りはすべて玆に基因して居る。遠からずして彼等の位階勳章を悉く剝取らねばならぬ時が來るであらう」(大正十三年十一月五日日記内村鑑三) と太平洋戦争の敗戦の基因は薩長政治家達だと看破するような予言を下しています。

憲法天皇の政治的機能を曖昧にしたのは、天皇専制政治(元勲たち)のかくれみのにしたからで、権力機関としての役割を明示してはならんかった。だから、政党内閣を実現するためには、元勲らが亡くなると天皇機関説を立てる必要があった。

明治憲法は、明治14年の政変によって大隅伯の急進的な憲法を抑えるため、やむを得ず時間切れを警戒して、即席で作ったインチキ憲法で、内閣については憲法55条に規定があるだけで、この機関自体についての憲法上のその他の規定は定めず、超然内閣を宣言したのである。この伊藤のインチキ憲法のおかげで、戦争の道に向かう軍部の独走を許したことはよく知られているところです。