「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)

 「私はあまり近衛という人を信用できんのでね」と苦笑しながら、米内はたびたびもらした。

 また、「このあいだ近衛が来てね、何とかしてもらわなければ、こんなことでは心配でならぬというから、すこしばかり、私の考えを話したところ、それを芦田均という代議士に伝えたというので、人には注意してものを言えと教えてくれた友人がある。近衛はもとからそうであったが、どうも口が軽くて、うかつに話もできない」とこぼしていた。

 なお近衛公が最後まで同情をもっていた真崎、荒木、小畑などの皇道派にたいしては、米内最高の腹心であった井上次官が蛇蝎のように嫌っていたので、ここでも近衛、米内の橋渡しに障害となるものがあった。

 ところがサディズムの傾向があった関白(近衛公爵)は、他人の苦痛などいっこうに感応がなくて、「二十三日(二十年四月)重臣会議の後、米内大臣に会っていろいろ話を聞き、日本を救うはこの人をおいて無しと感じ、心強く考えるとともに目頭の熱くなるのを覚えた」と原田熊雄に書き送って、米内との連絡に一臂の力をかすように頼んでいる。

 近衛公爵は、米内、有田八郎元外相らが、熱湯を呑まされた気持ちなどは、とっくに忘れ去っていた。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎文藝春秋新社)によると、昭和二十年五月一日、ヒトラーは自決してデーニッツが総統になったが、二日にはベルリンが陥落した。

 ドイツは昭和二十年五月八日、遂に連合国に対して無条件降伏をした。日本は一国で連合軍を引き受けなければならなくなった。米内光政海軍大臣は「もうこうなれば大局上海軍の面目なんか超越して考えねばならぬ」と側近に洩らしていた。

 昭和二十年五月三十日重臣会議が開かれ、米内海軍大臣も出席した。米内は重臣から何か権威ある発言でもありはしないかと、多大な期待をかけていた。

 だが、文官出身者は軍部出身者に気兼ねをし、軍部出身者は現役軍首脳の顔色を窺うだけで、時局打開の具体的意見は遂に聞くことができなかった。

 会議はすでに散会しようとする。たまりかねた米内海軍大臣は突如「総理をさしおいて僭越であるが、国家の前途につき重臣各位のご意見を承りたい」と発言した。

 帰り支度にざわめいていた席が一瞬水を打ったように静まり返って、緊張の色がありありと列席者の面上に漂った。だが、遂に所見を開陳する者なく、後味の悪い思いを残して、そろそろと会議場を出て行った。

 この米内の一言を聞いて、東條英機(陸士一七・陸大二七)は「米内は終戦を目論んでいるのではないか」と強く受け取り、帰りに阿南惟幾陸軍大臣を訪ねて、陸軍の肝を聞こうとしたが、阿南陸軍大臣は不在だった。

 翌五月三十一日、鈴木貫太郎首相は左近司政三国務相(海兵二七・海大一〇)、その他一、二の国務大臣を交えて陸海両大臣と懇談した。

 そのとき、米内海軍大臣は「戦局の前途は全く絶望である。一日も速に講和するようにせねばならぬ」と力説した。

 これに対し阿南陸軍大臣は「今講和問題を取り上げることになっては、今日まで戦争完遂の決意を促してきた国民の気分を百八十度転回させねばならない。そんなことは到底できない相談である。殊に陸軍の中堅層を制御することは至難である。だからこの際は徹底的抗戦の一路あるのみだ」と主張した。

 軍部両大臣の意見は完全に対立したまま散会した。

 昭和二十年六月、宮中で最高戦争指導会議が開かれたが、軍令部次長・大西瀧治郎中将(海兵四〇)は、会議の一員でもないのに、会議の部屋に軍刀を吊って突然入ってきた。

 その様子は「和平の話し合いなら、叩き斬ってやる」と言わんばかりの態度だった。特攻を指導した大西中将は、戦争継続を主張していた。

 すると会議に出席していた米内海相が「大西君、君の出る幕じゃない。すぐ出て行きたまえ」とたしなめた。大西中将は、出て行った。会議が終わったあと、大西中将は、米内海相から改めて叱責され、涙を流して軽率さを詫びた。

 昭和二十年七月二十六日、連合国側は、ポツダム対日宣言を発表した。八月六日、広島に原爆が投下された。八月九日、ソ連が参戦し満州に向ってソ連軍が進撃を開始した。また、この日、長崎にも原爆が投下された。八月十日、御前会議でポツダム宣言受諾が決められた。

 八月十日夜、サンフランシスコの日本向け短波放送は、日本政府がスイスを通じて「ポツダム宣言受諾の用意成れり」と申し入れて来たというニュースを繰り返し流し始めた。

 ポツダム宣言受諾通告の出ていることを知った大西中将は「あと二千万人の日本人を特攻で殺す覚悟なら、決して負けはしません。戦争を継続させてください」と豊田副武軍令部総長(海兵三三・海大一五首席)に訴えた。