明治憲法

明治22年春、憲法発布せらるゝ全国の民歓呼沸くが如し、先生嘆じて曰く、吾人賜ゝの憲法果して玉耶(たまか)将(は)た瓦耶(かわらか)、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと)くなるやと。憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯(た)だ苦笑する耳(のみ)  「幸徳秋水「兆民先生」

「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのま!〕」と わたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱいと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもつていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。(菅沼龍太郎訳ベルツの日記 明治9年10月25日)

東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ奉祝門・照明・行列の計画、だが滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ。
 二月十六日 日本憲法が発表された。もともと国民に委ねられた自由なるものはほんの僅かである。しかしながら不思議なことに、以前は『奴隷化された』ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって悲憤慷慨したあの新聞がすべて満足の意を表しているのだ」(本書より)

明治藩閥政治家の功罪を論じて「憲法が發布されて以來、日本は道徳的には段々と悪くなった。特に政治家の堕落、愛國心の減退は最も著しくある。法律と繁育とで日本を改築しようとした薩長の政治家等の浅薄き加減今に至りて嗤ふに堪へたりである。伊藤井上など人生の深き事には全然沒交涉なりし政治家等に由りて作られし新日本が、今日の如く浮虛輕薄の國に成りしは敢て怪むに足りない」(大正八年十二月十一日日記内村鑑三)
更に「日本今日の文明は実に危險極まる文明である。此は基礎のない西洋文明である。そして斯かる危險なる文明を植附けた者は薩長政治家達である。日本今日の行き詰りはすべて玆に基因して居る。遠からずして彼等の位階勳章を悉く剝取らねばならぬ時が來るであらう」(大正十三年十一月五日日記内村鑑三) と太平洋戦争の敗戦の基因は薩長政治家達だと看破するような予言を下しています。

憲法天皇の政治的機能を曖昧にしたのは、天皇専制政治(元勲たち)のかくれみのにしたからで、権力機関としての役割を明示してはならんかった。だから、政党内閣を実現するためには、元勲らが亡くなると天皇機関説を立てる必要があった。

明治憲法は、明治14年の政変によって大隅伯の急進的な憲法を抑えるため、やむを得ず時間切れを警戒して、即席で作ったインチキ憲法で、内閣については憲法55条に規定があるだけで、この機関自体についての憲法上のその他の規定は定めず、超然内閣を宣言したのである。この伊藤のインチキ憲法のおかげで、戦争の道に向かう軍部の独走を許したことはよく知られているところです。